第6話
長野が仕上がったレポートを持ってくると、今度は懇切丁寧に指導し、書き方から修正した。彼女が驚くほど、最初のレポートは真っ赤に添削されている。
驚いたことに、車の中でさっとレポートの書き方を説明し、帰社してからレポートの書き方の様式の見本を見せただけで長野はきちんとまとめて来ていた。
普通の新人はこうはいかない。
「それでも新人にしては誤字脱字が少ないほうね」
「本当ですか?」
「本当です。小林さんは採点が辛いから」
横から青山が補足した。
「これ、清書して本部長に提出したら帰って良いわよ」
時計は午後5時を過ぎている。青山があれ?と楓の顔を見た。
過去、新人や転属してきた社員の初レポートを素直に受け取ったためしがない。
曰く、まとめ切れていない、着眼点が悪い、改善方法が書かれていない、レポート形式に則っていない、誤字脱字が直っていない、などなど。
二度、三度突き返されるのは当たり前と言えるほど楓のレポート提出は厳しい。楓が担当したら、泣きながら書き直して提出したなんていう逸話は腐るほどある。だから、「清書して提出すればほぼ定時に上がれる」という言葉は過去聞いたことのないパターンだったからだ。
初回のレポート提出で一番早かったのは着手から提出まで2時間が最短だったと記憶している。その記録を大幅に短縮した。ということは、だ、と青山は思いを巡らせる。
余程内容が悪いのかと疑ったが、書式設定が違うこと、誤字脱字の指摘、数か所、文章として「てにをは」が成り立っていないと指摘しただけで長野の清書を許したところをみると内容には問題ないらしい。
ということは、異例である。つまり、何か一癖ある新人で楓が見込んだ人間だということか、とほくそ笑む。
「ファイルに入れて、本部長の未決裁の箱にいれておけばよいから」
「そうなんですか」
「お疲れさーん」
終業間近になってくると、外回りに出ていた社員たちが戻ってくる。楓はすでにレポートを書き上げており、今は井上が決裁した書類の処理にかかっている。そのスピードは速い。長野が驚くくらいのスピードで判断して仕事をしていた。
外回りに出ていた社員も、内勤の社員も一区切り付いたら順次帰っていく。今日の営業統括は落ち着いている。井上は外回りの日のパターンでいつもの如く、朝の1時間ばかりと終業30分くらいは在席していたが、他の時間はあれこれと動き回っている。合間に帰ってきても、楓を助手に猛烈な速さで仕事をこなし、指示をだす。それこそ、長野が目を回すくらいな速さだったが、楓は迷うことなくその指示全てを業務用のノートに書きとめ、難なく復唱して処理していく。
楓が業務用ノートにチェックしている内容は即座に処理するものと猶予があるものとに分けられ、楓や他のメンバーに振り分けられていくのだ。
「小林」
「はい」
「お前、中原店で早速長野を叱り飛ばしたんだってな」
「耳が早いですねぇ」
「落合が目をまん丸にして電話かけてきた。初日にあんなに叱り飛ばして大丈夫かってな」
「望みがある相手なら最初から本気ですよ。望みがないならその場でクビです。及第点にはなったので、一応叱り飛ばすだけにしました」
がははは、と井上が笑った。
「長野」
「はい」
「聞いたか?お前は叱り飛ばしたから望みはあるんだと。良かったな」
「怖かったんですぅ、本部長」
「そうだな、コイツが本気で怒ったら俺も怖いわい」
またがはは、と笑った。
「精進しろよ、小林がさじ投げたらお前行くところないぞ」
「えー、そうなんですか?気をつけます。で、落合さんて、私、会ってますか?どこにいた人なんですか?」
「事務所にいたでしょ?パートの事務員さん」
「あ、あのテキパキおばさんですか?」
長野はそう答えたので井上がガハハ、と笑った。
「良い表現だな。あいつはパート職で、中原店しか知らないが中原店の勤務が一番長い。しかも、売れ筋商品についちゃぁ一格言ある奴だぞ。仲よくなっておけ」
長野はその言葉にピキンと固まった。
「つまり、社員でも一目置く存在ってことですか?」
「伊達に長く勤務しているわけじゃない。何度も社員にならないかと口説いているんだけどねぇ、きっちり頭下げて断ってくる」
青山がごちた。
「親の介護が優先するから、社員にはならないんだと」
井上がそう言った。
