2
4
学校の授業が終わると、今日うちにこないかとハルから誘われたので、ミズキは誘いに乗ることにした。
実は今までハルの家には行ったことがなかった。
ハルの家は全く想像できなかった。ハルは学校ではあまり人と関わりを持つことがなく、なんとなくその生活も少し変わっているのだろうか、と思いを巡らせたが、それは全く筋の通らない考えだ。
ハルとミズキはZ駅から反対に分かれて帰る。駅の向こう側にほとんど行ったことがないミズキは、ハルの家の場所など見当もつかなかった。
一度帰って準備をしてから行くことに決めた。
家についてカバンを下ろし、自室の椅子に腰を掛ける。力を抜いて落ち着こうとするが、心臓がドキドキと高鳴っていた。これからハルの家に行くことにとても緊張しているのがわかった。
突然電話が鳴り、びっくりして飛び上がった。いつになっても電話には慣れない。出ると、ハルから駅に来るように指示された。
今日は曇天で、太陽は見えなかった。梅雨の季節は雲を見る機会が多く、何となく鬱屈した気分になることも少なくない。
まだ午後三時半を少し過ぎたくらいで駅は人通りが少なかった。ミズキがハルを探していると、駅の真ん中の待ち合わせスポットのオブジェの前で一人たたずんでいる白い人がいた。
死装束、なぜかそんな言葉が浮かび上がる。
その人は地味な白いワンピースを身にまとい、白いヒールを履いている。全体の醸し出す雰囲気が白が圧倒的に優勢で、神聖さすら感じた。ただ艶やかな髪だけがそれ以外の要素だった。顔に目を移すと、眠ったように眼を閉じていた。
ハルだった。
見間違いではないかと思った。ハルはいつも制服を着ていて、その印象がとても強かったからだ。だが、ハルの私服を一度も見たことがないのだからそれも当然で、もしかしたら普段着がワンピースなのかもしれない。
オブジェの近くの通行人たちがハルの周りを避けて、だけどちらちら見ながら、不思議そうな顔で通り過ぎて行った。
ハルの真正面で、いつにもまして女性的で美しい輪郭とまつ毛に見惚れていたら、通行人の視線がミズキを突き刺すのが分かって、あわてて名前を呼んだ。
「ハル!」
やあミズキ、と眼をぱちりと開けて言った。
「家に行こう」
それだけを言って、何事もなかったかのようにすたすたと歩きだすハルを追って、ミズキは早足で歩き出した。
歩いて五分くらいのところに家はあった。
ハルの家は、ミズキが画面の奥でしか見たことがないくらいのぼろ住宅だった。
周りに住宅街はなく、敷地はそれなり広い。見渡すと敷地内は完全にミズキの知っている世界とは違っていた。肉眼で木造の家屋を見たのは初めてだし、その近くの石でできた井戸も初めてだった。井戸には立派な蓋が被さっていた。古い時代が舞台のドラマやアニメでよく見る屋敷のようだ。
「年季入っているだろ。うちはずっとこうなんだ」
今日では消滅したと思われていた引き戸をガラガラと鳴らしながら開けて、ハルは家に入っていった。
ミズキは放心してしまった。無機質な、スベスベツルツルした白い壁にしか触れたことがなかったからだ。玄関を入って木の廊下に驚き、障子に驚き、縁側に驚いた。
ハルが縁側に腰を下ろしたのを見て、ミズキも腰を下ろす。真正面には草の良く生えた広い庭と、林が見えた。
上品に座ったハルの横顔は逆光で少しの陰りを孕んでいる。緩やかな沈黙。ミズキは不思議と落ち着いていた。やがて、ハルが他人事のように言い出した。
「この家はうんと昔から僕の家族が住み続けていたんだ。今はこんなぼろ屋敷で貧乏だけど、昔は結構名の通った一族だったみたいだよ」
「こういう家、アニメや映画の中でしか見たことがなかった……」
そうだろうね、と答えてハルはミズキを見る。
「冬とか寒くなるから、さっさとほかの家みたいにすればいいんだよな。そっちの方が便利なんだろ」
ミズキはうんともすんともつかないような声を漏らした。
「一族のプライドかなんだか知らないけどこの家じゃないと許さないんだ。そんなプライド早く捨てちゃえばいいのに。まあ、もう一族は僕の家族しかいないけど」
ところで、とハルは言った。
「この前殺された人について調べてみたんだ。聞きたい?」
ミズキは沈黙していた。正直事件についてはどうでもよかった。ただ、ハルが話したいというのなら、話には真面目に聞くつもりだった。ハルは沈黙を肯定と受け取ったのか、またはどっちでもよかったのか、誰に聞かれるでもなく話し始めた。
