会社員の男(2)


 303号室の藤木。


 毎晩のように大音量で音楽をかけ、今みたいな大声でしゃべり続け、そのせいで俺は勉強に集中できなかった。

 

 三度目の司法試験に落ち夢破れたあの日、俺は藤木の部屋に殴り込みをかけた。


 藤木は居なかった。


 部屋はもぬけの殻だった。


 藤木は引っ越ししてしまっていたのだ。


 その夜から藤木に見立てたワラ人形を部屋の壁に打ちつける毎日が始まった。


 今思えば俺は狂いかけていた。


 もがき苦しみ、ようやく自分の人生や人を呪っても仕方ないと悟り、俺は新たな夢に向かって歩み始めたというのに。


 初めてみる藤木の顔。


 藤木の声と生活音しか聞いたことがなかった。


 こんな顔をしていたのか、コイツがコイツがコイツが。


部屋の壁の釘跡が瞼の裏に浮かぶ。


 心の隅に追いやっていたどす黒い感情が墨汁を水に落とすように広がる。


「今度うち来いよ、朝まで?み明かそうぜ。ああ、うん、うん、マジかっ」


 藤木はゲラゲラと笑い声をあげる。


 何度も聞いたことのある笑い声。

 

 また俺の夢の邪魔をしようとするのか、藤木!


 あれ、なんだか目が霞む。


 手元のテキストの文字に目を凝らす。


 六法全書


 あれ、そんなはずはない、俺は今。


 今?今ここはどこだ?カフェのはずだ、俺の部屋じゃない。


 じゃないのになんで藤木の声が聞こえるんだ。




 俺はまた狂いかける。


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