第5話


「いやぁぁん、ネイルが割れちゃったし、はげちゃったぁ」

 場違いともいえるその言葉に、有川が舌打ちしそうになったその時。

「長野」

 ピキン、と凍り付きそうな楓の冷たい声が走った。


 ああ、地雷踏んだ。アーメン。


 そう思ったのは有川と、楓の恐ろしさを知る検品担当の「宮ちゃん」である。有川に至ってはもう楽しそうにニヤニヤしている。「宮ちゃん」は救いようがないというあきらめの境地で首を振り、アルバイトの塚原はもう恐怖と畏怖でカチンと固まっている。

「小林を怒らせるのはチャレンジャー」

 それは、さんざん有川と宮ちゃんが評した小林評である。事実、数々の武勇伝は飲み会の席で有川が披露してくれている。

「普通に勤務してりゃ、あいつの地雷を踏むことはないさ」

 有川はそう言うが、いくら新入社員と言えども、今日目の前にいる長野という女性は塚原の目から見ても「アウト」の人物である。

 一方の道本は研修で見た厳しさとはまた違った厳しい声におののいていた。いや、同じ新入社員でも道本に落ち度はないんだが、と有川が心の中でごちた。


「はい?」

 周囲の変化に気が付かない長野が、呑気に返事を返した。

「ここに来る前にネイルは落としてつめは切れと指示したわよね?」

「はい、そうですけどぉ」

「しゃべり方も、社会人に相応しいように言葉遣いを変えなさいと指示したわよね」

 長野が、楓の声の変化に気が付いた。

「あ、はい」

「メモ帳とペンと用意して覚えられない指示を書きとめろとも言った」

「あー、はい」

「一つも守られていないのは何故?ここは学校じゃないし、学生気分でいられる場所でもない。指示一つ守れないなら、今ここで帰れ」

 静かな、しかしたっぷりの恫喝を込めたこの言葉に、道本も、塚原も固まった。だが、有川と検品担当の「宮ちゃん」だけは当たり前だと頷いている。いや、むしろ楓の注意が飛んだ時期が遅いから、人間が丸くなって少し気が長くなったか、とも思っていた。

「えっ、帰れって」

「ここは学校じゃないの。貴方の才能と労働力を買って会社は対価として給料を払っているの。対価としての給料を払うだけの価値がないなら、会社は貴方を放逐するだけよ。そのための契約書でしょうに。理解できてる?」

「私に価値がないと?」

「ないわね。新人がまずやるべきことは指示したことを守ることだよ。今はここに来る前に指示したこと、ネイルを落として爪を切ること、しゃべり方を社会人として相応しい言葉遣いに変える事、メモ帳とペンを用意しろと指示した。あなた、一つも守れていないでしょう」

「………」

「会社で仕事をするために、まず、業務全般を覚えるために来たんだからその気がないなら帰れ。二度と会社に来なくて良い。時間の無駄だ。こっちは理不尽な要求はしていない」

 スッパリ、そう言った。指示が守れないなら来なくて良い、と言い切ったのだから、ここに来る前に既にいろいろ注意していたのか、と有川は頷く。

「そんなひどい」

 いきなりの「クビ」宣言に涙目になった長野がそう抗議した。

「当たり前だろう。ひどかないさ」

 そういったのは人事課長の野田だった。

「面談終了。空き時間ができたから久しぶりに手伝おうかときてみれば、何だよ、長野は小林にクビと言われて、もうリタイアか?」

「ひどいじゃないですか。帰れって…そんなの…」

「何で?君は店舗開発の仕事がしたいといった。だから、まずその流れを覚えて欲しいから本部長付きの小林に預けて、小林の仕事を覚えろといったんだ。昨日の夕方も、今朝も、そこまでは説明したよね?」

「でも…、小林先輩はぁ、ちゃんと説明してくれなくて」

「そうか?店舗巡回のポイントを車の中で懇切丁寧に説明していたじゃないか。君はメモを取らなかったから全部頭に入ったのかとおもっていたよ」

「そんなぁ・・・」

「やる気があるなら、理解したなら事務所に行って、爪切り借りて爪を切る。リムーバーがなかったら店舗で売っているから店長に言って買っておいで。もうこれ以上やれないというのなら、仕方ない、退職手続きだ」

