いらっしゃいませ、を言いたくて

藤原 忍

第1話


 にぃ、と笑った笑顔の奥に嫌な感覚を覚える。

 これはもうオトモダチにはなりたくない感覚だ。

「だから、どうして?」

 そう言いながら、反論は許さないとばかりにキスを落とされる。唇を啄ばまれ、艶めいた目で見つめられた後は左手で首筋を固定されて、逃げるなと言わんばかりの保持のまま、しっとりと見つめられた。

 寝起きの、朝日の中で見るには妖艶すぎる恋人。

 視線が熱すぎて思わずどぎまぎしてしまう。距離も近すぎて。

「ああ、可愛いなぁ」

「いや、そういう年じゃないし」

 耐えられなくて横を向いて視線を逸らす。

「かえで」

 もう何度目かわからないほどの呼びかけに目を開けると、キスが降ってくる。体にくすぶる熱を逃がしたくて深呼吸したいのに、それも許されない。

「そ、う、総一郎さん」

「いいよ、朝から良い声だ」

 満足したのか、総一郎さんは私から離れた。

「早く起きないと遅刻する」

「だから、それを先に言ってよ」

 でも言わない、と彼はくすくす笑ってキッチンに消えた。

 時々、恋人は確かめるようにキスの雨を降らせてくるが朝は勘弁して欲しい、とは思う。

 とは、おもう。なのだ。その実、ちょっとだけ嬉しいのは内緒。

 ふうわりと、シャンプーの残り香が私の手の中に残っていた。



 株式会社瀬川家具、ホームセンター事業部の営業統括本部。それが小林楓こばやし かえでの勤め先だ。つい数年前に県外進出を機に、ホームセンターセガワからトップリードと店名を変更してイメージ戦略に成功した成長中の会社だ。正社員からアルバイトやパート勤務の人間で構成される50人規模の中型店舗が6店舗。それ以上の従業員を抱える大規模店舗は3店舗、逆に従業員30人で構成して店を回す小規模店舗を2店舗抱えているので、会社の規模としては、地方としてはかなり大きい方だ。

 地方と言えども、県内を中心に店を展開し、近年は隣県にも販売網を伸ばしている。県外の店舗は当面、広域事業部として独立して腕利きのスタッフが動いている。専務の北河が、九条と熱田と言う「両腕」を得て実力を発揮している。将来は周囲の4県に展開するのが夢だが、今は隣県に一店舗展開のみだ。次のステップを狙っている北河だが、まだゴーサインを出してはいない。若いながらも着実に足元を固める彼の事業展開は、社内のみならず、県内経済界でも注目されている。


 その本社直轄で、トップリードの店舗出店に関する土地選定からオープンまでのあれこれや、抱える店舗の商品の仕入れ、販売、販売促進など営業戦略に関しての三本柱を担っているのが楓のいる営業統括本部である。つまり、ホームセンター事業部の戦略的な部分を担う部署と言って良い。

 本部長として束ねているのは井上というクマのような巨体を持った男で、社長以下、重役たちも一目置くほどの敏腕営業本部長である。

 その本部長を補佐する形で営業統括室の室長である楓が存在している。秘書みたいにスケジュール管理もすれば、資料までも作る何でも屋で、役職は一応「本部長補佐」扱いだが、給与体系でいうと課長職だ。統括室室長というのは若すぎるから対外的に役職があった方が良い、ということで井上が勝手に作った部署だ。各店の店長と差異をつけないと、対外的に面倒だったからだ。だから店長は課長職で、営業統括室のナントカ店の店長、という形になる。その他に、営業統括室には店舗開発を担う営業一課と営業開発を担う営業二課が存在している。

 ちなみに県外事業部は営業統括本部の直属に当たり、井上と楓の下に位置してある部署になる。

 もっと言うと、楓自身は「室長」の肩書は、各課長の相互の意思疎通と井上との相互の意思疎通に関わる雑用を切り盛りする係、と認識している。九条に言わせれば、楓の、全部のあれこれに目をかけてマネジメントする役割につける肩書き、と言っていて、実質その能力は誰にも真似できないのだが、本人にその自覚はない。楓よりも年上で実力もある九条や熱田が固辞して楓に室長職を任せたのはまずは県外出店を確実にしたいという狙いもあった。だから楓はしぶしぶ引き受けたのだ。

 名目上室長なので部下はいる。ずいぶん年齢は上だが、売り上げ分析を得意とする、経営マネジメントの専門家といって良いほどの課長補佐の青山と、青山を補佐する二人のパート主婦である。勿論、楓自身も売り上げ分析や経営分析をして店舗のかじ取りをする仕事をしているが、ほとんど青山に任せっぱなしである。青山は癌と闘病中で、人事課で同期の野田課長は青山の体調をはらはらしながら見守っているので、時々楓とケンカになる。治療に専念した方が良いという野田だが、実は青山と青山の家族と、主治医と連絡を取りながら仕事量を調節しているのは楓の方で、実際ちょっとしたことで帰れと言われたり気遣ってもらっているのはこっちの方だと青山が野田とケンカをしている。

 それでも、体調不良の時は容赦なく青山の車のキーを取り上げ、タクシーで帰らせることに楓は躊躇しない。青山が特別ではないが。

 そういった職場環境が良好な中で今の楓の気がかりが総一郎だ。藤堂総一郎、営業開発を担当する営業二課の課長である。

 一口に営業開発と言っても、分野的には商品を仕入れるバイヤーたちと、商品を売るための企画担当に大別される。両者とも分けて考えることはできないので営業開発としてひとくくりにしてはいるが。流行に敏感でなければ務まらないし、かといって、浅い知識では仕事にならない。そう言った部署だ。新店舗を立ち上げる時は、この二つの課からミックスチームを立ち上げるのが常である。

 極秘に付き合っている恋人が、今、新規店舗の商品セレクトで一番多忙を極めている時期であることは認識していた。



 毎朝、出勤すると全員が経理部から送られてくる前日の営業売り上げデータに目を通す。常に店舗の売り上げ動向は把握しているのは当たり前で、異変があれば即対応するのが井上の性分だ。当たり前だが、その動向で当日「訪問」する店が変更になったりもする。販売企画は営業戦略に直結しているし、それはすぐに数字として売り上げとして出てくるのだから当たり前だが。だから、朝のこの時間だけは少しピリピリする。

「小林」

「はい」

 声を掛けられて振り向けば、ニンマリ笑った井上がいた。その隣には、人事課長の野田と、イマドキの可愛らしい女の子。長い髪をまとめようともしないで内巻きクルン、長い爪は綺麗に整えられているけれど、社会人としてどうなのよ、と説教したくなるほどのピンクのマニキュアにキラキラストーン、さし色の配色は鮮やかなブルーという配色のネイルである。そして作ったようにもじもじした仕草の新入社員がそこにいた。

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