第2話


「長野葉子さん、しばらくウチで預かることになった。下に付けるから仕事を教えてやってくれ」

 端的にそう言ったのは井上で、預かることになった、ということはまだ正式配属ではないということだった。

 緊張気味の野田に比べて、当の本人はお気楽感満載で不思議そうにこの部屋を見回している。視線の先の一課と二課は、朝から建設中の店舗トラブルで騒然としていていつもの朝とは違っていた。そして井上はいつもの顔だが不機嫌だ。まぁ、不機嫌かどうかだなんて普通の人はわかりにくいくらいポーカーフェイスなのでわからないが。楓のアンテナでは「不機嫌」レベルだ。店舗トラブルが気になるらしく、微妙に片眉が上がっている。

「小林楓です」

 一応、楓は名乗って一礼する。普通は長野の方から挨拶すべきだが、それは期待できそうにない。きょろきょろしていて、こちらに関心がない。楓としては、どうしてこんなヒト、入れちゃったんだろう、という疑問が渦巻く。だが、朝一番で挨拶に来るということは、井上と野田の間でもう最初から決まっていたことだということだ。

 当の長野はちょっとだけ驚いたように楓を見た。

「え?室長さん、ですよね?」

 言外に「若い」という感想が入っていそうだ。30前の女性に室長職を任せているとすれば、異例の抜擢だといって良い。隣では野田がすかさず、あいさつ、と突っ込んだので長野は頭を下げた。

「すみません、もっとオバサンかと思っていました」

 これ、と野田が続けて叱る。

「少なくとも俺の所では年功序列はない。できるやつに仕事を任せる。まぁ、社外的にいろいろあるから役職が付いたりはするが、出来ない奴には役職は付かないわな」

 井上がそう言った。

「で、本部長、バシバシ教えてよろしいのですか?」

「ああ、構わんよ。面白い人材だ」

「かしこまりました」

 一礼して、井上に未決済箱を差し出す。昨夜から朝までに目を通しておかなければならない書類や、決裁が必要な書類、昨日一日の各店舗の売り上げ集計表がその箱の中に納まっている。個人からのレポート(報告書)もここに入っている。


 楓が気になったのは井上の言い方だった。見た目、かなりミスマッチのこの新入社員は井上視点では「面白い人材だ」と評価された。ということは、この営業本部に適性のある人物だから野田から引っ張って来たのだという判断だった。

 おそらく、渋る野田を説き伏せて、ということなのだろう。

 そして、当の新人教育を担う野田がしぶしぶでも了承したということは、野田自身にも何か引っかかることがあるのだろうという判断をして、楓は野田から人事引継のために書類を受け取り、彼女に空いた机を宛がう。それよりも、井上に大ごとになるかもしれない、という店舗建設現場での報告を先にしておく。大ごとにならなければそれはそれで良いのだ。


「それから、たった今ですが店舗開発の岩根課長から緊急連絡がありました。深山みやま店の内装の作業についてトラブルがあったようです。こちらが指定した壁の塗料の色が違ったとかで。今確認のために藤堂課長がカバーに入っています。あと、先日エントランスの床材が滑りやすいからというアドバイスを受けた件ですが」

「ああ、違う業者の人かなんかがポツリと言ったやつか」

「岩根課長と複数の社員と業者での実証実験の結果、チョイスしたものはやはり滑りやすく、他の床材を使って実験して、一番滑りにくい床材に変更することにしました。全面改良は無理なので、エントランスの一角だけと言う条件で、見積もりと設計変更出してます。予算的には単価が安くなるのですが、作業日数が増えるのでトントンといったところですか。夕方までに決済いただけると後が楽です」

「それは目を通しておく。で、その結果を営繕の連中に送ってやったか?緊急連絡のあった塗料のなんちゃらの詳細は?」

「営繕の社員も参加していますので明日にでも正式な資料として起こしてくると思いますよ。係長がウハウハしていました。で、従業員休憩スペースの壁が全面モスグリーンに指定されているとかで、現場監督から直に岩根課長に確認があったそうです。今まで各店舗のカラーに合わせてツートンカラーが主流だったのに、全面ですかと」