「優先順位が決まっているからこそ、ですよ。中原店は彼女がいるからこそ円滑に回っているの。よし、終わり。長野は?」
「終わりました。じゃぁ、私はこれで失礼しまーす」
長野は仕事を終えて一礼した。もちろん、きっちりレポートを提出してだ。
てきぱきと机を片付けると、さっさと長野は職場から姿を消した。
「で、初日の感想は?」
ニヤニヤしながら井上がそう問うた。
「いろいろ、引っかかっている点があります。見極めてお返事します」
「そうか」
「それから、長野のレポートには手を加えていません。文章的におかしいところの指導はしましたが、内容の変更はしていません。私からの報告はそれだけです。では、本部長、明日の朝に手配しておきます。失礼します」
「おう。お疲れさん」
井上がその言葉に片眉を上げ、面白そうにレポートを手に取った。新人のレポート提出を一々楓が口添えすることはない。なのに、そうやったということは「意味がある」からそう言ったということだ。
楓は在室カードを帰宅状態にすると、私物の入ったバッグを持ってロッカールームに行く。
会社の制服は基本、男女ともに支給されているものだ。店舗と本社勤務によって多少違うが、本社勤務であっても店舗の応援に行くことは多々あるので最低限のワンセットと呼ばれる、男女ともにスラックスとポロシャツ、作業用のジャンバーは必携である。これらは常にロッカーに入っている。
全ての社員には制服通勤が許されているし、課長職以上の制服着用は任意だが、楓は、一日店舗に滞在する場合は制服着用を基本としている。だから本社のロッカールームの使用は最低限になるが、それでも毎日通っている。
今日は洗い上がった作業用ジャンバーを持ち込んでいたので、これをロッカーにおいておくために立ち寄った。
ほかの女性社員たちも、長野も制服から私服に着替えている。
「ロッカー、あるんですね。部長のロッカーが部屋にあったので課長職のロッカーはないもんだと思っていました」
「課長まではロッカーがあるのよ。部長になるとパーテーションで区切ったエリアが貰えるからロッカーはないの」
「あれ?井上部長はそういうエリアがないですよね?」
「奥の休憩スペースが一応割り当てエリア」
ん?と疑問に思う。無造作に積まれた段ボールが数箱と服かけスタンドが置かれた、パーテーションで区切られた無造作な角が部屋にはあった。その一角が必要なのかというほどの狭さである。
「部長職はパーテーションで区切った部屋が貰えるのよ。でもうちはそう言うの嫌いだ、の一言で物置みたいになって」
「そうなんだ。それから先輩、すごく不思議なんですけど」
「何?」
「ウチの会社、制服規定があるのに、どうして足元は運動靴、パンプス、革靴のいずれか動きやすいものという適当な規定なんですか?」
「長野、一度5センチヒールで一日店舗勤務してみると良いよ。レジ番だけじゃなく、商品補充もそれでやってごらんよ」
その言葉に長野が詰まった。考えただけで無理だとわかる。店舗研修の時の「立ち仕事」の過酷さを知っているからだ。今日だって重い商品を動かすのに、ヒールがどれだけ不安定かを思い知らされた。直前に、運動靴に履き替えろと言ってくれた藤堂に感謝だ。
「新人のロッカーに運動靴を常備させるのは野田さんのアイデアなの。確かに、制服やビジネススーツに運動靴は似合わないし格好悪いけど、新人はとかく店舗に回されやすいし、本社勤務でも応援で店舗に出ることもある。パンプスや革靴よりも運動靴が安全なら、安全を取れということよ」
「そうそう。おかげで雪の日は助かりました。ロッカーに常備してなかったらどうなっていたかってことが何度か」
ロッカールームにいた女性社員がそう言い添えた。
「長野、そうやって疑問に思うことは良いことだよ。この先、それがチャンスになる。最も、チャンスをどうするかは、長野次第だよ」
楓は荷物を点検した後、ロッカーに鍵を掛けると長野よりも先に出た。
一方、井上は自分の席で長野のレポートを読んでいた。店舗巡回報告書と呼ばれ、出張報告書のようなものである。
店舗巡回報告書は、井上にすれば、言わばメモ書きに近い連絡事項の羅列である。だが、視点を店側に置くのか、客側に置くのか、はたまた店舗で働いている人間からの視点にするかでずいぶん違ってくる。
「戻りは早かったのか?」
