第9話


 長野の私物はそう多くない、とはいってもあの様子では時間がかかるだろうと、楓は鍵のかかった引き出しから目的のファイルを探し出し、自分のPCをロックする。

「長野はそれが終わったら待機。わたしはちょっとお使いに行ってきます」

「はい、すぐに戻られますか?」

「早かったら早いから」

 楓はそう言って隣のフロアにある人事課に顔を出す。

「おう、いらっしゃい」

 顔見知りの社員が手を振って挨拶しようとするが、「戦闘モード」の楓に一瞬ためらいが見て取れる。

「野田課長、例の書類です」

「はぁ、気が重いな」

「これから最後の面接をして、課長の判断の後、井上の裁可を得ることになりますので、まず事前に裁可を頂きたい案件です」

「そうかぁ」

「立会いをお願いしたいのですが、この後の予定はよろしいですか?」

「わかりました、立ち会いましょう」

 野田は頷いて立ち上がった。


 楓と野田が統括本部に戻ってみると、長野は藤堂を捕まえて先ほどの話の続きをしていた。

 曰く、藤堂課長は小林先輩と本当につきあっているのか。

 藤堂はプライベートだから、と前置きした上で事実だと認めた。それ以上話すことはないといって自分の仕事に取り掛かっている。

「長野、こっちへ」

「何かなぁ、私が藤堂課長と話しているのが気に入らないんでしょう?」

「は?」

「嫉妬してますよね」

 ふふん、と長野が笑った。だが、それ以上にはぁ、と目立つため息を落としたのは藤堂だった。

「嫉妬、ねぇ。むしろ俺が嫉妬しているよ、君に」

「え?」

「俺だけじゃない、きっとここにいるメンバー皆が嫉妬しているよ」

「え?え?え?」

「小林は優秀な戦力だ。本部の全ての仕事を把握して、必要があれば即座にフォローしながら営業の方向性を定めていく仕事をしている。俺や岩根が店舗一つ一つに眼を配る分、小林は全体を見て司令塔をしていると言って良い。井上本部長が対外的なことをまとめたら、小林が社内のことをまとめると言った風にしてココを動かしている。本部長と小林が統括本部の司令塔なら青山と江崎と鈴木のチームでそのバックアップを担っているんだ。いいか?お前は青山の仕事が良くわからないと言うが、病気で通常勤務が出来ないからここで変則勤務をしているわけじゃない。体の自由は利かないが、マネージメントの仕事としては人の3倍のパフォーマンスを持っている。小林は自分の業務のほかに、青山が自由に動けない分をフォローしている。小林のパフォーマンスも負けず劣らす人の2倍はあるぞ?それが、君が来て1ヶ月ちょっと、それが落ちている。何故だかわかるか? 君の指導に時間を取られてばかりで本来の仕事が出来ていないからだよ。まぁ、人事から君を預かったんだ、そこは仕方がないけれど、自分の仕事の出来なさを棚に挙げて小林にフォローさせて、なおかつ仕事のレクチャーをイチから丁寧に教えて欲しいとねだっている。小林は業務だから君の仕事をフォローするし、教育もするが、小林を尊敬する俺たちからすれば、うらやましい限りだ。そんな簡単な仕事も出来ないのに小林の一番近くにいる、とね」

「え?え?」

「そうですよ、小林女史の仕事ぶりは勉強になりますよ。一緒にいれば営業全体の仕事を見渡せますからね」

「そんなポジションにいるのに、君は全く気が付いていない」

「えええ?そうなの?」

 営業一課にいるメンバーのぼやきに驚く小林。

「俺も嫉妬してますよ。チャンスがあったら教えてほしいくらいですよ。傍にいるだけでも盗めるのに」

「朝のルーチン作業、あれで一週間の動きがわかるからって江崎さんが教えてくれたでしょう?週間予定表とか、月間予定表とか、各店舗の店長宛に送っているでしょう?それで一週間の動きをチェックして自分の仕事を組み立てるんだって」

「ええええ?」

 長野は首をかしげた。

「そういえば金曜日に…?」

 思い返せば、毎週金曜日にいつも誰かにそういうことを言われたような気がする。だが、一週間分として割り当てられた仕事の締切が金曜日だからいつも慌しくて実行していない。