 野田がとりなすようにそう言った。

「ええっ、ネイル落とすんですか?私本部勤務で店舗勤務なんかじゃないんですけど」

 楓は深呼吸した。

「長野、それ本気で言ってる?」

 明らかに、鋭い声だった。周辺の温度がガッツリ低くなったと思うほどの「マジ」の声だった。

「店舗巡回時には店の中だけのことじゃなくて、店にいるスタッフ全員が円滑に動けるように、手助けが必要なら店舗やバックヤード関係なく手伝うこともあるって言ったよね? 外を見て。もうすぐ雨が降りそうなのにバックヤードは搬入品であふれている。この後、トラック2台分の商品がここに到着したら商品は入りきらなくて、間違いなく野積みするしかなくなる。雨に濡れた商品は売り物にならないのよ。損害が出る。だからそうならないように皆でここを整理してる。爪が長かったら商品を傷つけたり、長野自身が怪我をしたり他のスタッフを傷つける可能性がある、だから爪を切れと言っている。店舗の服装規定に併せて派手な色のネイルは落とせと言っている。従わなければここで仕事をする必要はないから帰れ。そして営業統括はいつ何時だって店に出なきゃいけなくなる可能性があるから服装規定は店舗と同じ。意味があるから服装規定を同じにしてるの。理解できなきゃ会社辞めろ。そして何より、店のスタッフががんばって売り上げをたたき出してくれているから本社スタッフは仕事に専念できるの。正社員やアルバイトやパートだとか、職種じゃなくて、店舗スタッフのおかげで私たち本部は自分の仕事が出来るの。その自覚さえなくて店舗勤務軽んじるような発言するなら、私の権限で即刻クビだからね」

「ええええええ?そんなぁ、第一、小林先輩にそんな権限ないじゃないですかぁ、パワハラですぅ」

「補足すると権限はあるよ。ウチの会社は店長は課長クラスに当たる。当然、店舗の人事権を握っている。本社の課長も同じだ。営業統括は1課と2課、課長と呼ばれる人間が二人。その他に営業統括本部の流れを把握してまとめ上げているのが小林。混乱するから課長とは呼ばないが、正式には営業統括室の室長で役職は課長だ。当然、人事権もある」

 野田の説明に長野が言葉を失った。

「さ、やるよー。解説終わりー。有川先輩、指示くださーい。雨降らないうちにここ、スペース作りましょうよ」

 楓は気分一新するように作業指示をくれと有川に目を向け、手を振った。

「ミッチーと塚ちゃんは台車に乗っけた商品を店舗に出してくれ。塚ちゃん、悪いが商品補充スタッフに指示頼む。それが終わったら補充商品を台車に乗っけてくれ。小林はパレットとここのダンボール外に出してスペース確保。俺は野田さんと外の商品を中に入れる」

「了解」

「ういっす」

 有川の指示でてきぱきと動き始める。長野は半べそをかきながら事務所に向かった。

「彼女、あのままで良いんですか?」

 楓の言い分は当然だが、少しだけ心配そうに「塚ちゃん」が声をかける。楓の目が、名札に書かれた「塚原」の名前をさらりととらえた。

「この現場の仕事を知らなきゃ上には立てないのよ。これで目覚めないなら意味ないでしょ。可愛そうに、今までちゃんと指摘してくれた人なんていなかったってことよ。あの子は視点を変えなきゃ、仕事にならない。大丈夫、気が付けばマトモな社員になるだろうし、気が付かなかったら一生あのままだ」

「研修ではさんざんやってきたことなんだがね。彼女も今が転換期だ」

 野田がそういった。

「本部にいると、とかく現場の空気がわからなくなる。そうならないように気をつけてはいるんだけど、時々油断しちゃってね。申し訳ない、不愉快だろうけど、もうちょっとだけよろしく。本当に申し訳ない」

