第3話
一体、全体研修期間中に何を学んだのか、と言いたい。最も、その責任者である野田はもう自分の部署に戻っているし、楓にとっては日常的な常識であっても、ついこの間まで学生だった彼女にとってはそれが常識ではないかもしれない、とも思う。
だが、研修で一番最初にチェックされることなのだが。
そして客商売である限り、絶対に外せない身だしなみ要項だというのに彼女はどこ吹く風である。
「店舗の視察ではバックヤードで作業することもあるし、場合によっては店舗に出て接客する可能性もあるの。その爪では接客できないでしょう」
つやつやの透明ネイルならわかる。現に楓だって爪を保護する目的で透明ネイルを塗っているからつやつやだ。そして、爪は短く切りそろえられている。身だしなみ要項に抵触しないラインで整えているのだが。
対する長野は服務規程に違反するとわかるほどのラメ入りのピンク色とストーンネイリングされた長い爪だった。
「長い爪はお客様の肌を傷つけることがあるし、不快感を与えるわ。商品整理の時に商品を傷つけたり引っ掛けたりして思わぬケガをするわよ」
「そんなぁ。これ高かったんですけど」
ありありと不満な声で速攻で返事が返って来た。違和感を感じる。ちょっと考えればわかりそうなことだ。少なくとも何倍かの倍率をかいくぐって採用された新入社員の考えとは言い難い。正直に言って、今年は相当な倍率だったという情報は届いている。
「服務規則読んでないのかしら?」
「あれは店舗用だからぁ、私には関係ないですぅ」
「ここは営業統括本部。現場で働く店舗の人達をバックアップする部署です。所在地は本社内にありますが、何かあればすぐに店舗に出ることになります。ですから身だしなみは店舗の服務規定に準ずるのが基本ですよ。人事の研修の時にそう教わりませんでしたか?」
「そうだったかしらぁ?」
「記憶にないのでしたらすぐに覚えてください。覚えられないのであれば、先ほど指示したメモ帳に書き留めて覚えるようにしてください。それから、毎日指示された仕事内容は必ずそのメモ帳にメモしてください。指示ミスと作業漏れをなくすためです。作業手順が分からないのならそれもメモしてください」
その隣で、鈴木が仕事用のノートに今日の仕事をメモしている。彼女はチェックリスト方式で仕事をこなしていくタイプだ。江崎は束になった書類を振り分ける朝の作業をやっている。
「さ、作業に戻ってください」
店舗への書類の振り分けなどは朝の30分ほどの仕事だ。その間に次の仕事をする。
午後から店舗に行くとなるとその分の時間が無くなる。井上の中原店の視察は数日前に決まったことだった。アルバイト従業員が2人、時期を前後してだったが辞職した。代わりにアルバイト店員を3人雇用し、およそ1か月くらい経過している。井上は3人以上の人間が出入りした店舗には必ず本部の人間を様子見として行かせている。楓や藤堂は「井上ルール」と呼んでいるが、「意外と何か引っかかる」場合があるというのは課員全員の共通認識だ。だから、少なくとも営業統括本部の人間は店舗に行くことをためらわない。一方、店舗には一切連絡しない、文字通り飛び込み視察だが、受け入れる店舗は拒否する様子は一切ない。本部の課員とざっくばらんにあれこれ口にできる機会だとして意見交換する店長もいれば、まじめに忙しいからと無視して仕事に励む店長もいる。店長が休みの日に当たることもあるが、それでも良いと井上は思っている。店長や店舗で働く全てのスタッフが、色々な意味で意思疎通ができなければならないと考えていて、スタッフが店長には言えない不満や相談でも、本部の人間に相談すればよいと思っているし、本部はそこで働く人間に対して、気にかけているということを示すための視察であり、「何か不都合があるかもしれない」ということを事前に察知することの方が重要だと思っているからだ。
井上にとって、もちろん売り上げを叩き出すことも重要だが、店舗で働くスタッフたちの労働環境もまた重要なのである。
メールや書類の処理を終え、中原店に行くために午後の仕事を前倒しで進める。移動に往復2時間はかかる場所なので、前倒ししておいて損はない。
