第10話
楓が戻ってきたときにはもういつもの営業統括本部だった。
「ここまで聞こえましたよ」
「でしょうね。元応援団長、声がでかいわぁ」
そう言って楓は自分のデスクに付いた。午前11時過ぎのことである。
青山から引き継いだ仕事は途中で他の仕事を交えつつ進めていく。鈴木も江崎も長野がいないだけ仕事がはかどるのか、早いものである。
鈴木と江崎コンビを昼休憩に出して、二人が帰ってきてから代わりに楓が昼食に出た。
本社は最低限の人間だけで運営されるので、社員食堂というものはない。近くのコンビニで調達してくるか、社内の臨時購買で売られているカップラーメンを食べるか、配達弁当を食べるしかない。社員の多くはカフェテリアブースにやってくる。
同期の社員がいれば一緒になることもあるが、基本は「おひとりさま」になることもある。職種上、というか、お昼定時という概念がない本社なのでだいたい、の昼休みだった。これは、店舗をサポートするためのことなので他の部署も同じだ。
だが、他部署と一緒になるからこそ、お互いの情報交換ができる場でもあるので部署の違うものが一緒にランチを取っていたとしてもおかしくはない、知らない同士でも割合い一緒に食べている社風である。
折角の休みなので、お気に入りの店でランチ予定だったがコンビニ弁当になってしまったが、今日は収穫はあったと思う。
一番の問題は長野の問題だ。有能なくせに、わざと仕事をしていない。新入社員でそれをやるのは明らかに危険すぎるだろうというのが野田の見解だ。井上はニヤニヤしながら縁故採用だったから、「反発しているんだ」としか言わない。何か情報を持っているらしいが、言うつもりはないというスタンスで、こちらは聞かされていない。
縁故採用であっても、適性がなければ井上は引っ張ってこないだろうことは承知している。それを踏まえて、店舗開発に引き寄せたと言うことは井上ビジネスにメリットがあるということになる。だから楓としてはそれを生かさないのは、双方もったいないなぁ、と思うのが正直な気持ちだった。
昼休みを終えてオフィスに戻ればデータ分析の仕事に戻る。青山はかなり先取りで仕事をしてくれているのでそれを引き継いでデータをグラフ化してゆく。そこから分析するのは青山の真骨頂だ。箇条書きされた、文章に入れるべき分析結果を見るとその有能さに驚かされる。
本当に、青山には嫉妬する。井上はおおまかな方向性を決めて決断してゆく「きっぱりさ」があるが、その方向性を決めるのは青山の緻密な分析があってこその話で、数年にわたる売り上げデータから売り上げ予想を立て、この土地にこのような店を出せばこれだけの資金が必要でこれだけの売り上げが見込まれ、収益がどれくらいになる、というある程度の分析をしてくる。
青山の分析をもとに、井上が細かな点を軌道修正しつつ、昨今のヒット商品や商品動向を見ながら四半期の短期売り上げの予想もすれば、ベースになる生活消耗用品の売り上げ動向から長期的な売り上げ予想分析もする。
最も、データ通りに行かないのが商売というものなのだが、井上の「野性的な勘」を青山の手腕が補完していると社長は笑っている。
青山のアナライザーとしての手腕も、井上の「商売人のカン」も、まだまだ楓が及ばない部分だった。
藤堂課長含めて、人事や総務との合同会議があるという時間の前に井上が出張から戻ってきた。昨日の朝から社長のお供で得意先回りをして、午前中いっぱいあちこちまわってきていたのだ。
「お疲れ様です、お帰りなさいませ」
楓はそう声をかけ、頭を下げた。
「青山は?長野も?」
「青山は具合が悪そうなので帰らせました。長野は人事課の野田課長に預けました」
「思い切ったな」
「まぁ、いろいろ思うことはありますが、ここで変わるか変わらないか、です。もっとも、トラの野田が発動したのでこれ以上のカメレオンは無理だと思います」
「あー、うん、縁故採用だからなぁ」