「だって、それは一番忙しい金曜日にそんなこと言われても…」

 野田が頭を抱えた。

「ちなみに、ルーチン以外の仕事は何をしてるんだ?」

 念のため、と野田が質問した。オーパーキャパなら彼らの言うことは成立しないからだ。

「必要資料の引き出しとその資料のプリントアウト、提出報告書の校正と清書、手書きの週間管理表のプリントアウトを試しにやってもらっています。まぁ、新人の仕事としては三日分くらいですか。1ヶ月で週間管理表の作成まで進められれば大丈夫だと思ったんですけど、まぁ、それ以前の結果でして申し訳ない」

 つまり、一週間単位の仕事としてみれば三日分の仕事を5日かかっていると言う報告だ。

「ああ、わかった」

「そういうわけで長野さん、こちらへ。少し今後のことを話したいので。鈴木さん、人事課にいます。携帯持って行きますから」

 会社支給の携帯を見せると鈴木は頷いた。楓は長野を人事課の面接室に連れて行く。



 ここは、人事課の人事面接用に特化された面談室で、一般の面談室とは違って割合防音がされている。通常の話し声はまず聞こえない防音設備になっている。

 最も、社内のモラル維持のために誰が誰と会っているという事はオープンにされるので上半分はガラス張りで、基本ブラインドは上げた状態の面接だ。

 その代わり、この面談室は人事のメンバーしか見ることが出来ないつくりだ。他課の課員が人事に用事があってきたとしても、ちょっと奥まっているのでブースの奥に入らないと見ることは出来ない作りになっている。

 人事の規約どおりに記録係の課員がテープレコーダーと記録用のノートパソコンを持って野田に付き添い、野田と楓に相対するように長野が座った。三人の前には事務用机が二つあり、離れたところに記録用の事務机がある、取調室のような殺風景な部屋である。

「小林先輩?」

「まずは、座ってください」

 野田が静かに諭した。

「入社してから、研修の後あれこれ違う部署で働いて頂きましたが、貴方が自己申告した希望職種と貴方の能力に大きな差がありすぎて、実際のところ、希望職種に配属するのは大変厳しい状態です」

 野田が人事評価のためにチェックリストを提示した。つまり、社内研修においての最低限の基礎チェックと言われるようなもので、ここが出来ていないと試用期間内であっても本採用にはならない基準となる。

 リスト化されたそれは、ごくごく単純な服装や店舗での接客技術の問題、本部などの内勤の仕事に関しては言葉遣いからそれこそ書類の作成から処理スピードなど、細かいチェック項目がある。正直に言って、高卒のアルバイトでも理解できるようなこと細かな内容だ。当然だが、高卒社員の採用も行っているのでこういうリスト化は当たり前だし、明文化されているほうが人事管理上、評価しやすいということだ。もちろん、このチェックリストは入社時に渡されており、各々の時期にクリアすべき課題と言うものもあってそういったことも明確化されていた。

「うわぁ、こんなのがあったんだぁ」

「入社時のオリエンテーションでお渡ししてありますよ」

 野田がそう補足した。

「さて、希望しているのは総合事務職、つまり本部に限定される事務職なわけだけれど」

「はい」

「総合事務職が要求される標準的なチェックスコア点数と、最低限とされる事務職チェックスコアの点数がこれ。君の点数は、入社時がこちら、現在はこちら」

 数値化すると、殆ど伸びていないし入社後最低限とされる本採用のためのスコアラインにも届いていない。

 つまり、入社試験の時から入社直後までの評価は高いが、今現在の評価は悪いという結果になっている。

 もちろん、全ての社員がスコアラインをクリアしているわけではない。ある程度の偏差は人事課として容認している。スコアが全てではないが、可視化できるものさしとしては、新人教育に有用だとしているものである。そして長野のスコアは故意というレベルで酷かったのである。

「うそぉ、ひどぉい」

「そしてこれが、参考評価としての店舗評価だ」

 野田が出したのは箇条書きにされたチェックリストだった。長所、短所、というワクで箇条書きで描かれてあった。

「店舗評価?」

「暫定的に、各店の店長と副店長に長野のことを評価してもらった。時間的に短時間の場合もあるし、一概には言えないから店舗としてはこれは絶対にダメ、と言う評価にだけ注意を払ってもらってね。その中でトップなのはまずしゃべり方とマニキュアとピアス。どれも最初にちゃんと注意したよね?それが注意項目として上がるのはおかしくないですか?その前に人事研修でも服務規程についてはやったよね?」

