第2話 沛公、劉邦

 張良とその娘、胡蓉こようは秦の厳しい追跡を逃れ、姿をくらませた。

 彼らの行方は杳として知れず、その名前だけが世上に高く噂された。


 実は我こそは張良である、と密かに名乗るものも少なくなかったが、その多くはすぐに捕らえられ、車裂きに処せられた。

 このように、密告を奨励する秦の政治体制はまだ揺るぎないものと思われた。


 父娘はある街の有力者の許にかくまわれていた。

 張良を心から尊敬するその男は、二人を賓客としてもてなしていた。

 目を患う張良も、やっと落ち着ける場所に辿り着いたのだった。



「聞いて下さい、父さま」

 ある日、外出していた胡蓉が憤懣やるかたない表情で戻って来た。

 胡蓉は先ほど出会った老人について話し始めた。

 出かけた先の橋の上で、胡蓉は老人に絡まれたのだという。


「そこの美しいお嬢さん。兵法書に興味はないかのう」

 その老人は、実にいやらしい声で、彼女にすり寄ってきたのだ。


「ほう、それで?」

 普段と変わらない父の様子に、胡蓉は激高した。

「それで? ではありません。驚いたので、川の中に放り込んでやりました」


「おいおい、あまり目立つ真似をしてはならんよ」

 私たちは当分、陽の当る場所には出られない身なのだから。そう張良は苦笑した。

「まったく。あんな変な爺い、見た事がない」

 腕組みをした胡蓉はやっと怒りを収めると、首をかしげて考え込む。

 見た事が、ない。本当にそうか?


