第16話
木曜日の朝、7時に長野を迎えに来たのはハチロクに乗った楓だった。
「おはようございます」
「おはようございます。あれ?ランエボじゃないんですか?」
「色が目立つでしょ」
言われてみれば、ハチロクはメタリックシルバーである。ランエボはあの青色である。確かに、目立つ。いや、どちらも目立つが。
長野の後から送りに出た長野夫妻に、楓は一礼した。
当然だが、楓は紺の今流行のゆったりとしたラインのロングジャケットのパンツスーツである。しかも、胸元フリフリの優雅なお嬢様っぽいスーツ姿なのだが、車はビシッとハードにドレスアップしたピカピカのハチロクというアンバランスさに長野夫妻はちょっと戸惑う。
「おはようございます。それではお嬢様をお預かりいたします」
何か言いたそうな夫人だったが、夫である長野は何も言わない。娘をよろしくお願いします、気を付けてと、にこやかに二人を送り出すだけである。それは、自分の立場上で得た楓の仕事の確かさの情報が父親である長野自身の期待を裏切らなかったからである。
同業他社の上層部は口を揃えて言う。
トップリードの営業戦略を担うのは四天王と呼ばれる北河専務、営業本部長の井上、広域営業本部長の熱田、広域営業戦略室の九条である。彼らの下にはそれぞれ優秀な課員が手足となって働いているのだが、この課員たちも優秀である。
あの小林モータースの娘と椿グループの藤堂家の御曹司が井上の片腕であり、車輪でもある。年齢的に若い二人だが、井上世代の後はこの二人が会社を引っ張ってゆくことになるだろうと。そして、若い二人がもしかして恋仲なのかと噂されていることもまた真実である。双方の親は交際に関知していません、と静観する構えだが。
だが、藤堂と小林のプライベートな友人から漏れ聞くところによると、二人の間柄は双方の家族にも周知されていることであり、結婚は時間の問題だというのだ。
トップリードの社長曰く、他の社員と同様、仕事とプライベートを混同するなら即刻叩き出しているが、二人が職場でそう言った関係になったとか雰囲気になったとかという話は聞いていない、とけむに巻いている。確かに、社内恋愛禁止ではないので同じ部署に恋人同士や夫婦が勤務ということもあるがトップリードは特別配慮を申し出ない限り、会社側は何もしない。それだけ、社員の意識が高く問題が起きていないということにある。
藤堂総一郎との結婚に関して、両家はほぼ同意している。
長野は周囲の評判からそう読んでいるが、こればかりは事態がやすやす動くとは思っていない。二人の交際は長いと聞いている。長野が持つ情報では付き合いだして4年近くになるという。なのに婚約という形が整わないのは、実は藤堂家側に問題がある。
藤堂は、実はトップリードの社長だった創業家の孫娘の婿候補として入社したが、当の本人は別の人物と結婚し、かけおちして家を出た。将来的には社長の婚外子だという噂の北河専務が社長に就くことになるだろうが、次の世代の地盤が弱い。長らく同族会社として後継者を輩出してきているので創業家関係者でトップを固めたい意向が強く、また椿グループに縁付くことを良しとしてこの措置になったのだが。
藤堂家としては、結婚の話がなくなったので藤堂に戻って、相応の会社に入ってほしいらしいが、当の本人がトップリードにとどまりたいと強く希望しているのだ。というのも、北河専務と総一郎が仲が良く、いろいろな意味でビジネス面でうまみがあるということで総一郎には会社を離れるという選択肢はないのだ。だが、藤堂家としては面白くない。最も、それを表に出すようなことはしないで、今のまま、均衡を保っているが。
総一郎としては、顔合わせ後、すぐに駆け落ちしてしまった令嬢のことは未練も何でもなく、今は楓との半同棲ともいえる生活を楽しんでいる。確かに、楓と知り合うまでは女性関係において寂しい思いをしたことはあったが、仕事的には充実していたのである。
そして、楓自身が小林モータースの娘だったということは、藤堂家には嬉しい誤算だった。ただ、時期をうまく考えねば、総一郎がトップリードの令嬢から乗り換えただの、楓が寝取っただの、あらぬ噂を立てられてはかなわない、ということだけ問題ではあったが。
そして孫娘の駆け落ちという事実は認めているが、彼らの結婚は認めていないのだ。藤堂に泥を塗ったのだから早々に認めるわけにはいかない事実もある。
そういう事情があるから楓との婚約のタイミングは慎重に見極めている、と噂に聞いている。そして同時に、この楓という令嬢についての評判も集まってくる。
父親の影響で幼少からカートレーサーとして何度も表彰台に上がったこと。自動車レースに身を投じていたが、二十歳を前にあっさり引退したこと。その裏には相思相愛だったライバルレーサーのマネジメントをするという希望があったこと。ただし、この男は病死し、大学卒業後はマネジメントの方向をホームセンター事業に切り替えたのだということ。レースをするような女性なのでがさつな部分があるのかと思ったが、そのレーステクニックは驚くほど正確であり、緻密であり、普段の性格が割合と大雑把でさっぱりとしていることから時に真逆だと評価する人間もいること。普段の車の運転は穏やかで、大型免許、大型特殊、2種免許なども取得していること。