「だったら余計に、ですわ。口添えして入社してきて話しにならない人材というのはどうにもならないでしょう。熨斗つけてお返しした方がお互いのためだと思います」
楓はすっぱりそう言った。あまりのスッパリさ加減に井上が驚いたようだった。楓の導火線は長いと思って預けたのだが、長野はそれ以上に「やらかした」ということはすぐに想像できた。
「何かあったのか?江崎君」
「それ、江崎さんに聞きます?」
楓が笑いながら抗議した。普通なら本人に問い返す部分だが。
「お前なら導火線はもっと長いと思っていたんだが、案外短かったからだ。だから一般的な江崎の意見を聞きたい」
「いえ、当然の判断だと思います。ここにきて1か月と少しですが、その間の仕事ぶりはちょっと信じられないという一言に尽きます」
やんわりと、江崎がそう評した。
「世間知らずのお嬢様でもあそこまでとなると厳しいですよ。更生というよりも矯正に近いレベルです。トラに吼えられてどうなるか、ですよね」
「何か意味があるのか?」
「彼女、わざとあれをやっていますよ? カメレオン、擬態です」
井上が顔を上げた。楓の一言に一緒にいた藤堂や他の課員たちも驚いていた。
「わざと、だと?」
「野田さんと一致した見解なんですが、入社時のチェックスコアと、今現在のチェックスコアが大幅にかい離しているんです。不審レベルで。仕事をいろいろさせてみたんですが、時間内にできる仕事をわざとできないと見せかけている様子もあるし、かといってこちらの仕事を妨害する意図はなさそうな様子です。本当に急ぎの仕事は割合かっちり仕上げてくるくせに、時間に余裕がある仕事の場合は不完全状態で仕上がったと言って持ってきます。それも、訂正する余裕がある時間帯に持ってくる。何かあると思って野田さんに返しました」
「野田は俺に何も言わなかったぞ?」
「ええ、まだ疑っている段階だから、って。お互いに逐一報告を入れていて、ようやく謎解きが終了したので今お説教タイムになっているはずです」
「答えは見つかったのか?」
「みたいですよ。野田さんが吼えたのはそういうことです」
楓はそう井上に返事した。
「本部長」
「おう、今日は定時に退社して良いぞ。用事があるのに無理やり出社させたからな。早帰りも認める」
「それもありますけど、そろそろ本気でスカウトしてくれませんかね」
「そうくるか」
「そうきます。せっかく総務人事と営業統括の戦略会議なんですからあの企画書、本気で通してください。長野の事だって、こうなると予想して人事との取引だったんでしょ?」
井上がうぐ、と言葉に詰まった。
この頃、部下たちがそれぞれ頭角を現してきて嬉しいと思うことはあるが、自分の読みを当ててくる率が高いのは藤堂と小林だ。二人とも今伸び盛りの営業手腕を発揮してきている。段々、いろいろなことを予測されてきてそろそろ別の行動パターンにするかとも考えている。広域営業部のトップを張る熱田と九条コンビからどちらかよこせとせっつかれているのだが、これも悩みの種だ。
楓は、今回の長野の扱いに違和感を覚えていた。
そもそも、井上は、普段ならそんな問題児を受け入れることはしない。ばっさり切り落として終わりにする。縁故採用でも百歩譲って閑職にやるくらいが関の山だ。なのに、意味ありげに「まぁ頼む」と預けてきた。
ということは、だ。井上の頭の中では長野という人物は「井上ビジネス」を担うだけの人材になるかもしれないという予感があるからだ。
社長や重役曰く、「井上の野生のカン」だが。
最も、野生の勘だけで何年も営業のトップを張っているわけではないということは知っている。見た目以上に細やかで計算高い「井上ビジネス」であることは承知している。
「もしも、だぞ、お前だったら誰を指名する?」
「変更はありません。私の案は既に提出したとおりです。長野の育成案に関しては本人とのキャリアカウンセリングが必要ですが、大筋では変更ありません。先日提出したとおりです」
その言葉に、課内のメンバーが驚く。「既に長野を戦力として迎える準備をしている」ことに。
