5. あやまち



シャムロックは、片方の目を薄く開けた。


胸元で組まれた、彼女の柔らかい脚。

その前に、一輪の花が置かれていた。


小さな太陽のような形をしたマーガレットだった。

水平に広がるピンクの花びらと

中央にある丸い小花が美しい。


ただ、少し傷が多かった。

茎の途中に、何箇所も折れた跡があった。

花びらの表面に走る筋状の傷みも確認できた。


「これは…何?」


彼女は表情を変えずに言った。


「えーと、君の好きなものさ」


街中を探し、苦労して見つけ出したプレゼント。

誇らしさに、黒猫はかなり得意げな顔をしていた。


「俺から君にあげようと思って、わざわざ――」

「泣いてるわ」

「え?」


突然の冷たい言葉に、黒猫はうろたえた。


雌猫の眼には、憤りの感情が燃え上がっていた。


「こののこと。

無理矢理、連れ去られたのね。

人間につながれず、運命を閉ざされた可哀想な花。

ただ悲しみだけが伝わってくるわ」


シャムロックが問い詰めるように見つめた。


「これをどこで見つけたの?」

「そ、それは…近くの公園に生えていて…」

「あなた、誇り高い黒猫でしょう? 嘘は駄目」


起き上がったシャムロックが、花の茎をくわえた。

椅子から降りて、ゆっくりと近づいてくる。

黒猫は身じろぎもできなかった。


「あなたは知っているはずよ。

この子をあるべき所に戻してあげて。

残念だけれど――

私には受け取れない」


黒猫に打ち込まれたその言葉は、致命的だった

彼の心は支えを失い、ガラスのように砕け落ちた。


最後に残った力をふりしぼると、黒猫は花をつかみ

全速力で、シシリーの店先から走り去っていった。



残されたシャムロックは、複雑な表情で

通りの喧騒の向こうを見つめていた。


頭の上から女性の手が伸びてきて、頭を優しく撫でた。


「ちょっと、冷たすぎるんじゃないかしら?」


店長が飼い猫に問いかけた。

まるで、猫が答えてくれるかのように、待っている。


シャムロックは、水仕事で肌の荒れた店長の指に

顔を擦り寄せ、ただ静かに、優しく舐めていた。



――――



それからしばらくの間、黒猫の姿は見られなかった。


シシリーは変わらず忙しかったし

バイトの店員や客は誰も、野良猫の存在など

気にしていなかった。


シャムロックは変わらず店頭のマスコットとして

大人しく座っていた。


けれど、もし注意深く観察していれば

いつもより、鳴く回数が少ないことに

気づいたかもしれない。


そして花のうわさ話に耳を傾けることができる者がいれば

何かの予兆を感じ取れただろう。


妖精のメアリー・バーカーは、予兆を知ることのできる

そのひとりだった。


彼女はフローリスト「シシリー」の前にある

街路樹の枝の上で、うつ伏せになっていた。


妖精の姿がもし、人の眼に見えれば

彼女がヒヤシンスの小さな花で飾った短衣チュニックを着て

くしけずった髪の間にナデシコを編み込んでいるのが

見えただろう。


メアリーは、シロツメグサのボンボンを持ちながら

手で花びらを引っ張っては、ぶつぶつと独り言を漏らしていた。


「あーあ、ここも飽きちゃったな。早くプロの妖精に戻りたい。

そうすれば、風に乗って好きな所に行けるのに」


喋れば喋るほど、ボンボンを引っ張る手が強くなる。


「あんな失敗のせいで、妖精の粉はもらえないし…

【もう少しうまく出来るまで、この店の子たちの面倒を見なさい】

なんて、大妖精マーマが言うもんだから。どこにも行けやしないわ」


口を尖らせたまま、両手を前に出し、足をバタバタする。


「あーつまんない、つまんない! 何か面白いこと、無いのかしら!」


その時、メアリーの妖精の耳がピクリと動いた。

急遽、精神を沈めて意識を集中する。


「えっ?」


メアリーは真顔になった。


「どこ? 弱々しい声って?」


樹上の葉の間から顔を出して、地上をのぞき見た。

耳に手をあてて、顔を動かしていると

一本の細く暗い路地が、彼女の目に入った。


「あそこね」


メアリーは背中の羽の伸び具合を確かめると

少しの風を待って、さっと空中に飛び出した。


ゆっくりと水平に、円を描きながら降りていく。

やがて彼女は、目的の通路の入り口に着いた。


そこは普段から使われていない、雑居ビルの隙間だった。

通路と言うには細く、荷物やゴミ箱が置かれているせいで

すれ違って歩くのは難しい。

地面には何かの黒い水が溜まっていて、湿っていた。


メアリーは浮かびながら通路の奥へ進んだ。

やがて、花たちが噂する元になった

声のする場所にたどり着いた。


そこにいたのは、一匹の生き物。

汚水に濡れ、闇と同化して横たわる、黒い猫だった。


気づいていないのか、動けないのか。

メアリーは恐る恐る、その物体に近づいていった。


荒い息遣いが聞こえ、腹が上下に動いているのが見えた。

良かった。まだ黒猫は生きていた。

妖精はほっとした。

ただ野良猫の命の炎は弱々しかった。


メアリーが様子を見るために、近くを漂っていると

真っ暗な顔に一筋の瞳の線が開いた。


黒猫が片目を弱々しく開けたのだった。