「小林」
「はい」
呼ばれて振り返れば店舗開発の藤堂課長が書類をひらひらさせながら立っていた。
「すまん、本部長は今どこだ?」
「専務に呼ばれて橋本設計と打ち合わせ中です。奥の応接室にいますけど、さっきの塗料の資料ですか?」
「ああ」
「午後からの出張に持っていきたいと言っていましたのでお預かりします」
「よろしく」
ファイルバインダーを受け取った。この資料は午後から井上と帯同する。
「藤堂課長、今日は一日本部ですよね?」
「ああ、その予定だが」
「今日の午後は本部長も外に出るし、私も本部長の代わりに中原店に行ってきます。ここが誰もいなくなるので、青山さんと鈴木さんをお願いできますか?」
「珍しいな」
「青山さんは病院が終わり次第で出勤してきますから、鈴木さんと店舗のデータ解析の仕事を振り分ける予定です。でも具合が悪そうならデータ解析じゃなくて今度の営業会議の資料作成をお願いする予定です。下書きは出来上がっているので、校正と体裁整えて資料化して、各部署に確認取るお願いをしてほしいと。指示書つけてるんですぐにわかると思います」
「おう、で、あの子は?」
「連れて行きます。私の仕事を覚えさせろというので、とりあえず中原店同行です」
「そうか」
当の長野は江崎についてあたふたしながら名前を読み上げている。長野が読み上げた書類の宛先を、江崎が指定された箱に入れていく作業の真っ最中だった。
社内メール便の仕分けは、各店舗名と店長名を覚えるのにうってつけだ。今日と明日は二人でやらせるが、明後日からは一人でやらせる内容だ。
「小林さん、中原店分はどうしますか?運ぶんですか?」
「中原の社内メールは私が持っていくことになってるんだけど、他のメールの確認もあるから一旦総務に持ってって。12時出発、13時到着予定で、出発前に総務に取りに行く予定。担当には連絡しておいたから」
「わかりました。長野さん、社内便の締め切りは一日一回、午前10時、その便に乗せることができれば当日各店舗に届きます。ただ、各店舗のひとが当日読めるかどうかは微妙だから、目を通してほしいものは必ず事前に送っておくのよ。で、本部長と小林さんが店舗に出る場合は社内便を届ける場合があるの。これは一回一回確認してね」
江崎は時計を見ながら長野を急かして総務に向かった。
「前途多難だな」
「そうかも」
くすり、と藤堂は笑って自分のデスクに戻っていった。
11時30分に仕事を終えた長野は飛び出すようにコンビニに走って行き、一方の楓は自分のデスクで資料に目を通しながら持参したおにぎりをむしゃむしゃ食べている。
病院から直行してきた青山は足を引きずりながら自分と資料がある棚を往復して資料を整え、鈴木と仕事にとりかかっている。
「江崎さん」
「はい」
でん、と机の上に置かれたのはおにぎりである。
「昼休憩はないけど、お茶飲むくらいの気分転換はOKなんだから、その時つまむくらいならだれも咎めないよ」
「でもこれ小林さんの」
「食いしん坊は予備を忘れません」
ぷらぷらと別のおにぎりを振って見せる楓。江崎は笑ってありがとうございます、と受け取った。江崎はパートで入っているので昼休憩なしで勤務時間を務めることもあるし、長時間シフトの時は昼休憩を取ることもある。今日は一時間の残業を頼んだので昼食を取る時間がないのだ。
部署にある共通のノートに仕事の指示を残し、自分と長野は中原店に行き、午後4時帰社予定と書いておく。帰社時間にいるのは青山だけだろうが。
手洗いを済ませ、化粧を直すと総務に顔を出す。社内便の受け取りである。
社内便は専任の担当者が毎日各店舗を回って配達する。店舗間の商品移動もこの社内便で行うのが基本だ。店舗間の商品移動には時間がかかることもあって、双方の店長の間で話がまとまれば、社員が行き来して商品移動をすることも可能であるが、それは客が急いでいる場合のみと定められている。定められているが、お互いに便宜を図ることも多い。ただ、事前の情報では今回は書類の入った通常の社内便と消耗品の入ったカゴという連絡を受けている。