トップリードに入ったのは単純に店舗アルバイトから正社員に採用された「スカウト組」に当たり、本人曰く「面白そう」な会社だからという志望理由だと聞いている。上層部の評価はアルバイト時点から手放すつもりはないという高い評価だったが、本人の意識はそれほど高い状態ではなかったらしい。
特筆すべきは入社後の活躍だった。
楓は入社後は店舗勤務だったが、一緒に働いていた店長が急病で倒れ、副店長はプレッシャーから精神を病んだことから率先して店の切り盛りを始めた。マネジメントの才能があり、入社間もなくで若輩者と言われるところを、驚くほど早くに人心を掌握し、店を切り盛りし始めたのだ。これに目を付けたのは当時の営業本部長で現在の専務である佐伯で、店舗が落ち着くと営業本部に引き抜いた。以後、営業本部と応援店長として店舗出向を繰り返し、売り上げが激減した店舗の立て直しや新店舗の立ち上げにかかわることになる。今は営業本部室の室長として責任者の立場だが、若いながらも誰もが認める地位についたという情報が入ってきていた。
長野がトランクに荷物を積み込む間、楓はジャケットを脱いで後部座席に置いた。同じように皴になるから脱いだら?と笑って声をかけながら車に乗り込んだ。特段偉ぶったところもなく、普通の女性に見えていた。
それでも、井上の下で営業を手掛ける地位に立つほどの女性である。見た目とは違うと誰もが口を揃える。そんな彼女を前に、自分の娘がずいぶん幼く見える。
娘は、理想は高いが、実行力を伴わない若造に思える。それが、いつか実行力を伴うようになればまた一皮むけるのだが、とは思う。とは思うが、そこに至るまでの道のりは思った以上に地味であると知っている。
今回の出張に同行できるということに長野は驚いていた。入社後間もない新人がリサーチに同行できるというのはなかなかない。だからその幸運を昨夜は思わず口にして娘を諭してしまった長野だった。
出張、と聞いて長野本人はウキウキしていたのだが、現地に着けば、それが驚くほど地道な作業だと気づく。
今回の出張は、次に出店する場所の選定である。候補は6か所あり、今回はそのうち4か所を回る。コンビニや空き地に車を停めて、周辺の通行量や住居の様子をチェックしていくのだ。
「この項目…沢山ありますけど、全部チェックするんですか?」
「全部ではないけど、気が付いたことは全部。ま、やってみなよ」
渡されたのはチェック項目が書かれた紙である。一枚につき、30項目ほどあり、それが左側一列に並んでいる。その紙がバインダーに挟まれて3枚ある。つまり、100近い項目があるということだ。
楓は不審者よろしく、望遠鏡でぐるり、と周囲を見渡している。
「時間は必ず書いておいてね」
「時間ですか?」
「そう。他の人も外回りのついでにチェックしたりしているから、比較するために日付と時間は必ず必要。あと天気も」
「じみちーな作業なんですね」
「地道の積み重ねよ」
楓は笑いながら作業を進める。
周辺の店舗状況、住居の種類、道路事情、駅事情も踏まえて地図ではわからない情報をピックアップしていく。チェックするだけではなく、参考になりそうな情報も横に書き込んでいる。なのに、チェックするだけ、わからないところは飛ばして作業している長野よりも手が早い。
近隣にある大型商業施設で昼食を取り休憩を取るが、楓の目は休憩ではなくてリサーチの目になっている、と長野は思う。けれど、自分の目にするものは何故か売れ筋新商品だったりする。
「良く考えれば不審者じゃないですか、私たち」
「充分、不審者だよ。この後は2か所回るけど、大丈夫?」
「晩御飯何時になるの、ですね」
「美味い定食屋さんに連れてってあげる」
「え?知り合いがいるとか?」
「トラックドライバーの情報で、安くて早くて美味い。まぁ、長野のお店リストにはなかなか載らない、ドライブインというか、食堂というか、そんな店だけどね」
「あ、でもあの中華料理のドライブイン、両親と一緒に行ったんです。また行きたいってお気に入りの店になっちゃって」
「気軽に行ける店だからどんどん使ってやってよ。そうだ、長野は生もの大丈夫?夜の定食屋さん、お魚メニューがおいしいの」
「生もの大丈夫です。楽しみ」
「そう思ってがんばれ」
「はい」
適度な休憩を挟みながら夕食までにてきぱきと作業を進めた。
へとへとになりながらリサーチ業務を終え、二人はビジネスホテルにチェックインしたのである。
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