「名前はミヤケキョウコ。僕たちと同じX高校の生徒で、僕たちの一つ上の二年生だった。上の学年では教員たちの間でかなり騒ぎがあったらしい。保護者達からクレームが殺到していて、先生たちがやつれているのが分かったって何人かの生徒は言ってた。それで、ミヤケは明るい元気な子で人当たりがよく、学業も優秀で優等生って感じの人だね。趣味は音楽鑑賞だそうで、特にピアノ曲が好きだったって友人だった人が言っていた。人に恨みを持たせるような子じゃないって」
「やっぱりうちの生徒だったんだ。それだと、人間関係のもつれを理由とした殺害には及びにくいってこと……?」
「まあそう判断するのが妥当かな。通り魔的犯行っていうことも考えられるけど、眼を抉ってそのまま心臓を何回も何回も執拗に指す意味が分からない。変なの。まるで狂人がやってるみたい」
ミズキは凄惨な死体の写真を思い出して少し気分が悪くなった。
「警察は優秀だからすでに犯人を特定しているんだろうけど、発表はしてない」
僕が分かったのはここまで、と言ってハルは空を見上げた。
ミズキは考える。
過去には金品や現金を狙った強盗殺人があったらしいが、高校生が高価な物を着けているわけないし、大多数の人間はLensによる決済が可能で、しかも生体認証されていないと決済はできないから金を目的とする意味がない。
ハルの言うように、これは気の狂った人間の仕業としか思えなかった。
いつの間にかハルは立ち上がって
「見せたいものがあるんだ」
と言って廊下を歩いて行った。
木の扉を開けてスイッチを押すと部屋が照らされた。
ハルの部屋らしいそこは、ほんのりと暖かい優しい光に照らされた過去の遺物で溢れていた。
部屋の中は何とも言えない古臭い匂いがする。部屋中に積まれた紙の束はどれもこれも黄ばんでいて、これらは何時頃生まれたものなのだろうと思った。
紙でできた本だ──。
ミズキは紙の本を見たことがなく、縁が茶色くなった本の手触りに驚いた。この家に来てから驚いてばかりだ。
「全部家にあったものなんだ。小説とか、分厚いよくわかんない本とか」
ミズキは近くの本棚を見た。
『春琴抄』『夢十夜』『シャーロック・ホームズの冒険』……、ミズキはかろうじてシャーロック・ホームズの名を知っているだけで、他は知らないものばかりだ。
「その本棚は最近読んだ本だよ。ねえ、狼少年って童話知ってる……。村の子供が『狼が来るぞ』って嘘をついて村人を揶揄っていたら、本当に狼がきて、村人は嘘だと思っていたから狼に襲われて死んじゃうんだ。怖いよね」
ハルが座った椅子の近くにブラウン管テレビを見つけた。その下にビデオデッキがあり、横に何枚ものビデオが積まれている。シールが貼ってあり、有名なオペラのミュージカルのものだと分かった。
この部屋は、すでに世界には忘れ去られた、時間の止まった部屋なのだ。過去の遺物がひしめき合い、僕たちを忘れないでくれと口もないのに語り掛けてくる不思議な世界だ。
「ハルがこういうの好きなの知らなかった」
ハルは言った。
「僕は嘘は嫌いだけど、虚構(フィクション)は好きなんだ。例えば夢とか本とか。僕たちが見る夢は僕たちが知っているのになぜか知らないことばかりが起こる。創作物には過去の思想や文化が反映されていて見ていて飽きないし、懐古的な嗜好を満たしてくれる。夢は自分の心象、創作物は作者の心象そのもの。特に後者なんて、自分が生まれる前に死んだ縁もゆかりもない人の心象を味わえるのはすごいことだと思わない……」
「ハルは今の文化や娯楽は嫌いなの……」
すこし考えて、ハルは答えた。
「嫌いじゃないよ。僕が嫌いなのは嘘だけ。今の文化や娯楽よりも過去のものの方が好きと言うだけのことだよ。ただ、食わず嫌いなのかもしれないけど」
ハルは右手を机の奥に伸ばし、何か操作した。ポロンポロン……と、静かなピアノ音が鳴り始めた。
「昔の音楽を昔のレコードで流してるよ。今はどこにも売ってないんだ」
ピアノ音は流れるように続いたと思うと、急に暴れたように激しくなったり、楽し気にはねていたり、音に感情が表れているようだった。
きれい、ミズキは呟いた。音楽と言えば携帯端末から流れる電子音しか聞いたことがなく、とっくに消えてしまった再生機器で流れる音楽が思った以上に良い音色を奏でていることに気が付いた。
