月色の眼球
ゆんちゃん
1
ミズキは映画を見ていた。音楽はほとんどなく、たまに入る会話と環境音はよく透って耳に届いた。しとしと降る小雨が印象的な映画である。
突然、携帯端末の着信音が鳴り響き、ミズキの体は飛び上がった。家には誰もおらず、よく響く電子音に驚いてしまったのだ。
着信画面を見ると、
ミズキは電話で話すことが嫌いだ。相手の顔色を窺えない不安、自分が虚空に向かって話しているという虚しさ、面と向かって話すのとは違う微妙な雰囲気。それらがどうしても好きになれず、結果、電話に出るのをためらいがちになるのである。
しかし居留守を使うのはなんだか気が引ける。相手はハルであるのだし、気を楽にして出ればいいだけだ。そう言い聞かせた。
携帯端末を手に取り、電話に出た。
「やあミズキ、いまから海岸に来ないか。今日はいい三日月だよ」
月、とミズキは一言呟いた。
「そう、月。海岸の場所はわかるだろう……」
「わかった」
ミズキはそう言って、見ていた映画を止めて外出の準備を始めた。テレビを消すと今まで気にならなかった時計のコッチコッチという音がやけに大きく聞こえた。家中がまるで静かだ。
わざわざ海岸まで行かなくても、月は見れるのだけれど──。
そう思った途端、なぜだかなんとなく人肌が恋しくなったので準備をさっさとして玄関を開けた。
いまは春と夏の間、ちょうど梅雨の時期だ。ふわっと吹いてきた風を肌に受けてそう思う。梅雨の時期は暖かいと言えど、夜中になるとそれなりに冷え込む。その上今晩は風も吹いてくるのでミズキは少し震えた。家の周りの草木からはジージーと虫の音が聞こえ、なんだか気温と不釣り合いである。
海岸へ行ったのは数えるほどしかないが、ちゃんと道を覚えていた。途中に人の寄り付かなくなった公園や路地裏、寂れた歩道橋、見晴らしのいい小道などがある。ミズキはこういった場所で遊んだことは一度もない。ミズキの世代の子供は皆そうだ。このごろは開発が進み、白く無機質な高い建物が増えてきている。しかし新しい建物が増えていると言っても、ここら辺にはまだ前時代的な名残がある。
家を出てから十分ほどで砂浜に着くと、裸足で海水に足を浸している一人の少女が、月を見上げていた。
「こんばんは、ハル」
ミズキが声をかけると、制服姿の少女は後ろを振り向いて
「やあミズキ。見てごらんよ。今日はいい月だね」
そう言って再び前を向いた。
後ろから見ているミズキには、月の逆光で陰っている少女の後ろ姿がとても魅惑的なものに見えた。
ミズキは少女を見た。
肩まで伸びたストレートヘアが風で揺れて、白いうなじを覗かせた。袖からは同じくらい白い腕が力なく垂れている。
ハル──そう呼んでミズキは彼女の横に立った。
爪のように細くたわんだ月はとても大きく、暗闇の真ん中から青白い光を放っている。そのおかげで今は明かりがなくても十分視えた。
──満月になったらどれほど明るくなるのだろう。
ここ数日、月は何年かに一度の大きさとなっているのだという。
「とても綺麗だね」
そう言ってハルの横顔を見た。
まつ毛が長く、顔は麗しい。月明りに照らされる中性的で少し童顔な少女。
しかし、ミズキは違和感を覚えた。
──いつもと少し違う。
黒い瞳に三日月が反射してほの白い点として映る。
眼。眼のあたりに何か違和感がある。
まじまじと見ていると、
「どうしたの。僕の顔に何かついてる」
「いや、そうじゃないけど……」
ミズキは一度月に視線を戻し、ちらちらと気づかれないようにハルの顔を見た。
──筋。
目尻から一筋の線が頬を通っているのがうっすらと見えた。泣いた跡だろうか。
ハルが泣いたのを見たことがなかった。気になって、その涙の後はなんなのかと聞くこともできたのだろうが、なんとなく聞きにくい雰囲気だった。
普段から、涙を流すハルは似合わないと思っていたし、別段気にすることでもないだろうと、なにも聞かずに月に目を戻した。
二人の間に沈黙が漂った。すると、今まで気にならなかった波のザアザアという音が途端に頭の中に入ってきて、癒しの音楽を聞いている気分になった。
ハルが腰を下ろし、体育座りになった。ミズキもそれに倣って座った。
「ミズキはさ」