「そう言えば、どこかで見たような気がします」


「それに、川に落ちるときに何か言っていたけれど」

 胡蓉は記憶をたどる。

「明日、夜明け前にここで待っているぞ、胡蓉、とか言っていたような」


「ああっ!」

 胡蓉は大声をあげた。


 夜が明けきらぬうちに、胡蓉はその橋の上に立っていた。焦りの色が濃い。

 もしかしたらこのまま来ないのでは、と思った頃、その老人が足を引きずりながら現れた。頭にも布を巻き付けている。

「酷いではないか。かつての家庭教師たるこの儂を、よりによって川にたたき込むなどとは」

 老人は恨みがましい声で言った。胡蓉は平謝りするしかなかった。


「父上は息災かな」

 問われた胡蓉は、一瞬、答えに詰まった。

 それをどう受け取ったのか。老人は少し悲しげな表情になった。

「そうであったな。心配するな、儂はお主たちを売ったりはせんよ」


「違うのです、先生」

 胡蓉もこの老人の本名は知らなかった。ただ、周囲からは黄石公と呼ばれていた。

 まだ、彼女たちが韓の王宮で暮らしていた頃のことだ。

 彼女の祖父は韓の宰相を務めていたのである。何事もなければ、彼女の父、張良がその後を継いでいた筈だった。


「父は目を患っています。それに、最近は床に伏すことが多くなりました」

「そうか。やはり流浪の生活はあの男にはこたえるようだの」

 老人は革の袋を取り出して、胡蓉に手渡す。

「少しずつ呑ませてやるがいい。滋養の薬だ。あの男にはまだまだ長生きして貰わねば困るからな」

 胡蓉は小さく頷いた。


「もうすぐだ。もう間もなく秦の世の崩壊が始まる。その時こそ、張子房、あの男が必要とされるのだよ」


 老人は静かに言った。

 胡蓉は、韓の王宮が秦軍に蹂躙された日を思い出し、身体を震わせた。

 だが、くも強大な秦が崩壊するなど。

「そんな事があり得るのでしょうか」

 老人は答えず、謎めいた笑みを浮かべた。


 だが、その日は唐突に訪れた。

 陳勝という男が流民団を率い、秦に対して叛旗を翻したのだ。

燕雀えんじゃくいずくんぞ鴻鵠こうこくの志を知らんや」

 その男の言葉だという。反乱は一気に広がっていった。まさに、燎原の火の如く。


 胡蓉の心は揺れた。この軍に加わるべきではないか。そう思った。

 この邸の主も、兵を貸そうと言ってくれているのだ。

 だが、彼女は動けなかった。

 彼女の父、張良の病が重くなったからだった。もう起き上がることも困難になっていた。


 父のやせ細った手を胡蓉は両手で挟み込むようにした。

「胡蓉、お前だけでも征け」

 彼女は涙を溜めて、首を横に振った。

「わたしは、父さまと一緒でなければ、どこにも行きません」

 諦めたように、そうか、と小さく張良は呟いた。


 だが、さらに状況は一変する。

 反秦勢力によって膨れあがった陳勝の軍が壊滅したのだ。


 それはあたかも一夜の夢のようであった。

 秦の国都、咸陽を目指して突き進んでいた反乱軍だったが、突如出現した秦の正規軍によって跡形もなく撃ち破られた。


章邯しょうかん、というらしい」

 秦軍の総帥の名だけが伝わった。


 奇しくもこの頃から父、張良の体調が回復の兆しを見せ始めた。

 一人で床から身体を起こすことができるようにもなった。


 安堵しながらも、胡蓉は不思議に思った。

 あの老人からもらった薬がしばらく前に底をついてしまい、最近は服用していない。

 思えばその頃から父の健康が回復してきたような気がする。それは偶然なのだろうか。


 おかげで自分は陳勝の軍に加わる事ができず、その結果、無事だったのだが。


 ある日、この邸の主がうんざりした表情でやって来た。

「また反乱軍を自称している輩がやってきましたよ。隣町のりゅうに駐屯しているのですが、まあ、これが汚らしい連中で」

 やくざ者と百姓の集まりですな。なかには役人らしい男もいましたが。

「まったく、名目さえあれば人は集まるものですな」

 ははは、と主は力なく笑った。


「その連中の頭目は何という名でしょうか」

 張良が問う。主は首をかしげていたが、やっとその名を思い出した。


「確か、沛公はいこうとか言っておりました。沛公、劉邦りゅうほうだと」


 ほう。張良が表情を緩めた。

「面白そうだ。胡蓉、これを持ってその男の所へ行ってくれないか」

 彼が手渡したのは、一種の名刺である。

 胡蓉はその木片と父の顔を交互に見比べた。


 その日の夕刻。邸の前は急に騒々しくなった。

 十数人の男が邸を訪れ、張良に面会を請うた。その中の主だった三人が奥の部屋に通される事になった。


 床についたままの張良の前に、髭面で長身の男がひれ伏した。

「お初にお目に掛かりまする。拙者、劉邦と申す、つまらぬ男でごぜえます」

 男の顔を見た張良は眉を寄せた。目の周りに大きな青あざがあるのだ。

 後ろに控えているのは生真面目そうな小男と、それとは対照的な巨漢だった。


「高名なる張良殿にお目通りできました事、恐悦至極にて……」

 劉邦は急に黙り込んだ。

 剣呑な目付きの胡蓉が入ってきたのだ。彼女は劉邦をじろりと睨む。


 彼女はひれ伏す劉邦の前に立つと、右足をその男の頭に置いた。

 全く表情を変えず、ぐりぐり、と踏みにじった。

「あ、ありがとうございますぅ」

 劉邦は呻くように言った。


「これ、胡蓉。失礼であろう」

 静かな声で張良はたしなめた。

 いや、これを失礼で済ませるのもどうなのだ。控えている簫何しょうか樊噲はんかいは思ったが、まあ、それも仕方ないと諦める。


「この男は、いきなりわたしを押し倒したのですよ」

 そういえば肘のあたりに擦り傷ができている。

「ほう、それは聞き捨てなりませんが」


「へへーっ」

 劉邦は頭を擦りつける。どうやら顔のあざは胡蓉に殴られたものらしかった。


「そこを何とか、我が軍団においで頂く訳にはいきませんでしょうかっ」

 後ろの二人も一緒に頭を下げる。


 劉邦。出身地の名から沛公と呼ばれるこの男。

 後の漢帝国高祖。要するに初代皇帝となる男である。


 これが劉邦と張良、そして胡蓉の出会いだった。


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