曲が終わると、ハルはレコードを外し、別のものをセットした。
ヴァイオリンの音色がかすかに現れ、やがて意思を持った旋律が踊り始める。
ミズキは不思議に思った。なぜ音がこんなにも感情を持っているのだろう。
「かつての演奏というものは必ず人によってなされていた。今の音楽では考えられないだろ? コードで音を奏でて、声も合成された物、そこに人の手がほとんど入らないのは、寂しいよ」
なるほど、そうなのだ。今は作曲者による音楽データのコードが公開され、そのコードを入力すれば、自分の端末で音楽を再現できてしまう。ライブ用ならライブ用の、子守歌なら子守歌用のオプションを着けてしまえば、それは場面に応じた、きわめて実用的な音楽となる。だから、旧時代の音楽を聞いて、心に響いてくるように感じたときの衝撃はすごかった。それは演奏者の心が演奏に乗せられているからなのだと知り、ハルしか知らなかった感動を自分も享受できたことを嬉しく思った。
「実際の演奏を聞くともっと驚くよ。僕が弾いてみよう」
どこからか本物のヴァイオリンを取り出して立ち上がり、部屋を出ていく。
「待って」
ミズキは急いで追いかけた。
先ほどの縁側へ降り立つと、ワンピースの裾をつまみ上げ、
「本日は演奏会にお越しくださって誠にありがとうございます。心行くまで演奏をお楽しみください」
そう言ってヴァイオリンを肩に乗せた。
弓を弦に当て動かすと、細い音色が鳴り始めた。
その音を聞いた瞬間、ミズキは音色の中に悲しさを見出した。
音は泣くように透き通り、悲しそうに彼女を包む。流れる線。加速する孤独。世界は彼女を中心に青く染まり始める。変化は小さく、それでいてはっきりとわかるように感情を呈している。これは嘆きの旋律だ。つららのように透き通る淡々とした声を、ミズキの耳は優しく受け止めていた。なんて悲しい演奏会なのだろう。世界にはすっかり僕たちだけだと笑いかける退廃的な演奏だった。
ミズキはうっとりと聞き入っていたが、それはただ美しさに圧倒されてのことである。美しいから心が悦び、美しいから感動する。美以外の何の感情も浮かばぬ虚ろな眼をしている。
ぽつりぽつりと世界に雨粒が加わり、段々と彼女を濡らし始める。それでも乱れぬ演奏にミズキはさらに魅了された。雨は勢いを増し、すでに彼女のワンピースはしっとりと肌に張り付いてしまっているようだ。真っ黒な髪の毛の先から透明の雫が滴り、草木の上に落ちた。
悲しみと雨の世界から音が消えることはない。わずかな環境音と旋律の調和。ミズキは目を閉じて世界に溶け込んだ……。
演奏が終わり、ハルは縁側へ座った。
「ああよくないよくない。この楽器は雨に弱いんだ。ノリノリで弾いていたけど、これじゃバチが当たっちゃうね」
しかしミズキはそんなことなど気にせずに、率直に感想を述べた。
「すごくよかった」
「ありがとう」
思い返してみればハルの演奏はプロ並みに上手いというわけでも、天才が弾いているというわけでもなく、素人が見様見真似でなんとか習得したようなぎこちなさの残る演奏だった。しかしハルの演奏は、感情が精一杯込もったような演奏だったように思う。
ハルは濡れた髪をタオルで拭きながら再び部屋に戻った。
それからは何時間かをハルの部屋で過ごし、二人で楽しんだ。
ソファに肩を並べて体を沈めている。部屋は音楽が満ちている。ゆったりとした心地のいい空間だった。
そういえば、とハルは思い出したように言った。
「この町から出た有名人にカナメタツミって人がいたんだ。若くして天才的なピアニストだったんだけど、彼は二年活動しただけで急に表舞台から姿を消してしまった。去年海外で行われた国際ピアノ・コンクールで、一曲目が終わってから突然逃げ出すように舞台を去って以来ピアノを演奏することはなくなったらしい」
「どうして去ってしまったの」
「タツミくんは緊張しすぎると何事もダメになってしまう性格だったんだ。だから演奏会なんかに出る回数もかなり少なく、多くの音楽関係者は彼のことをもったいないと思っていたそうだよ」
そうなんだ、と言うとハルはプロっていうのは大変だよねと答えた。
帰り際に
「今度はミズキの家で最近の映画とか見てみたいな」
と言われ、何となくミズキは気恥ずかしくなった。
「じゃあね」
そう言って早足でハルの家を後にした。
すでに雨雲は消えて、月がくっきりと浮き出ていた。明日は満月だ、そう思った。
