夫(2)

約五十年かけて作りあげた功績のほとんどを私は失った。


 妻が愛人の名前を口にした瞬間、導火線に着いた火が一瞬で頭に届くように私は甘美な妄想で砕けてしまった。


 私の性癖が邪魔しただけではないと自分自身を慰めもしたが、後悔してもこればかりはしきれない。


 警察はなんの役にも立たなかった。


 愛人もすべて失った。


 愛人の一人だったメグの行方はまったく分からない。


 私を恍惚とさせる妄想は失ったが妻は残った。


 それだけが救いだった。


 今の私には妻しかいない。


 こんな私を見捨てずにいてくれる妻は女王様でもあったが同時に私の女神でもある。



 その妻の目が大きく見開いた。


 クロワッサンをつまんでいた手を急いでおしぼりで拭くとハンドバックからメモ帳とペンを取り出す。


 外出時、周りの人に聞かれたくない内容を話す時の方法だ。


 家だったら大声で私の耳元で叫べばすむことなのだが。


 妻はペンを走らせたメモ帳を私の前に突き出した。


『あの男の声、振り込め詐欺の男の声にそっくり』


 すぐに警察にと思ったが妻は確信がないと言う。


 よく聞こえないが男はイヤホンみたいなものを装着し口がバクパクしているから、誰かとしゃべっているのだろう。


 妻は筆談でもう少し男の会話を聞いてみると言ってきた。


 私は浅くうなずき男を盗み見る。


 耳は遠いが遠くはよく見える。


男は今ドキなスーツに身を包み、最近みな持っている銀色の薄いパソコンを広げている。


 あんな若造に私は騙されたのか。


 テーブルの下で握った手が震えた。


 たとえ男が警察に捕まっても騙し取られた金が戻ってくる可能性は限りなく低い。


 総額六億円。


 それは私の人生そのものだった。


 握りしめた手の内側に爪が食い込む。



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