「はい」

 楓は確実に確認した。

「前提条件といえるチェックを全くもってクリアしていないから、営業統括本部に勤務するだけのベースの力はないと判断します。それから、ここ1ヶ月の就業状態についての評価です。例えば、ベースの力が多少足りなくても、営業統括本部において優秀と認められる突出した部分があればチェックスコアが足りなくても配置転換に考慮することが出来ます。この数値が現実、長野が本部勤務に向いているか、最低限の事務仕事ができるかと言うチェックに関してはベースラインのチェック数を突破していないと言う判断です。つまり、このまま営業統括本部に配属するには力が足りないと言うことです」

「ええええええ?」

「入社試験のときの君のチェックスコアは128点、これは他の人と比較してもごくごく平均的な数値だし、うちのアルバイトさんやパートさんのチェックスコアと変わるような数字ではない。ところが、入社後、各部署での研修、それから営業統括本部での研修のチェックスコアは…まぁ、職種によって向き不向きがあるからばらつきがあるのが普通だけど、平均して100点程度というのは非常に悪い成績だ。どんな新入社員でも、基本的に入社試験のときのボーダーチェック数プラスマイナス5というのが今までの平均偏差だ。もちろん、人物評価をただ点数化して評価するというのは問題だからね、人事評価権を持つ係長職以上の人間が評価しての考察も含めてのことだ。井上本部長預かりになる前、本部長も私からも、人事部長からも君に念押ししたはずだ。今までの態度を改めてしっかりがんばらないと、最終的に君にとって厳しい判断になると」

「え…え…」

 野田の言葉に戸惑う長野。

「待ってください。それって変です」

「疑問があるのかね?」

「だって、今日こんなことになったのは私が藤堂課長と話したことで小林先輩が嫉妬したからですよね?小林先輩の嫉妬ですよね?」

「ちょっと待った。チェックリストの評価はそもそも人事権がある井上本部長と青山さんと岩根課長と藤堂課長の評価であって、小林の評価はここには一切はいっていない」

「え?そんなのおかしいじゃないですか」

「営業統括本部は現場で言えば店長や副店長経験者が多くて、なおかつ人に指導することも他の社員よりも多いの。自分が指導した人間には甘い採点になりがちだから、井上の方針で私が預かった以上、私の評価というのは参考にもならないの。故に私のチェックシート評価は提出されていないの。だから貴方が言う…嫉妬?私が嫉妬して貴方に不当な評価をした、だから人事に呼ばれたと言う可能性は皆無。それから、貴方の仕事内容も私の仕事に限定したわけじゃなくて満遍なく青山さんや藤堂課長や岩根課長の仕事に関わっているから、仕事の評価は各個人の総合評価。もう一つ言うと、チェックリスト評価の締め切りは2、3日前だったはずよ。私は知らないけど。でも昨日机の中になかった書類が、今朝あったと言うことは、井上自身が昨日の夜か今朝に私の机の中に入れたということ。つまり、事前に評価されたものだと言える。貴方が言っていることは言いがかりだわ」

「はぁ」

「それからいろいろ疑問があるんだけどね、長野。どうして本気で仕事をしないの?」

「えっ」

 長野が言葉を失った。

「そんなことは…」

「あるでしょ?適当に手を抜いて仕事をしている。それも、様子を見ながら、わざと」

 楓はそう指摘した。

 野田が、ゆっくり顔を上げた。

「最初は俺のカンだけだったんだがな」

 はぁ、と野田がため息をついた。

「ここは学校ではない。会社だ。その意識がないなら今すぐここを出て行けっ」

 隣にいる楓には過分ともいえる野田の「吼え」が部屋中に響いた。

 長野はびくりと肩を上げ、恐怖におののいている。記録係として付いてきた男性社員が「怖い」と言いたそうにビクリとノートPCから指を離し、ちらりと楓に視線をやった。

 久々に出た「野田の吼え」は迫力満点で、恐らく防音機能の限界を超えたのだろう、ガラスの向こうで仕事をしている人事の課員たちが驚いたように視線をこちらに向け、しかし、楓と課員が平然としている様子から止めに入る必要はないと判断したのか、すぐに仕事を続けた。


