会社員の男(1)

出勤前の朝の一時間、この時間が勝負だ。


 人の脳が一番効率よくものを覚えられるのは朝だと、『超勉強法』という本に書いてあった。


 ページがマーカーだらけになるほど熟読した。


『完全攻略!簿記1級』


 表紙にそう書かれたテキストを厳かな気持ちでめくる。


 俺、三十歳にして新たな夢に向かって突き進む。


 俺は今度こそ自分の夢を叶えてみせる。


 絶対に税理士になってやるんだ。




 少し前までの俺は本当に自分の人生を呪っていた。


 でもある朝気づいたんだ。


 このままではいけないと。


 まるで天の啓示のようだった。



 ああ、朝はなんて素晴らしいんだ。


 体中からエネルギーが満ち溢れる。


 さぁ、今朝もやるぞ。


タタタンタンッ!


 脳波に良さそうなジャズの音色に脳波に悪そうな硬質な音が割り込む。


 反射的に音のする方を見ると今朝初めてこのカフェにやってきた男がいる。


 いつもその席でスマホをいじっている気の弱そうな男はトイレの近く隅の席に追いやられている。


 鳴り止まない脳波に悪そうな音を遮断するため、俺はポケットから耳栓を取り出した。


 こういう時のためにいつも忍ばせているんだ。


 よしこれでオッケーだ。


 そう思ったのもつかの間。


 耳栓などものともしない大音量の声が響く。


「藤木と申します」


 その声と名前に後頭部を殴られたような衝撃が走る。


 俺の悪夢が一瞬にして蘇る。


 今でも俺の部屋の壁にはあの時打ちつけた釘の跡が残っている。


 半分ノイローゼだった自分は否めないが、その原因をつくったのは俺の部屋の上に住んでいた住人のせいだ。


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