第8話【僕の右手には】


 楽しく行こう。そう約束したばかりなのに。


 すり抜けた右手はそのままに、君はその驚きを隠すように左手で口元を覆った。

 海を見つけた時とは違う、不快な、恐怖にも似た感情が胸を叩く。


 終わりだ。

 あれだけ綺麗だった世界が、滲んで、歪んで、闇を零したように曇り出した。

 これは何と言うのか。

 そうか、絶望か。


 こうなる事は分かっていた。何も掴めない自分の手は、君の手を握る事が出来ない事も、分かり切っていたはずなのに。

 それでも、心のどこかで期待してしまっていたのかもしれない。もしかしたら、何事もなく僕たちは触れ合う事が出来るんじゃないかとか、何か奇跡のような事が起こるんじゃないか、と。

 それでもやっぱり、こうなってしまうなら、もっと厳密に断っておくべきだったんだ。僕たちは、こんなに近付いては、いけなかったんだ。


 何か言わなきゃいけないのに、僕の口も体も、心までも、まともに動こうとはしてくれなかった。間抜けにも右手を差し出したまま、固まっていた。

 君も右手を中空に留めたまま、口元を覆う左手をゆっくり降ろし、ぎゅっと目を閉じた。


 泣かせて、しまっただろうか。

 何よりも大切なはずの君を傷付けた事の悲しみが、青く蒼く心を塗りつぶしそうになった時、君はパッと目を開け、


「やっ!」


 気合を入れたような声を出し、右手で僕の手を掴んだ。


 えっ!?


 驚愕が声となって漏れ出た。僕の手を……掴んだ?


「えへへ……」


 君が僕を見上げて笑った。その一瞬で、世界がまた光と彩りに満たされる。

 細められた君の両目から滴が零れるのが見えたけど、僕はそれが悲しみの涙ではないことを、何故か確信できた。太陽に照らされたそれが、宝石のように綺麗だったからかもしれない。


「だから言ったじゃん。私たちは、何からも自由だって。冷たい現実も、悲しい運命も、もう私たちを縛ることは出来ないよ」


 僕の右手には、今も確かに君の手が繋がっている。それは優しい暖かさで、君の存在も、僕の存在さえも、確実なものなんだと教えてくれているようだった。


 君に手を引かれ、僕もレールを降りる。

 足元で広がった水の輪は、君の靴にぶつかり、二つの波紋となって寄り添うように世界に広がって行った。

 水はすぐに靴に染み込み、靴下まで濡れてしまったけど、思っていたよりもずっと、温かかった。


「さ、行こ?」


 君は一度手を離し、左手で僕の右手を握る。今度はすり抜けることもなかった。


 うん……。行こう。


 隣で君が微笑む。

 僕の右手には、君の左手。

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