さっき電話した時何してた、とハルはこちらを少し向いて言った。
「映画見てた」
「なんの」
「『Night in the Rain』っていう外国のB級SF映画」
「雨の夜……。面白いのそれ」
「あんまりおもしろくない。でもなんか気に入ってる」
なんだそれ、とハルは笑った声で言った。
それから数分間、月を見ていると、ハルが肩に頭を乗せてきた。なんだろうと思って顔を見てみると、すでに目を閉じて寝息を立ててしまっている。
ミズキはなんとなく泣き止んだ赤ん坊のようだと思いながら、ハルに肩を貸し、そのまま月を見続けた。
2
ミズキが教室に入るやいなや、クラスのにぎやかな女子が話しかけてきた。
「ようミズキ、昨日公開された曲きいた? すげーんだぜ!」
そう言って彼女は目をジロジロと動かしている。網膜に表示された画面で音楽のPVを見ているのだ。
「いや……聞いてないけど」
「そうなんだ。つれないなぁ」
彼女は他の女子に同じことを訊きに行った。
席に座り一息つくと急激に眠気が襲ってきた。
昨晩は砂浜で眠ってしまったハルが目覚めるまでずっとそのままにしていた。波のさざめきを何時間も聞きながら、月や光を反射した水面、それとハルの寝顔を見ていた。
──でも、それもたまにはいいかな。
今は電子機器が支配している世の中である。大勢の人間が使っているLensに比べたら医療的観点から見てよくないが、用途としては変わりない携帯端末を使うのは、ミズキの普通の生活の一部に組み込まれている。
電子画面を見すぎて眼精疲労気味になっているミズキは、昨晩携帯端末を持たずに家を出たため、一晩で一か月分程の自然の景色を見ていたのだ。
ミズキが机に突っ伏すと、意識が溶けるようにぼんやりとしてゆき、やがて昨晩の光る海と響く音とハルの寝顔が再生された。
よほど昨日の光景が目に焼き付いているらしい。ミズキはじっとそれを見つめ続けることにした。
授業開始の鐘が鳴り、意識がはっきりすると退屈な授業が始まった。
放課後、保険係であるミズキが保健室に行くと、なんとハルがいた。
──やっぱり泣き跡。
目が少し赤く腫れている。
「やあミズキ。奇遇だね」
「こんにちはミズキ」
一緒に居た保健室のサユキ先生が、こちらを見て微笑んだ。キレのある目つきと輝くような銀髪が印象的である。
「こんにちは。ハル、どうしたの……」
ちょっと目が腫れちゃって、とハルは答えた。
「女の子は繊細だからね。眼にゴミが入っただけで病気だとか失明だとか騒ぐのもわかるわ」
僕はそんなに慌て症じゃないですよ、ハルが笑い声を含んで言った。
「ところでミズキ、眼の下のクマがひどいわよ。さっきから目をパチパチさせているし、最近ずっと携帯ばかり見ているでしょう。Lensを入れたら少しは良くなるんじゃないかしら」
「眼に物を入れるのは怖いです」とミズキは答えた。
『Lens』は近年──と言ってもミズキが生まれる五年程前にはすでに普及していたのだが──発展してきた技術で、携帯端末と、二十数年前に姿を消したコンタクトレンズが一体化したようなものである。ミズキの周りもほとんどが使用しているのでどういう物かは一応知っていた。
とは言っても、実際に使っているわけではないので、それってつまりどういう物なんですか、と問うた。
「あれは医療研究者が開発したもので、昔あまりにも多くの人間が携帯端末の依存症になって、眼に異常をきたしていたから開発されたのよ。眼に張り付けて使用する端末ね。
使用者の視力パラメータ──球面度数、円柱度数、乱視軸など──を入力することで自動的にレンズ内球面に外部からの知覚と端末情報を表示しているの。
端末使用者の場合視点が画面に固定されているから視力の衰えや疲労感などを伴っていたけれど、Lensの場合ちゃんと現実と同じ光景が表示されているし、眼も裸眼の状態と同じように動作するから何の影響も出ない。これが医療的観点から見て良しとされる理由」
──はあ、とミズキはため息を吐くようにそう漏らした。
でも、と思う。
医療的観点から見てよいと言われても、結局は自分の目に物を入れるということなのだ。それはなんだか怖い気がする。
先生は、ミズキは心配性だね、なんていって笑った。