総務から託されたのは、社内便のほかに新人アルバイト用のエプロンやジャンバーで、社内便用のカゴと一緒に渡された。
「それから、僕も同行するよ」
手を挙げたのは人事課長の野田である。
「野田さん?乗っていくのは良いですけど、長野も一緒ですよ」
「ああ、本部長から聞いている、構わないよ。もう出るのかい?」
「長野に昼休憩を30分と言ってあるので、12時には戻ると思います。そのまま出発しますが」
「戻ると思います、って、ずいぶん優しいな」
「初日ですから。車を回してきます。第二駐車場なんで」
時計は11時45分、まだ余裕はある。
カゴを野田に任せると、本社社屋から離れた第二駐車場に向かう。
地方は車社会だ。当然、通勤には車を使う社員も多い。本社敷地内が第一駐車場とか本社駐車場と呼ばれ、道を挟んで離れた駐車場は第二駐車場と呼ばれている。基本的に外回りに行く社員は第一駐車場に車を停め、順次出ていくことが多い。反対に、終日、本社勤務の場合は社屋から離れた第二駐車場に車を停めるのがマナーだった。それは社長であっても変わらない。
楓はトランクを開けると、まずヒールからドライビングシューズに履き替えて車に乗り込む。それから第一駐車場の空きスペースに車を移動させた。
営業統括本部に戻ると、長野はまだ戻っていなかった。楓は仕事用のバッグに必要書類が入っていることを確認すると外出連絡用のホワイトボードに行き先と帰社予定時刻、同行者と車使用については自家用車の車種とナンバーまで書いておく。
「ただいまぁ」
呑気に戻ってきたのは、長野である。何をどうしたのか、先ほどよりも念入りにされた化粧でピカピカ、髪の巻き具合がクルンクルンとなっている。加えて、ネイルも爪の長さもそのままだ。これから私とデートに行くつもりなのか、と突っ込みそうになって寸でのところで思いとどまった。
「行くわよ」
諦め半分で「長野同行」と追加で書いてから振り返る。在室していた藤堂課長は電話中なので軽く手を上げて外出の許可を出した。
オフィスを出ると、早速、長野が不満顔だった。
「時間早いですよぅ」
「長野さん、その話し方直そうよ。お客様に失礼だから。学生じゃないんだから、きっちり話すようにしないと」
「お客様に失礼とは言ってもぉ、本社で接客するわけじゃないから」
「来客はあるわよ。社内でも社外でも、話し方はきっちりはっきり敬語、基本でしょうに」
「そんなぁ」
総務に顔を出すと、野田が待っていてくれた。
「遅くなりましてすみません」
「いやいや、急に悪かったな」
社内便を手に、野田が笑った。
「え?一緒なんですかぁ?」
「急に面談することになってね。本当は社用車借りれば良いんだけど、今日は全車両出払っているし、僕の車は車検で自転車通勤中なんだ」
「課長の自宅から会社までかなりあるじゃないですか」
「まぁ、週末までは仕方ないよ」
「雨の日はSOS出して大丈夫ですよ。それくらい許容するでしょうから」
「そうだな。今日はどの車?」
会社に乗ってくるのは2ドアであっても5人乗りを選択することは楓の行動範囲で知っている。楓が乗ってくるのはいろいろあって、野田の楽しみでもある。
「今日はアクセラですよ」
「アクセラ?」
「マツダの大衆車。ボディラインが高級車っぽいんで、人気がありますね。母親と自分の軽四を交換したんで、当分アクセラです」
「え?911お母さんが乗って大丈夫?」
「カスタムしているのが楽しいみたいですよ。あの人も車好きだから」
荷物を持って駐車場に行く。
その中の一台が、明らかに違った。
つやつやピカピカにドレスアップされた大衆車の国産車である。マツダアクセラ、高級車っぽいと評判のボディラインを誇る車だ。当然ながらボディラインは落ち着いてはいるが、目の前の車は「イカツイ」ホイールをはきこなしているし、ちょっと違うのは特徴的な車屋のステッカーである。そのデザインがまた「イカツイ」のである。
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