そう言いながら外出予定表のボードを見る。帰社は午後4時過ぎ、ほぼ定時で帰っているので、レポートのダメ出しは一回か二回で済んだということだ。
「本部長?」
「いや、うん、こりゃ、化けるかもな」
そう言いながら楓の店舗巡回レポートにも目を通す。確かに、楓と長野のレポートは違うし、情報の質も違うが。
そして楓のレポートには付箋が張られてあって、アルバイトの塚原君は夜学の学生であることが特記されていた。
どこの夜学に通っているかは書かれていないが、今のままでは物理的な距離が問題になって深山店に勤務することは不可能になる、ということを意味している。
相変わらず良いトコを突いてくるなとニヤリと笑って付箋をはがした。
仕方ない、別の誰かに任せるか、と頭の中の候補者リストを探し始めた。
スーパーに寄って食材を調達した後、楓は自宅アパートに戻って来る。
楓の実家はアパート近くの「小林モータース」である。遡れば、祖父の代からレースに関わっているような代々続くモータースで、車の販売、修理、チューンナップを生業にしながらレースにも出場している。
今は長兄がモータースを引っ張っているが、その長兄をサポートしているのが両親である。長兄の妻は経営部門を一手に引き受け、楓の母と一緒にモータースのかじ取りを行っている。長兄は父と一緒に営業部門とレース部門を担当していると言って良い。それを助けているのは三男の「ちい兄」で、メカニックを担当している。
会社に隣接する自宅で、両親と長兄一家、次々兄夫婦が敷地内同居しており、楓は実家から歩いて10分とかからない場所でアパート住まいをしている。
次兄は次兄嫁の実家の事業を手伝っていて、観光業に身を置いている。便宜上、小林姓を名乗っているが、戸籍上は婿養子であること、しかるべき時が来れば後継者として公表されることは暗黙の了解の話である。
帰ってすぐに家事をはじめ、同時進行で食事の支度を始める。今日は何も言っていなかったので藤堂は夕飯は自分で食べるだろう。
そう思いながら一人で食事を終え、ゆったりとした時間を過ごした。
頭の中で考えるのは、「長野葉子」という正体不明の新人の事だった。
野田から提供された人事課の、入社前の評価と入社後の評価の落差が激しい。最初はそこだった。入社前に課せられた課題やレポートに関しては全く問題なく、本人の予定通り総務配属かと言われていた。
ところが、入社後の研修でハチャメチャなことをやったのだ。
服装規定を守らない、講師をからかうような発言をする、課題にまじめに取り組まない。店舗研修はさぼる。
大々的にやるのなら良いのだが、ぎりぎり、露呈しないようにやるとか、時間制限ぎりぎりにやりこなすというか、そういう危ういところで止めるやり口である。野田の目に止まらないわけがなかった。
彼女自身、退職したとあるOBからの紹介で入社試験を受けている。入社試験では縁故採用していないが、一定の基準で採用するとき、一般受験者と縁故受験者が同じ評価だった場合は縁故がある者が優先されるという人事規定がある。最も、彼女は紹介されてはいるがぶっちぎりの上位成績で入社試験を突破しているが。
なのに、あの態度は腑に落ちない。それが野田の言い分だ。研修期間中にクビにしてくれとでも言いたげな態度は何か理由があると踏んでいた。
そしてだめ出しは「店舗開発部に行きたい」だった。
どんなに情熱がある社員でも、入社直後に店舗開発勤務が認められた事例は少ない。過去、当時の専務や部長や上司達に引き抜かれて配属されたものが殆どで、長野もそれに当たる。出所が野田なのか井上なのかわからないが、「目に留まる何か」があったことは間違いないと思っている。実際、あのレポートには正直驚いた。だから、通常のレポートよりも文章量が足りないが初レポートの基準をクリアしていたので井上に提出させたのだ。
楓が見る限り、きちんとした家で育った女性だと見ている。レポートや字を見る限り、ハチャメチャ行動はわざとやっているとしか受け取れない。野田の言い分はアタリだというのが第一印象だった。
これからどうなるかはわからないが、唯一言えるのは彼女を見ていて商品の動きに敏感なところだった。
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