「先生はそれ使ったことあるんですか」
「ないよ。使う理由がないから」
はあ、とまた狐の喘息のような間の抜けた声を漏らした。
「君たちの世代の子は使ってる子多いわね。眼を閉じて網膜に映る動画を楽しんでる姿を電車とかでよく見るよ。最近ではLensと一緒にFilmっていうのも流行ってるみたいだしね」
「フィルムですか」
こちらも、聞き覚えはあるがよくは知らないものだ。
「うん。鼓膜に張り付ける第二の鼓膜みたいなの。外部からの音を吸収して同様の音を発する振動を鼓膜に伝えるの。こっちは元は聴覚障害を持つ人の中で、鼓膜が破れて閉じなくなってしまった人に第二の鼓膜を、ってことで作られた物を流用してFilmになったの。手術するより手軽だし、耳を傷つける心配もないから人気が出てきたのよ。
自動で音量調節とかしてくれるから耳を悪くする心配もなし。こちらも医療的に優れている技術と言われているわね。
Lensとワイヤレスで連動してるからやっぱり使用者は多いわね。昔流行ったでしょ、ええと、ブルーなんとかっていうやつ。鼓膜にその機能が追加されて、さらに耳にやさしくなったものがFilmだよ」
つまり、今時携帯端末を手にもってイヤホンを耳に挿し、食い入るように画面をみて阿呆のように目を悪くしているミズキはすでに時代遅れだということを理解した。
「とまあ、長々説明したわけだけど、君たちはそういうの使わないようなので、あまり意味のある説明じゃなかったわね。私も医療関係者だから一応言ってみたけれど、あまり好き好んで使う物じゃないわね」
つまり──と、それまで黙っていたハルが唐突に言った。
「虚像ってことですか。機械が眼に見せてる嘘の景色。多くの人はそれをみて楽しんだり喜んだり悲しんだり泣いたりしてるんですね。僕はそういうのは嫌です。僕は嘘は嫌いなんです」
ハルはそう言った。
3
ミズキの家は学校の最寄り駅から三駅離れたところにある。と言っても駅の間隔はそれほど長くはないから、歩けば四十分程で着いてしまう距離である。しかし、ただでさえ夜型人間であるミズキにとって朝早く起きることは苦痛であり、交通費と睡眠時間なら後者を取ることに迷いはなかった。
家の最寄りのZ駅では通勤や通学の人々がぞろぞろと列を成して、ゲートを通り抜けている。
ミズキが改札を抜けようとしたところで、自動販売機の横にハルが立ってこちらを見ているのに気が付いた。
ハルがやあと言って近づいてきた。
「おはよう、ミズキ。一緒に学校に行こう」
「うん」
ハルとミズキは時々一緒に学校へ行く。
ハルはポケットから交通系ICカードを取り出すと、改札のセンサーへ近づけて通り抜けた。ミズキも端末のモバイル式ICアプリケーションを起動させて改札を通り抜ける。改札はゲートと違って空いているので楽である。
聞くところによると、Lensが普及する以前はハルやミズキのように、改札を通り抜けるのに準備をしてセンサーに触れるという動作が必要だったのだが、Lensが普及すると次第に改札の数は減り、代わりに『ゲート』というのが登場した。ミズキ達が通り抜けた改札の横にずらっとゲートが並んでいて、改札は端の一つだけである。
ゲートは磁気センサーの技術を応用していて、身に着けていれば通るだけでLensと反応し機能する。
電車に乗った後ハルにその話をしてみると、
「もっと昔は『キップ』っていう紙みたいなのをわざわざ買う必要があったみたいだよ。改札のセンサーの下に細長い穴があるだろ。そこにキップ入れるんだって」
なんて非効率的なのだろう、ミズキはそう思った。
キップを車内でなくしたら困っちゃうよね、とハルが言った。
会話が止んで、電車が静かに走る音だけが聞こえる。声を発していたのは二人だけで、ほかの乗客は皆目を瞑っていた。おそらくLensで動画を見たりしているのだろう。
昨日さ、とハルが静けさを打ち破るように言った。
「サユキ先生がLensは医学的に良いって言ってたけど、絶対嘘だよ。だってLensから供給される映像を現実だと思い込んでるわけだろ。その映像が実際とは違う映像に差し替えられてしまったら、その人はそっちを現実と思うわけだから、傍から見れば狂人のように行動するよね」