 野田がそう言って塚原に頭を下げ、同調するように楓も頭を下げた。

「あ、いや、その。わかりました」

「おーい、俺の可愛い塚ちゃんを口説くんじゃない」

 有川が呑気にそう言った。

「だって、可愛いじゃないですか。気遣いができるこんな子、どこで見つけたんです?」

「やらんぞ。まだ高校生なんだから」

「え、今からスカウトしようっと」

 野田が茶目っ気たっぷりにそう言った。

「いや、俺、夜間高校だし」

「正社員採用の条件は高卒が基準だけど、社員の推薦が二人以上あれば中卒でも正社員になれるよ。勿論、夜学にいってるならそっちが優先だけど」

「え?」

「だからウチにおいで」

 野田がにっこり笑ってそう言った。

「ほれ、急ぐぞ」

 有川が笑いながら仕事を急がせる。

「中卒でも正社員になれる。その気があるならちゃんと面談をセッティングして、君のキャリアデザインをしよう」

「俺、推薦状書くよ」

「店長も書きそうだな」

「本部長に書かせたら?」

 楓の爆弾発言に野田が止まった。

「え?」

「本部長、塚ちゃんのファンだよ」

 にこりと笑う楓を目にして、井上が新店舗の深山店のアルバイトリーダーに塚原をスカウトしたいと思っているという意図を察した野田だった。

 楓は何事もなかったかのように、作業に取り掛かり、つられるように自然と野田も塚原も作業に取り掛かる。

 バックヤードから店へと仕入れた商品が出ていくと、空になった段ボール箱やパレットが取り残される。楓がそれらを素早く片付け、片付けられたスペースに搬入するという無駄のない流れ作業だった。

 ある程度スペースが確保できると、相次いでトラックが横付けされて搬入が始まる。箱数の納入検品が終わると、売り場に商品を置き終わった塚原と道本と楓の三人で洗剤の箱を所定の位置に積み上げる。次のトラックは家電製品が少しと水ケースのトラックで、これも手際よく搬入され、検品後積み上げられた。

 気が付けば野田は人事面接のためにどこかに行っており、長野はしぶしぶだが有川の指示で搬入口の掃除をしていた。

「助かりました、ありがとうございます」

「何の。これが私の仕事だから」

 道本が一礼するが、楓は気にも留めなかった。

「今はちょっと大変だけど、もう少し待ってね」

「バイト、誰か入ってくれるんですか?何人か面接したと聞きましたが」

「野田さんが来ているのはその件だと思う」

「じゃぁお前が来たのは何の用事だ?本当だったら本部長が来るはずだった」

「あら、知っていたの。さすが先輩」

 有川が楓に突っ込む。

「私は目的は聞いていませんから」

 そう言って次の仕事を見つけて楓はバックヤードの掃除を始めた。恐らく、何か目的があったんだろうとは思うが、有川には楓の目的はわからない。井上の代理としてきた以上、「意味のある訪問」だったに違いないが。


 野田と一緒に店長に挨拶をした後、安全運転で本社まで帰り、野田を人事課まで送り届ける。

「助かったよ、コバちゃん」

「いえいえ」

 長野は店舗を出て以来、ダンマリ状態でこちらは苦笑するしかない。帰る途中で、というか車の中で店舗巡回レポートを作成するように指示したのだが、それはかろうじてどこからか取り出したメモに書きつけていた。レポートのポイントもメモしていたと野田が教えてくれていたが。

 本部に戻ると慌しくも真面目な雰囲気に包まれる。ブースに戻ると、一人の男性社員が黙々と仕事をしていた。青山だ。

 彼を長野に紹介し、店巡回のレポートを30分以内に提出するように指示を飛ばす。もうすぐ、井上がここに戻ってきて嵐のように仕事をするから、と楓はそう説明した。


 未決分の箱には、ファックス用紙が山と積まれてある。午前の分は既に整理されて決裁されてあって、楓の机の上に置いてある。連絡が必要な場合は付箋でその指示が書かれてあった。

 楓は自分の仕事を猛烈な勢いで片付け始めた。

 それを見計らったかのように井上から連絡が入り、同時進行で新規店舗の話をしていたりもする。その仕事ぶりを見ながら、長野は自分の「出来なさ加減」にうんざりしていた。

「長野」

「は、はいっ」

「手が止まってるよ。やれ」

「でも私、小林先輩みたいにはできません」

「当たり前でしょう?キャリアが違うんだから当然。新人は新人らしく、まず仕事を覚えなさいな。出来上がり次第、店舗訪問レポートを見せて」

「はい」

 楓は頷くと仕事にかかった。長野は、少しは思うところがあったらしい。

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