第4話 父との別れ、そして

 劉邦は何度もうなった。胡蓉を見ては額を押さえて考え込み、また彼女を見る。


「いや、それは。張良どののお言葉ではありますが、うむぅ」


「わたしもお断りです。だって、あと少し名刺を出すのが遅ければ、わたしはこの男に犯されていたのですよ!」


「それは謝る。勘違いなのだ。えらく地味だとは思ったが、その手の女なのかと」

「色々と失礼な奴だな。なんだ、地味とは。しかも、わたしの胸を掴んだ瞬間に萎えておったではないかっ!」

 胡蓉は、猫が毛を逆立て、しゃーっと威嚇しているような勢いで劉邦に迫る。


 一方の劉邦が猫であれば、耳を伏せ尻尾を股の間に挟んでいるだろう。

「もう勘弁してくだされ、胡蓉どの。ああ、そうだ。ならば訊きたい」


「胡蓉どの。ところで、この劉邦はこれからどのようにするのが良いでしょうか」

「はあっ?」

 急に真面目な顔になった劉邦に、胡蓉は当惑した。

「だったら、そこで首を伸ばして待っているがいい。叩き斬ってやるから」


 張良が苦笑を浮かべて取りなす。

「胡蓉よ。劉邦どのは軍の方針を定めたいと、そう仰っているのだ。そなたが思うことを聞いて頂くがいい」

 はぁ、と胡蓉は考え込んだ。こいつらが今、取り得る最善の策はなんだろうかと。


「軍の有様は、先ほど拝見した。あれでは自立は不可能だな」

「う、うむむ」

 劉邦は返す言葉もない。それは彼自身が一番良く分かっている事だからだ。


「兵は少なく武器は劣る。しかも規律など欠片かけらもない。あれは軍ではない、ただの野盗だ。死んだ方がましなくらいだ」

「そこまで酷いとは思っていなかったのだが」

「だったら、ちゃんと認識しろ。劉邦どのは彼らの頭領なのでしょう」

 は、はい。劉邦は娘のような少女に説教されて頭をさげた。


「すぐに、どこかの勢力に合流すべきだ」

 項梁こうりょうという男がいる。旧楚の将軍の家系だといい、彼の率いる軍は統制もよくとれている。参謀の笵増はんぞうをはじめ、部将にも有能な人材が多い。


 彼らは西進すべく準備を整えているらしい。加わるならこの軍だろう。

 本格的に始動していないこの時期であれば、まだ地歩を築きやすい筈だ。


 劉邦はふーんと大きく息をついた。

「名門か、わしには敷居が高いのぉ」

 図々しいくせに、卑屈な奴だ。

「なら、お好きなように。いまの状態では、秦の地方軍相手すら危ういぞ」

 貴様が滅ぼうが知った事ではないのだ。胡蓉は、ふんと顔をそむけた。


「分かった、その項梁という者の所に行く。まず使者を送り、合流したい旨を伝えさせるとしよう」

 劉邦は居住まいを正して言った。

 胡蓉は黙って頭を下げた。これは、意見を聞き入れてくれた者への礼であった。


「では参ろうか。胡蓉、いや張良どの」

「はあっ?」

 思わず胡蓉は大きな声をあげていた。

 なんで、わたしが。



「何にしても、その女子おなごの格好で来て貰う訳にはいかぬ」

「……どんな不埒者ふらちものがいないとも限らないからな」

「そうとも。むさ苦しい男ばかりだからの。わしは心配だ」

 胡蓉の皮肉は全く通じていないようだ。


「いや、ちょっと待て。わたしが加わる事が前提になっているではないか」

「なんだ。言うだけ言って来ないつもりか」

 劉邦は張良へ向き直り、深々と頭を下げる。

「子房どの。娘御を、いや張良どのをお借りしますぞ」

「よろしくお引き回しください」

 張良も頭を下げた。


 だから、ちょっと待てと言っているのだけれどもっ!


 ♂


「おお、よく似合っている。女子には見えぬぞ」

 相好を崩す劉邦に対し、着替えた胡蓉はふて腐れている。戦国期のちょう国から伝わった騎馬民族風の服装である。これは動きやすく、騎乗も容易なのだった。


「それは、ひとつも褒めておらぬよな」

 まるで、精悍な少年のような風貌になった胡蓉だった。


「あとは、胸が目立たぬよう布できつく巻けば」

 だが胡蓉に目をやった劉邦は、しばらくそれを見詰めた後、肩を落としてため息をついた。


 そうだったな、小さく呟き頭を振る。

 せっかく、わしが手ずから巻いてやろうと思ったのだが、と本気で落胆している。


「悪かったな。いらないんだよ、そんな物はっ」

 劉邦の背中に胡蓉の蹴りが炸裂した。それに、たとえ必要でもお前などに巻かせる訳がないだろうがっ!

 今日一番激怒した胡蓉だった。


「では、行ってまいります。父さま」

 張良は黙って頷いた。娘を招き寄せ、その頭をそっと撫でた。

 胡蓉もそれ以上言葉が出なかった。


「もう、いいのか」

 劉邦は外で待っていた。自ら席を外してくれたのだ。

「ああ。連れて行ってくれ、沛公どの」

 二人は馬車に乗り込んだ。屋根だけは付いているが、簡素なものだ。明らかに戦闘用だった。


 馭者の男が振り返った。やや小柄だが、がっしりした体つきだ。

「では、行くぜ、大将。しっかり掴まりなよ」

 しんみりした雰囲気を吹き飛ばすような明るい声でその男は言った。

「おれは夏候嬰かこうえいだ。よろしく頼むぜ、張良どの」

 

 馬車は劉邦の陣営に入った。

 簫何しょうか樊噲はんかいが出迎える。

「張良どのをお連れしたぞ。簫何、丁重におもてなししてくれ」

 すべてを察した様子で、簫何は頭をさげる。


 怪訝な顔なのは樊噲だ。彼も張良に会っている。もちろん張良は、こんな少年ではなかった筈なのだが。

「張良どのは病で動けぬ。今日からはこの方が張良どのだ」

 劉邦の言葉に、樊噲も状況を理解したようだ。


「だが、張良どの。お主は、あの時一緒にいた娘ではないのか?」

「いや、あれは。……そう。あれは、私の姉だ」

 胡蓉は狼狽うろたえながらも、辛うじて誤魔化した。


「おお、そうか。あんな、おっかない姉さんを持つと、お前も大変だよなあ」

 わははは、と豪快に笑い、胡蓉の肩をばんばんと叩く。

 くっ、こいつは紛れもなく劉邦の部下だ。がさつ過ぎるぞ。


「樊噲、無礼は止めなさい。申し訳ない、張良どの。では、宿舎に案内いたします」

 簫何が優しく微笑み、先に立って歩き出した。

 こうして胡蓉は、『張良』として劉邦の陣営に加わることになったのだ。


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