兵書に淫する姫~少女軍師 張良~

杉浦ヒナタ

第1話 博浪沙の襲撃

 博浪沙はくろうさ、という地名は大地が波のようにうねって見えるところから名付けられたものだという。まさに黄河の氾濫によって作り上げられた地形である。

 波打つ砂丘の陰。いまそこに三人の男女が身を潜めていた。


 彼らの目の前には一本の街道がある。


 ある男の命により急遽拡幅されたとは思えない程、立派に整備されている。この男の威勢と、男が治める国の力を反映していると言えるだろう。


 国の名は『秦』。そしてその男の名は『嬴政』という。

 秦の初代皇帝、『始皇帝』である。


 途方も無い数の人馬。そして車が街道を進んで行く。遮るものの無い街道の端から端までそれらが埋め尽くしている。まさに一国の政治機能のすべてがここに集結し、移動しているのだった。


 その男が乗る巨大な車が、何頭もの馬に牽かれ、ゆっくりと進んで来た。

 周囲を威圧する、一際豪華な造りでそれと分かる。


「来ました!」

 街道の様子を伺っていた一人が短く言った。

 長い髪を後ろで束ねた少女。その目は鋭さと、強烈な知性の光を放っている。

「ですが、父さま……」

 彼女は砂丘の下にいる男に声を掛ける。困惑の色が浮かんでいる。

「副車が並行して移動しています。真横からは難しいかもしれません」


 彼は隣に立つ長身の男を見上げた。

胡蓉こようはああ言っておりますが」

 温和な表情で目を細めている。

 長身の男は肩をすくめた。整えられた口ひげといい、洒落者の雰囲気がある。


「ならば、副車ごと打ち抜くまで」

 男は馬で牽いてきた荷車に向かう。その荷台に掛けた布を取り去った。

 それは常識ではあり得ないほど巨大な『』だった。弓の部分を工夫して小さく収めてはいるが、矢は人の背丈三人分ほどの長さがある。矢の先端は破壊力を増すため、大きく広がったやじりが取り付けられていた。


 男は砂丘の切れ目にそれを据え付ける。下りてきた胡蓉も手を貸し、慎重に方向を定める。その遙か前方を車列が通り過ぎていく。

「方向はいいだろう。よし、巻くぞ」

 長身の男は把手を回し、弓を引き絞っていく。弩という武器の構造は現代のボウガンと近い。だが、あまりに巨大なこれは、歯車によって弓を引いているのだ。

 ぎし、ぎしという不気味な音が響く。

「項伯さま。壊れるのではないですか」

 少女が不安そうにのぞき込む。項伯はそれを制し、後ろへ下がらせる。


「おれの造ったものだ。壊れる限界は分かっているとも。だから、その寸前までいってみるのだ」

 項伯は得意げに言うと、手を止め、大きく息をついた。両手を振って、疲れた手の感覚を取り戻している。ついに巻き上げも完了した。


 始皇帝の行列が少し乱れ始めた。騎馬の兵士が列を離れ、こちらに向かって来る。

「気付かれたようです」

「ああ。だが、丁度良い。来たぞ、始皇帝の車だ」

「いきましょう、項伯どの」

「ああ」


 項伯は、限界まで引いた弓を固定している歯車の留め具を、思い切り蹴り上げた。


「うおっ」

 ぶおんっ、という音とともに、衝撃波が三人の身体を襲った。砂埃が舞い上がる。

「どうだっ?」

 項伯と胡蓉は思わず砂丘の前まで駆けだした。

 騎馬隊の上を飛び越えた長大な矢は、狙い違わず始皇帝の車の前に立ちふさがる副車を直撃する。車の上部構造が木っ端みじんに吹っ飛ぶのが見えた。

 そしてそのまま勢いを殺す事無く始皇帝の乗る車へ襲いかかったのだ。


 やったか。二人は同時に叫んだ。しかし。

 鋭い金属音とともに、矢は天空高く跳ね返されていた。車の装飾を幾許いくばくか削り取ってはいたが。

 その下から現れたもの。それは。


くろがねで装甲していたのかっ」

 項伯は吐き捨てた。

「すまん、張良どの。失敗だ!」


 張良は頷いた。目を細めたまま、特に落胆した様子もなかった。

「是非もありません。それでは逃げましょうか」


 張良は娘の胡蓉に手を引かれ、走り出す。彼はほとんど視力を失っていたのだ。

 彼らは川の畔に小舟を用意していた。さらに対岸に待たせた馬に乗り、二手に分かれ、それぞれの方向へ走り出す。


「さらばです、項伯さま!」

 胡蓉が大きく手を振った。

「またいつか会おう、張良どの、胡蓉どの」


 こうして、世に言う博浪沙の襲撃は失敗に終わった。

 だがこの事件により、秦帝国の威光にわずかながら、傷がついたのは確かだった。

 以後、張良と項伯の名は侠者の世界で絶大な力を持つものとなる。


 そして、これが秦帝国滅亡、そして漢楚の覇権争いに続く嚆矢こうしとなったのである。

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