「だよなぁ。うん、専務に掛け合ってみる」
当たり前のように長野の受け入れ案を井上が頷いて了承した。
午後3時を過ぎていろいろなことが一息ついてきたところで、鈴木と江崎コンビが退社を前に社内便の仕事や他の事務引継ぎのまとめの仕事をはじめる。彼女たちが下処理をしてくれているからこそ、楓たちは他の仕事に没頭できるのだ。自分の都合でシフトを組んでいるとはいえ、二人は一日4時間から7時間の間でパートタイムで仕事をしてくれている。
「そろそろ時間なんで」
「あー、ちょっと帰っちゃダメ」
二人に待ったをかける。電話をかけている最中だからそれ以上は言わないが、二人を手招きすると、自分のデスクの脇から二つの小さな包みを出した。二人の前にそれぞれそれを置く。
「三時のおやつ。お疲れ様」
二人は驚くが、その御菓子の包みが見慣れたものであることに少しだけ安心して、頭を下げて仕事を終わった。別の仕事をしている課員がお疲れ、とねぎらい、二人を帰した。
一方の楓は社内電話で総務の誰かと確認中で、しばらくして確認が取れたのか、電話を切った。
その後で野田から内線がかかってきて、楓は人事にいくと言って席を離れた。
人事の面談室に長野がいたが、泣きはらした目は真っ赤で、しかも化粧は殆ど落ちたのかほぼノーメーク状態だ。野田は長野の前に腕組した前で座ったままで、立ち会った課員は交代したのか、違う課員が座っていた。
「お疲れ様です」
「おう、悪いな」
「悪いなんて全然思ってないくせに」
「お前、今日の仕事は?」
「業務は終わってますよ。机の上はとっちらかって後片付けがまだですけど」
「そうか。うん、人事のほうの面談は終わった。あとはお前さんからの説教だな」
「ないない。トラの野田さんの説教だけで心神耗弱になっちゃうよ。これ以上説教してどうするの」
「お前、頭に来てないのか?怒ってないのか?」
「怒ってますよ。でも同時に、長野は幸せものだねぇ、って思うわ」
「私が、ですか?」
「そうそう。野田さん、もう彼女は帰って良いの?」
「ああ」
「じゃぁ中華食べに行こう、長野」
「は?」
「支度しておいで。通用口で待っているから」
楓はそう言って人事を出た。
本部に戻ると退勤するとのメモを井上に残し、机の上を片付けるとさっさと退勤する。
裏口では長野が野田と一緒に待っていた。
「何?野田さんも来るの?」
「まさか。俺がついて行ける訳ないだろう?仕事がまだ終わっていない」
「では、長野をお預かりします」
「おう」
野田とそこで別れ、長野を連れて駐車場に向かう。
「長野は確か、電車通勤だったよね?」
「はい。家が峰南町だから」
「おう、高級住宅地」
駐車場の奥、端に停まっていたのは愛車のランサーレボリューションだった。
「あれ?車が…」
「兄貴が車屋でね。私の車はこのランエボと911ナンバーの軽の2台。気分によって乗っているのもあるけど、今日は取引先に寄ってからの出社だったから、ランエボだよ。乗って」
後部座席にカバンと上着を置き、ハイヒールの靴から、ドライビングシューズに履き替えてから楓は運転席に座った。手にしていた携帯は、いつものようにハンズフリーシステムと連結させてヘッドセットを耳につける。
「車…好きなんですか?」
「好きですねぇ、仕事にしたかったくらい」
長野のシートベルト装着を確認すると、楓は自分もシートベルトを装着し、エンジンをかけた。
まさしく、エンジンの音、と表現してよいほどのどるん、という音が響くが、以降は静かなものだ。
楓はゆっくり車を走らせた。
車は郊外の、南に向かって走っている。幹線道路で夕方だから交通量も多い。
「仕事にしたかったくらいって…仕事にはしなかったんですか?」
「才能がなかったからね」
幹線道路の途中にある、駐車場の広い中華料理店は長野も目にしたことがあるドライブインのチェーン店だ。入ったことはないが、トラック運転手には人気の店だと言う評判は聞いたこともある。今もトラックが数台停まっていて、乗用車も数台ある。