5
家に着くとミズキはカバンから何冊かの本を取り出して、ベッドに横たわりながら読み始めた。今日ハルから借りてきた本である。
国語の授業以外で小説を読んだことがなかった。アニメとか映画とか、絵の付いたものでしかストーリーを知らないミズキは、始めこそ読むのに慣れなかったものの、文字の世界に耽っていった。
ハルから借りたものを読むことはハルの知っている世界の一部を知るということであり、それはとても嬉しいことだと思った。
食事も忘れて何時間かをかけて読み終えたミズキは感情の激しい変動に少々疲れを感じ、いつもより一時間ほど早く寝ることにした。
そしてミズキはまた夢の世界へ墜ちていった。
そこは十九世紀末のイギリス、ロンドンのようであった。肌寒く息は白く変わる。また雨が降っていた。
洋風のクラシカルな雰囲気が街から感じられる。レンガ、煙突、誘蛾灯、敷き詰められたタイルはまさにシャーロック・ホームズの舞台であるような感じがする。
そうだ、さっき『シャーロック・ホームズの冒険』を読んだから私たちはこの世界にいるんだ。そう思うと、ハルは、その通りだよ、と答えた。
街を歩く男性は映画で見るような英国紳士そのものの服装である。黒のトップハットに外套、ステッキを持っている。
「そこの馬車」
目の前を走っていた馬車をハルが引き留めると、御者が近づいてきた。
「へい、お運びいたしましょうか」
「たのむよ、●×△へ」
耳が言葉を認識しなかった。不思議だなあと思った。
馬車に乗り込むと、少しの揺れとともに走り出した。
「この時代のロンドンはヴィクトリア朝といって産業革命の真っ只中だ。価値観の大変革が起きていて創作物は今までとは打って変わった装飾華美な物が多く、大衆に広く理解されるような作品も多く生まれた。また全体数が多ければ部分数も多いから、アバンギャルドなんていう理解されがたい賑やかな芸術も結構あった」
つらつらと語るハルの言葉を聞き流してハルの横顔を見つめていた。
オペラハウスに到着し、ハルが慣れたように扉を開けた。中からは小気味のいい軽やかな音楽が流れてきて、ドレスを着た女性とタキシードを着た男性が舞踏していた。
オペラハウスの内壁にはさまざまな絵が飾られている。綺麗なものからおどろおどろしいものまで沢山あった。
「ここは舞踏会だよ。さあ踊ろうミズキ」
いつの間にか着替えていた私たちは踊った。タキシードを着たハルが私の手を取って導いてくれる。ハルは中性的な顔立ちとタキシードは見事に調和して、遠目でみたら男性と見間違うだろう。踊り慣れているようにハルが私の手を引いてくれる。そのことにドキドキする。舞踏なんてしたことがないのに私はうまく踊れた。
「ニャア」
いつか見た黒猫が私たちの周りを跳ねまわっていた。私たちを中心に他の人たちも舞踏をする。私はハルと踊れるのが嬉しかった。
「ニャア!」
突然、黒猫は驚いたように飛び上がり、扉の方へ駆けて行った。どうしたのだろう? そちらへ目をやると、黒い影らしきものが大急ぎで扉を開け、逃げていくのが見えた。黒猫はその後を追っていった。
「待て!」
ハルも追いかける。何が起きたのかわからなかった。私がその後に続こうとすると、ドレスの裾を踏んづけて転んでしまった。裾をつまみ上げてのたのたと走っていく。ハルの姿を見失わない程度に早く走った。雨が冷たく感じられる。ドレスが雨でぬれてしまうのを構わずに足を動かした。
路地裏の曲がり角から、ニャア……と悲しそうな鳴き声が聞こえた。先ほどの黒猫の鳴き声である。よたよたと出てきた黒猫を見て、背筋がぞっとした。
血──。
猫が歩いた道に血の足跡が残る。私は猫が歩いていくのをじっと見つめていた。足が硬直していたから動くことができなかったのだ。
ぞわぞわと首筋に走る悪寒を堪え、何とか歩を進める。
路地裏には血だまりと、倒れたハルの体と、濃密な闇に嗤う影があった。
「だ、誰……!」
声が震えて、体がうまく動かなかった。その影はよく知っているようで、しかし決して知りたくないという生理的嫌悪を抱かせる。
ハルの死体を見下ろす。仰向けに倒れているハルの胸には刺し傷があり、血がどくどくと湧き水のようにあふれ出ている。
眼──。
眼は、ぽっかりと穴が開き、空洞の奥の肉に、一本の小型のナイフが突き刺さっていた。
──くり抜かれたんだ……! あのナイフで……!