「こちらの最終決定ではモスグリーンとアイボリーのツートンカラーですね。床から高さ1メートルはモスグリーンという設計です。変更ありませんけど」

 楓の背後で設計図を広げていた店舗開発担当の社員がそう言った。

「じゃぁ発注ミスか指示ミスか。そっちはどうだ?」

「確認中です」

 店舗開発のエリアでは藤堂課長の指揮の元、確認作業に入っている。

「藤堂課長」

「おはようございます」

「現場にはツートンカラーで指示を出せ。床から一メートルはモスグリーン、それ以外はアイボリー、設計書通りに」

 井上は最終設計図を確認して指示を出した。

「小林」

「はい」

「午後からの中原店の視察、お前行ってくれ。俺は深山に行ってくる」

「わかりました。長野を同行させてよろしいですか?」

「構わん」

「では失礼します」

「青山は…?ああ、今日は通院日だったな」

 予定表を見ながら確認する。箱の中には大雑把な週刊スケジュールが常に入っている。このスケジュール表で主要メンバーである岩根と藤堂と楓と青山のスケジュールを把握しているのだ。詳細は共有されているウェブサイトのスケジューラーで確認すればそれで良いのだ。

「午後から出社予定ですので各店舗のデータ解析を鈴木さんとやってもらいます」

 一礼して長野を伴って自分のデスクに戻る。昨日、一人新人が来るとは聞いていたが正社員の女性だとは知らなかった。

「長野さん、この二人は江崎さんと鈴木さん、営業本部全体の仕事を把握して、フォローするのが仕事かな。各部署の人達の仕事のフォローと、私や青山さんの仕事のフォローを頼んでいます」

「はい。長野です。よろしくお願いします」

 クネクネとなりながらも挨拶は、した。挨拶と呼べるかどうかは怪しい頭の下げ方だが。

「じゃぁ長野さん、毎朝のルーティン作業を教えるから覚えてね」

 早速、毎朝本部長に届ける未決済箱の中身の作り方を教える。出社してすぐにデータ化した売上表をプリントアウトするのは完全な「ルーティン」ではあるが、予定や決済が必要な書類などはルーティンには入れられない。こちらで判断すべきことがあるので新人には任せられない仕事だ。だから彼女の仕事は売上集計表のプリントアウトである。

 それから、本部から各店舗に送る「紙」の通達やら文書の確認を江崎とやってもらう。社内便は毎日出ているし、メールでのやり取りもあるのだが、社員以外は会社からPCアドレスを貸与されないから「紙連絡」が基本になる。利点は本部員が、各店舗の店長と副店長、事務員、アルバイトの名前を覚えられることにある。一覧表があるのでチェックしながらだが、店舗名と店長くらいの名前は一致していないと仕事にならないのが普通だ。だから所属店舗と店長の名前を覚えるように言い付ける。

 最も、全体周知の文書に関しては各店舗の事務員がプリントアウトすることだが、個人的な文書だとか、他社から配布されてきた新製品のパンフレットなどはこの社内便に乗って届けられることになる。

「何でメールにしないんですかぁ?面倒くさいですよね。あれ?これ新商品のビラ?」

「アルバイトさんやパートさんには紙媒体での周知を基本としているからよ。社員には携帯電話と端末は支給されてメールアドレスがあるけれど、彼らにはないからね」

「ええ?端末ってなんですかぁ?私、支給されていませんけれど」

「本社内勤務の人間は端末支給はないわよ。例外が情報共有を必要とされるメンバー限定で何人か。皆役職持ちってことね。わかっていると思うけど、ここにある書類はすべて社外秘だから許可なく持ち出しすれば即、懲罰対象ね。コピーも写真撮影も禁止。SNSに掲載なんてバカなことは考えないように。それから、午後は中原店の視察の仕事が入っているから、11時半までに仕事を終わらせてね。それが終わったら昼休憩30分あげるから、コンビニで何か食べられるもの買ってきなさい。移動する車の中で昼食にするから。あとね、メモ帳と筆記用具。ポケットに入るくらいの小さいもので良いから用意しておいて。ああっと、ネイル落として、爪は切っておくこと。ケガするよ」

「はい?」

 理解できたのかどうか怪しいと思っていたら、おもいっきり「何故」と言わんばかりの返事が彼女から返って来た。

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