 野田はそこから、入社以来の長野の問題の数々を指摘した。つまり、服装規定に始まって、店に出せば客ときちんとコミュニケーションできない、客の要望が聞けず、なおかつ求められてもいないのに自分の意見を押し通そうとする。店の事務を任せれば間違いが多く、取引先まで迷惑をかける。本社事務を担当させれば同じようなミスを何度もする、指示を聞かない、上司であろうと意見する。等々、無口な野田が良くここまでしゃべると言うほどのマシンガントークだった。というか、「人事の野田」を怒らせるのは「トラの尾」を踏むのと同じだと言うことを長野は理解していない。しかも、野田が指摘したことは本来の長野の能力ではないと、故意にこれらのことをやっていると追及したのだった。そこまでやるのかという、その理由を教えろ、と詰め寄った。

「わかったかっ、自分の行動を反省しろっ、理由が言えないなら本当にクビだっ」

 その言葉で〆られたが、長野はぽろぽろと泣いている。

 正直、楓は野田の説教を5分と喰らう勇気はない。理詰めでごもっとも、と納得できる材料でコンコンと言われるのだ。こんな怖い同僚はいない。いや、入社年も上なのだから同僚とは言い難いほどの先輩社員だ。

「長野、貴方がウチの会社に恨みがあってこんなことをしているわけではないということは分かっている。恨みがあるならこんな回りくどいことはしない。だから、こういう態度は長野自身の、プライベートの問題だと予測は付けられる。まぁ、それが長野一人で乗り越えなきゃいけない問題なのか、それとも誰かの手を借りて乗り越えなきゃいけないのかはともかくとして、方法間違っていると私は思うんだけど」

「それは、わかっています。わかっていますけど…」

「じゃぁ、その先は野田課長に話しなさい。プライベートであっても、社員の相談に乗るのは人事の仕事の一環だしね。では、野田課長、私は業務がありますのでこれで失礼します。あとは課長にお任せします。営業本部としては井上が申し立てたとおりにしてくださいませ。私に異存はありません」

「おい?」

「それが、井上と私の考えですので。では、研修お疲れ様でした」

 楓は一礼するとさっさと部屋を出て行こうとした。

「あ、あの、マジで社内恋愛は禁止じゃないんですか?」

 野田がその言葉に呆れたようにため息をついた。

「ごめんなさい、本当に禁止だったらさっきの事、藤堂課長と小林先輩にとても不利になることだから。その、勢い余っちゃって、失言でした。ごめんなさい」

「ほう、で、小林、お前彼女に話したのか?」

「いえ。彼女が知ったのは今日だと思いますよ?私からは一言も話していないし、藤堂も同じだと思います」

「トラブったわけじゃないのか」

「ちがいます。社内で藤堂とのことを惚気るつもりはないですし、長野ともトラブルになっていません」

「あの、お二人が付き合っていることに驚いただけで…」

「お前、それ盛大なノロケだぞ」

 長野と野田の言葉がかぶった。

「うちは社内恋愛は禁止じゃないし、夫婦であっても同じ部署で勤務することは良くある話だから何も言わない。まぁ、風紀を乱すトラブルになるようなら双方それなりに処分はするが。藤堂と小林は付き合いが長いし、プライベートで喧嘩してもそれを社内に持ち込むようなことは過去なかった。『鬼の井上』配下の二人だからな、何かあったら井上は即断即決で二人をクビにする。だから心配ないよ」

「『鬼の井上』ですか?」

「おや、知らなかったのか?営業統括本部にいる井上、青山、小林、藤堂、岩根は二つ名を持つ上司と言われている。パート勤務の鈴木も江崎も二つ名を持っているよ。それほど優秀な人間が集まっている」

「そして『トラの野田』という異名がある人がここに一人。トラになった野田さん久しぶりに見たわ、ありがとう」

 楓は野田に一礼し、見送ろうとして立ち上がった課員に手を振って制すると部屋を出て行った。

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