「バーチャルリアリティっていう技術がそれと似た感じの物らしいよ。画面に主観的な視点の映像を流すことで現実と違う世界にいる感じを味わうんだって。今もあるけど、携帯用のサービスは終了して、ほとんどLens用のものしかないからどんな感じかはわからないけれど」
「それは使用者が、これは偽物の映像だって自覚してるんだね。でもLensで見せられている映像が現実と同じものであっても、それが本物か偽物かって言われると偽物の映像じゃないかな……現実は現実だし。ということは、Lens使用者が見てるのは全員が違う物であってもおかしくないわけだな」
どういうこと──とミズキは訊ねた。
「僕はそういうものは信じられないってこと。夢だって見ている途中は夢だと気づかないだろ。人は世界に入り込むとそれが現実と違うとなかなか気づけないんだ。まあ、僕の眼が本当に本当のことを映しているとは限らないけど」
学校に着くとなにやらざわついていた。廊下や教室にいる生徒は何人かで集まってヒソヒソと会話をして、こちらには見向きもしない。詳しい内容は聞こえないが、たびたび物騒な単語が耳に入った。血だとか、死体だとか……。
教室の席に着いたミズキは携帯でニュースをチェックした。皆が知っているということは、公に広まっていることなのである。
どうやら近くで殺人事件が起きたらしい。
「C県Y市にて殺人事件が発生。被害者は女性。眼は犯人によって潰されていて、胸に刺し傷。凶器は不明。犯人は依然逃走中、だって。むごいね」
ミズキがハルに画面を見せると、その顔は一瞬、憂いを帯びたのを、ミズキは見逃さなかった。珍しい表情だと思った。
ニュースには写真がなく、文章のみだった。
ミズキは大規模なアングラ系掲示板へアクセスした。インターネットが発達した現代では、便利な情報が増えると同時に、日の光を浴びない陰鬱とした情報までもが容易に手に入る。
掲示板にはY市での事件のスレッドが何件か立っていた。一番書き込みの多いスレッドを見てみる。
ニュースに書かれていた事とそう変わらない情報が飛び交う中、一つの写真を見つけた。
「うっ」
思わず声が漏れる。
それは死体の写真だった。
モザイク処理が施されておらず、鮮明に映っている。
薄暗い闇の中に、おそらく街灯であろう光によって照らされた死体の姿がそこにあった。
眼がズタズタにされ、眼孔からどす黒い血が耳まで垂れている。口は半開きで、まるで驚いたような、苦しんでいるような、そんな印象を受ける。ニュースには胸に刺し傷と書いてあったが、実際の写真ではワイシャツの胸の周りに何か所も赤黒い血がしみついていた。でたらめな殺意をぶちまけたような光景だ。腕にも切り傷や痣があり、犯人と相当な乱闘をしたに違いなかった。
ハルがミズキの携帯を覗き込んで、厭そうな顔をした。
あれ、とハルが言った。
「これうちの学校の制服だ」
ミズキがよく目を凝らすと、この高校の夏服だった。
被害者はここの生徒であると分かった途端、ミズキは急に怖くなった。学校がざわざわとしているのも納得だ。
その日は先生から少しの注意があっただけで、いつも通りに授業は進められた。
家に帰って寝るとき、ミズキは少し怖くなり、布団の中で震えた。
現在、ミズキは一人で暮らしている。父は仕事で海外へ出かけていて、いつ帰ってくるのかわからない。母はミズキが物心着いた頃にはすでにいなかった。父は会社内でかなり高い地位にいるようだから十分な生活が送れているが、物質的な満足はあっても、それだけだった。
今朝見たニュースによると、犯人はまだ逃走しているのである。犯人が自分の家に帰っているとは限らない。現代の警察は優秀だから、すぐに犯人を特定して、家を調べるだろう。なら、犯人は身元が割れる前にどこか違う場所へ逃げるはずだ。それが例えば赤の他人の家ならどうだろう。名前も知らぬ他人の家に忍び込み、殺して、隠れる、なんてことももしかしたら……。それか、どこか遠い国へでも逃げて完全に身元を隠してしまうなんてことも……。
非現実的だと分かっているが、厭な妄想はとめどなく膨らんだ。どうせなら後者であってほしいと思った。
猛烈にハルに会いたくなった。