恐怖と怒りが渦を巻き、それは吐き気としてせり上がってきた。あの影はまだそこに佇んでいる。
復讐心に駆られる。
私が殺してやる。
殺してやる。
殺して吐き気を収めなければいけない。
醜い感情だけを伴って近づいた。その影の顔を見て、私の脚は唐突に止まった。
その影は厭な顔をしていた。
雨の音が強かった。
瞬きの間にそこは学校になった。学校の廊下で、私とハルは腕を組みながら歩いていて、幸せな心地だった。
冬は日が落ちるのが早く、放課後の学校は窓から差し込む夕日に照らされていた。
すでにほかの生徒の姿はなく、私たち二人だけの世界となっている。
「帰ろうか、ミズキ」
「うん」
階段を下りて玄関へと向かう。階段を降りる音、床と上履きの擦れる音、細やかな息遣い、言葉、環境音だけで成立した儚い世界。
ここは私のよく知っている学校ではないようだ。いつもの学校よりも少し古臭く感じる。玄関を出て周りの建物を見るとやはり古い感じがした。
学校の門から坂を下っていく。夕日は沈みかけていて、空は紫から夕色への見事な階調(グラデーション)を成している。その上に、雲が夕日の逆光によって墨のようにべったりと塗られていた。雲と雲の合間には点々と星が散らばっている。
「あれ、オリオン座」
ハルが空を見上げていった。
オリオン座の形は本か何かで見たことがある。有名な星座だ。
空には他の星より特別明るく光る星が点在し、それを空想の線で結ぶと大きな砂時計が現れた。
はあ、と息を吐き出すと白煙のように上へと昇って行った。なぜ、冬に息が白くなるのはどこでも同じなのだろうと考えた。十九世紀ロンドンにいたころも息が白くなっていた。
踏切にさしかかるとライトが赤く点滅してカンカンとなり始めた。
カンカンと機械的になるこの音はなにかしらの催眠効果があるに違いない、私はそう考えていた。この音を聞くと少しぼうっとするからだ。
歩を止めたハルが口を開いた。
「僕が嘘を嫌いなわけを教えてあげよう。それは僕が君のことを好きだからだよ」
突然何を言い出すのだろうと思った。まったく文脈が合っていないし、ハルが私のことを好きなんて。好きをライクととらえるかラブととらえるか、そこが問題なのだろうか? でも嘘が嫌いなこととどうしても結びつかない。不思議な気持ちだった。
「そろそろわかってきたんだ。この夢は、僕が────────────」
僕が、何。
通り過ぎる電車の轟音に、私たちの間に満ちていた音は乱されて何も聞き取ることができなかった。
通り過ぎた後、強い風が吹いて髪が舞い上がった。
遮断機が上がるのと同時に再び歩き始める。
階段を上り、私は歩道橋の中央で立ち止まった。もう日が完全に沈みかける瞬間だった。ハルはミズキの先で、歩道橋の階段を降りようとしている。
「どうしてハルはそんなに誠実でいられるの」
私は唐突に訊いた。
本心からの言葉だった。私はハルが嘘が嫌いなことを知っていた。ハルが他人の嘘を許さないということは自分にも許さないということだ。決して嘘を吐くことがない彼女は昔から私の眼には誠実に映っていた。
彼女は他人に流されることがなく、個として自分を持っていた。
私は自分が嫌いだ。個などなく、なんとなく環境に流される埃のような人間だ。何者でもない自分が昔から嫌いで仕方がなかった。そんな私が彼女に好意を抱いたのは必然だ。私は私を私ではなくしてくれる相手が欲しかったのだから。
「それは、本心?」
「え……」
ハルは階段の目の前でこちらを振り向いて言った。
