第8話

 振り向いた彼女は、赤ん坊を抱いていた。


「予定日はまだまだ先だったのよ」

「ちょ、ちょっと待て。その前に妊娠してたなんて知らなかったぞ?」

「うん。今日言おうと思ってたの。それで、これからのことをちゃんと話し合うつもりだったのよ」


 頭がおっつかない。軽いパニック状態。


「だって出ていったの、三ヶ月前だったよな? あのときって……?」

「あのね。恥ずかしいんだけど、気づいてなかったのよ」


 ペロリと舌を出す。


 気づかないなんて、そんなことがあるのか? 妊娠期間って十ヶ月なんじゃないのか?


「ね、抱いてあげて」


 え? いきなりそんなこと言われても、心の準備ができてない。


 おたおたしていると、見透かしたようにくすくす笑う。千夏の笑顔を久しぶりに見た気がする。


「じゃあ、顔を見てあげて。修ちゃんに似てると思わない?」


 似ているかどうかよくわからない。あまりにも唐突過ぎて、実感がわかないまま、俺は困惑して赤ん坊を見つめていた。


「今までのこと、聞いてくれる?」

「聞くよ。千夏の思ってること、全部話してくれ」


 千夏は視線を落として赤ん坊を見つめ、ゆっくりと話はじめた。


「家を出たときはね、本当にもう限界だと思ったのよ。修ちゃん、全然話を聞いてくれなくなってたでしょ。たったそれだけのことって思うかもしれないけどね。私にはきつかったの。

 最初はね、近所の人とのトラブルだった。それからお義母さんとのこと。買い物したときのこと。トラブルばかりじゃない。楽しかったことや嬉しかったことも、聞いてくれなくって。パートにでも出たいって言ってもいい顔しないし。

 浮気をするわけじゃない、金遣いが荒いわけじゃない、暴力をふるうわけでもない。いい旦那さんなんだと思うのよ? でも、贅沢な悩みかもしれないけど、ただ養ってもらってるだけじゃ、夫婦の意味があるのかな? って思いがわいてきて。……もっとちゃんと会話がしたかったの」


 うん。それは実感した。お前のために働いてたつもりなのに、お前を泣かせてたんじゃ本末転倒だよな。


「それでね、ちょうどその少し前に転勤してきた幼馴染みの香織が近くに住むことになって、何回か相談に行ってて、そのまま転がりこんだの。

 やってることは家事で家にいるのと変わらないんだけど、香織は帰ってきたらたくさん話を聞いてくれて、楽しくって……でも楽しければ楽しいほどだんだん悲しくなって。引きこもり状態になっていって、やけ食いしているうちに激太りしちゃったの。

 それで、一ヶ月くらいたった頃に『このままじゃだめだよ』って香織が温泉旅行に連れ出してくれたの。

 その温泉宿の脱衣場に、大きな鏡があってね。そこに映った自分の姿を見て、ショックを受けたのよ。太ったとは思ってたけど、そこまで酷いと思ってなかったのよね~。

 で、思い立ってダイエットを始めたら……お腹だけが目立つようになってきたの。それに余分なお肉がなくなったからか、胎動も急にわかるようになって、初めて妊娠に気づいたのよね。

 その時すぐに修ちゃんに連絡するべきだったんたろうけど、あまりにも太ってしまっている姿を見られたくなかったのと、修ちゃん自身が変わってないなら戻っても同じなんだろうなって思っちゃって。

 そんなときに、香織がこのミステリーハントを教えてくれたの。修ちゃんがこのたくさんの問題を面倒くさがらずに解き進めたら、考えてあげたら? って」

「俺が諦めてたら、ホントにこのまま別れる気だった?」

「うん。覚悟を決めて、実家に帰るつもりだった」


 時折苦笑をもらしながらも俯きがちに訥々と話していた千夏が、顔をあげてまっすくに俺の目を見つめた。


「探してくれて、ありがとう」

「俺の方こそ、もう一度チャンスをくれてありがとう。それから、一人でもちゃんとこの子を生んでくれてありがとう」


 千夏の腕の中の赤ん坊の頭をそっと撫でてみる。掌におさまっしまう小さな頭はあったかくて、胸の奥から妙な気持ちが沸き上がってきた。これが俺の子どもなのかっていうなんとも言えない感慨。


「これからは、どんなに忙しくてもちゃんと話を聞くよ。何か問題があったときは、一つ一つクリアしていこう。二人で」


 俺は赤ん坊ごと千夏を抱きしめた。


 この二つの温もりを本気で守っていこう。

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