「6時過ぎると食べられなくなるからね、ごめんね、早い時間に」
どるん、とエンジンを唸らせて駐車位置にぴたりととめた。それからまた靴を履き替えてカバンを手に店に入る。
「らっしゃーい」
「おかえりー、楓ちゃん」
「おやっさん、奥あいてる?」
「ああ、空いてるよ」
威勢の良いやり取りを厨房としながら、楓は慣れた様子で奥のボックス席になっている、個室テーブル席に向かった。
「定食なら八宝菜、ラーメンはしょうゆチャーシュー、日替わりなら通常日替わりとレディース日替わりの2種類、違いはデザートが付いて、量が少なめ。どれもおいしいからはずれはないと思う」
見本はどれもボリュームがありそうだが、ご飯の量は好きに決められるのだ。今日の日替わりメニューは酢豚だというので楓はレディース日替わりを注文する。長野も同じものにした。
店の奥にはボックス席があり、入り口側には食堂形式で相席も可能なテーブル席であることを考えると、ファミリー向きとも言えた。その一番奥のボックス席に入ると、長野は言葉を失った。
壁一面に、写真が飾ってあった。
クリアファイルに入れられた写真は、きちんと整理されている。レース場の写真や、バイクの写真、車の写真、様々である。レーサーやメカニックのスタッフの写真もあれば、家族なのか、スタッフやレーサーと一緒に映った写真もある。
「あ」
その中に、目の前の人がいた。
今の楓とは違う、まだ高校生くらいの楓が整備用のツナギを着て走り回っていたり、レーススーツを着てバイクに乗っていたり、車に乗っていたり。
「これ、小林先輩…」
「ここのおやっさんの息子が私のライバルでね。その兄貴はカメラ好きでこうやってずっと写真を撮っていてくれたの。最初はポケットバイク。それからカートに転向して、免許を取ったら次は車」
「レーサーになりたかった、ってことですか?」
「なりたかった。でも現実は目の前のライバルにすら勝てなかった。信二は、強かった」
「車の性能とかではなくて?」
「全く同じ車で同じチューンナップして、信二とレースして完敗。勝てないの。同じチームにいるのに、目の前にいるのに、勝てないの。悔しかったよ。信二はレースチームからお誘いがかかるような奴になっちゃうし。感情的には複雑になったよ」
「その人、この人ですか?」
写真の端っこにいつも写っている写真。だが、カメラが追いかけているのはいつもこの男だ。
「ライバルで憧れで、彼の才能に嫉妬した。もう勝てないってわかったとき、今度は彼をマネジメントする側に回ろうって思った。死ぬほど勉強して大学に入って、彼と彼を支える男たちをマネジメントする会社を作ろうって思った。でもさぁ、信二は待てなかった」
気が付けば、信二という男は途中でいなくなっている。ただ、楓や周りにいた男たちだけが年を取り、バースデーケーキを囲んだ写真が並んでいる。
「私はさ、兄貴に囲まれての末っ子だから、いろんな意味で反発したし、反抗期なんか親とケンカしまくりで世間一般のお嬢さんとは違っていたと自負できる。レースもやっていたしね。信二はそんな私がうらやましいって。誰かが気にかけてくれている、それだけでも財産だよって。誰かより少しだけ有利なら有利で良い。最大限それを生かしてチャンスをモノにした方が良いって」
「信二さん・・・」
「19歳だった。脳腫瘍。若いから進行が早いし、できた場所が脳の一番奥で、もう、あっという間。昨日できていたことが今日はもうできなくなってて。でも、後悔するような生き方はしたくないって言って、信二は最後まで頑張ったの」
楓は、席に着いた。
「県下に3店舗展開しているアパレルのすみれ商事の社長令嬢、だよね?今年定年退職した柴崎専務とお父上に親交があって、貴方は柴崎に紹介されて入社試験を受けた」
楓の言葉に、長野がはっと顔を上げた。
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