ハルは口調に合った中性的な見た目をしている。だが髪は肩まで伸びているため、女性だというのは一目でわかる。
ハルとは中学校からの友達で、たまに一緒に帰ったり遊んだり話したりする仲である。その遠いのか近いのかわからない関係に心地良さを感じていた。
ハルとメールでもすれば少しは怖さが紛れるのだろうが、ハルは携帯端末を持っていないため、それはできなかった。時々電話で話すが、ミズキは電話というものがどうにも苦手で、自分からすることに抵抗がある。だからいつも会うときに呼び出すのはハルの方からだ。
ハルに会いたい、ハルの声を聴くと安心したい。今日はいつにもましてそう感じた。自分の前を往く少女、自分と歳も慎重も変わらないのに、自分よりもよくできた人。ミズキはハルの姿を思い描いた。あの透き通った声、白く細い腕、いつも飄々として、時に現れる微小、あの唇、そしてなんといってもあの眼だった。
あの鏡のような眼は、すべてを見通すかのような絶対性をもっている。だから、ハルと目を合わせると、自分が見透かされているような気がして恥ずかしくなり、そして自分のことをわかってもらえている気がして少し嬉しくなるのだ。
ああ、ハルに会いたい。ハルの姿を思い描いたまま、ミズキは布団に潜った。事件の事はハルに取って代わられ、すでにミズキの頭から消え去っていた。
そのまま意識が薄れて、緩やかに夢の中へと沈み込んでいった。
様々な景色を見た。
私とハルは夜中に公園に集まって、なぜだか目的のない家出をした。
街灯にイボタガという蛾がゆらゆらと飛んでいた。私が蛾を気味悪がっていると、ハルは指の先に蛾を止まらせ、
「この蛾の羽模様を見てごらん」
そう言って羽の模様が実は綺麗であることについて説明していた。
それでもまだ少し気持ち悪い──そういうと、
「見たくない物は見なくてもいいんだよ」
と言って蛾を逃がした。
私たちはまず、素晴らしい神社に行こうとした。なぜだか神社がとても尊い場所だと思えたのである。
その神社は見たことも聞いたこともなかったのだが、ハルについていけばたどり着くだろう、そう信じて私は歩いた。街の明かり一つない、月明りと星空に照らされた道だった。夜中の星はとても綺麗だった。その世界の私とハルは都市に住んでいて、明るすぎて一度も星を見たことがなかったのだ。
初めてみた星空に深い感動を覚えながら、いつの間にか川のそばを、せせらぎとともに歩を進めていた。環境音と、私たちの足音と、話声しかない。
やがて神社に到着した。神社は満開の桜が吹雪のように舞い、花見をしている客が騒いでいた。甘酒をもらってハルと一緒に飲んだ。とても甘い、私はそう言った。
境内で参拝をしていると、その行為は新たな世界に入り込むための儀式のように思えた。参拝が済むころには夜が明けかけていて、朝日が空に紫から白への見事なグラデーションを与えていた。
それから季節は変わり、私たちは梅雨の雨の中、バス停で紫陽花とカタツムリを見つめていた。
「梅雨って言う字は綺麗だ。それが意味することも、『ツユ』っていう響も綺麗だから、僕は雨が結構好きなんだ。『雨に唄えば』とか『雨の日も楽しい』っていう歌を知ってる? これらが人気なのは、人が雨を嫌っているふりをして、心の奥底では雨を信仰しているからだと思うんだ」
よく分からなかったがハルがそう言うのなら多分そうなのだろう。
バスが到着して私たちが乗り込むと、乗客は黒い猫ただ一匹だった。
「黒い猫だ」
「黒い猫ってなんだか十九世紀末のイギリスに居そうだよね」
ハルがそう言って猫を見た後、かわいいと言った。
雨に濡れて寒かった私は、いつの間にか隣の座席に座っていたハルの肩に頭を乗せ、眠ってしまっていた。
ミズキは脳に突き刺さるように鳴り響くアラームの音を、ぼんやりとした頭で煩わしく思いながら聞いている。やがてアラームは止み、ミズキは再び布団の温もりを味わい始めた。
幸せな夢だった。今のミズキは多幸感が満ちていて、もう一度夢の中に戻りたいと思った。
何回かアラームが鳴り、そのたびに「夢が現実ならいいのに」と考えた。
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