「君は君自身が変わるきっかけを僕に求めているんだろう。でもそれは本当のことかな。僕は、別に君に変わってほしいなんて思っていないから。ここはミズキの夢の中なのに、僕がそう思っているのは変じゃないかな」
「どういうこと……」
「つまり、君が僕に求めているのはこういうこと」
ハルは手を目の前にかざしたと思うと、力を込めて、自分の眼に指を突き刺して、抉り出した。さらさらとした鮮やかな血が滴り落ちる。
ハルはバランスを崩してフラフラと揺れると、階段を転がり落ちて、体中から血を流して、腕と脚を変な方向に曲げて、動かなくなっていた。
「ハル!」
どういうこと。どういうこと。どういうことなの。三回同じ言葉を繰り返し、私はその場にへたり込む。日はもう沈んでいるのに私の影がはっきりと見えた。階段の前に落ちた二つの眼球が、私を見つめているような気がした。
ミズキたちは森とも林ともつかない木々の合間を抜けて、見晴らしのいい小道を進んでいた。とても明るい夜だった。
進む方向から見て右手にはとても大きな満月が見える。月は全身を包むかのように大きく、青白い光を放っている。まるでファンタジィの世界のようだ。
私はハルと一緒に道を進むミズキを見ている。私は二つに分かれていて、私は影だった。私じゃないほうのミズキがハルの車いすを押しているのを、眼というスクリーンを通してみているようだった。
ミズキとハルを横から見てみると、二人は大きな月をバックに小道を歩いていた。二人は月明りでほんのりと白く光っているように見えた。
ミズキ、そう呼ぶ声が聞こえた。
「僕が誠実でいられるのはね、綺麗な世界しか見られないからなんだ。人が見る世界は人によってさまざまだ。僕はその世界が人よりすこし綺麗に映る。それだけ」
「そうなんだ、羨ましいな」
「できることなら見せてあげたいな。そうだ、僕が死んだら僕の眼を君に移植するといいよ。綺麗に見えるはずだ」
「なに言ってるのハル。縁起でもないこと言わないでよ」
クスクスと笑うミズキとハル。私は幸せそうな彼女たちをじっと見つめているだけだ。とても悔しかった。
彼女は眼が綺麗だ。まるで月のように輝いて美しい。外見が美しいと見る世界も美しいのだと思った。
二人はどんどん進み、やがて再び森が現れた。森の中は草木が邪魔して、車いすで進むには難しいようだ。
ハルの病気はとても重いようだ。やせ細り、車いすに沈み込むように深く座っている。だが、苦しそうな様子はない。
でも、顔は綺麗なままで、私のよく知っている綺麗な顔と同じだった。
やがて森の中に、小さな広場のような場所を見つけた。太い一本の木を中心に草が少なくなり、ところどころ茶色い土が剥げ出ている。
大木は二人を歓迎するように神秘的な香りを放ち、意思を持ったかのように微妙な空気のゆれを作っている。
ミズキはハルを支えながら車いすから降ろすと、太い木のそばに座らせた。ミズキもその横に腰を下ろす。
「やっと到着した。死ぬ前にこれてよかった。この世界一美しいと言われる宝石の木を僕の墓標にしよう」
「そうだね。ふふ」
月明りが広場へと差し込む。二人は肩を寄せ合い、スポットライトのように月光に照らされている。
ミズキ、とハルが言う。
何、とミズキが答える。
「ありがとう」
そしてハルは眼を閉じ、一言
「綺麗だ」
と呟き、宝石のようにきらきらと固まってしまった。青白い光を反射して、世界一美しい木にふさわしい輝きだった。
ミズキは頬に一筋の涙を流しながら目を閉じた。
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