「ああ、妖精が見えるなんて…もう俺もしまいか」


彼は自虐的に呟いた。


「そこまで、悲観的にならなくても良いと思いますが…」


そう言いかけて、メアリーは気づいた。

黒猫の両後ろ足の、膝から下が、潰れたように曲がっていた。


「慰めなんて必要ない。もう俺は何日も食べてないんだ。

これからだって、餌を取るのは無理だ」


彼は弱々しく咳き込んだ。


「まったく、とんだドジをやらかしたもんだ。

まさか、あのでっかい、動く塊にぶつかるなんて。

いままでだって、一度もそんな事は、無かったのに…」


黒猫は語りながら、自分の世界に入っているようだった。


その証拠に、妖精の背後から、一匹の猫とひとりの人間が

近づいている事に、彼は全く気づいていなかった。


メアリーは、はっとして振り返った。

そこに見たのは、ロシアンブルーのシャムロックと

その主人の女店長だった。

店長は右手に大きな絵本を持っていた。


「フローリストの猫…と、女店長さん?」


シャムロックは軽く会釈をした。

そして黒猫に気付かれないようにと、妖精に合図を送る。


「どうせ誰も聞かせるやつはいないから、教えてやるよ。

俺は浮かれていたんだ。とっても綺麗なひとがいてね…

調子に乗って、人間の花を盗んでしまったんだ。

プレゼントにと思ってやったけど、彼女は鋭かった。

俺の浅はかな考えや、ヤキモチ――そうさ、認めるよ――を

見抜いていたんだよ」


黒猫の言葉が一瞬止まった。苦しそうにあえぐ。


「あまり無理をしないでください」


妖精は何をしていいか分からず、仕方なくボンボンを振った。


「いいよ、どうせこれで最後だ」


黒猫は失笑した。


「俺はやけになって逃げようとした。

けれど最後にどうしても、その花だけは元の所に返したかった。

もう二度と彼女の前に行かなくてもね」


メアリーは、シャムロックの表情が一瞬、陰ったのを見ていた。


「返して安心したのかな。気づいたら、このざまさ。

まあ、野良の俺のそういう運命なんだろうな。もともと…」


黒猫の言葉が途切れた。

空腹と出血で気を失ったらしかった。


「可愛そうな黒猫ひと

本当はあの時に伝えたとおり、去って欲しかった。

あなたの為にも」


気づかれる心配のなくなったシャムロックが近づいてきて

意識の無い黒猫の、額のあたりを優しく舐めた。


彼女は顔をあげると、意を決したようにミィと一声、鳴いた。

すると路地の奥の暗闇から、一匹の若い猫があらわれた。


ロシアンブルーの若い猫は、すっと二本足で立ち上がった。

一歩進み出てしゃがみ、シャムロックの御前で

うやうやしく頭を下げた。


彼は黒猫がライバルだと思い込んでいた、ブルーの雄猫だった。


「今すぐ、お父様に言葉を伝えてくださいな。

眷属の未来ある若者に、命の力を与えて下さいと」


そう言うシャムロックもいつの間にか、立ち上がっていた。


ケット・シーに伝えます」


若者は再び礼をすると、踵を返して去っていった。


お花触媒の方はお願いしますね」


シャムロックは人間の言葉で、女店長に言った。


「…記憶の方は残らなくて、本当にいいのね?」


店長は確かめるように訊いた。

シャムロックは迷わず、うなずいた。


メアリーはそのやり取りを、ただポカンと眺めていた。

そこに女店長が声をかけた。


「さあ、出番よ! バーカーさん」


声をかけられ、妖精は驚きのあまり、呆然としていた。


「え…? あなた、私が見えてる…

人間なのに…名前まで?」


店長は大きな妖精の絵本を開いた。

紙の隙間から、星屑のような光が躍り出てくる。


彼女は絵のあるページに、不思議なほど深く手を差し入れてから

すっと腕を引き抜いた。


手を広げると、そこに一輪のピンクのマーガレットと

小さな小さな袋が乗っていた。

女店長はそれをメアリーに差し出した。


「はい、花の粉。今回は私のを使ってね」


メアリーはしばらく考え込んでいた。

やがて腕を組んで、ふくれっ面になった。


「…わかったわ、あなたがどなたか。そして猫さんの方もね。

もう! マーマも知っているくせに、意地悪だわ!」


「ふふっ、それはいいじゃない。

せっかくだから、あの失敗を取り戻したいでしょう?」


そう言われてメアリーの鼻腔がぷくりと膨れた。

痛い所をつかれた証拠だった。


「まあいいですよ…

もう少しこちらのお店の面倒を見てあげるよう、言われていますからね」


メアリーは妖精の粉の入った袋を、不承不承といった様子で

店長の手からさっと取った。


女店長は妖精に気づかれないよう、くすりと笑った。

彼女はマーガレットの花を、黒猫の傷ついた両足の上にそっと置いた。


「バーカーさん。お願いね」


「大丈夫ですよ! プロですから」


メアリーの右の掌から、小さな風が起こり始めた。

同時に袋の封を解くと、妖精の粉が風を含んで宙に舞い始めた。

やがてそれは光る粉を含む球のようになった。


メアリーが精神を整えている間、シャムロックの視線は

眠る黒猫に注がれていた。


「あなたはどこか、お父様に似ていた。

だから私も、あなたがそばにいる事を許してしまった」


彼女は最後にその言葉を、別れの挨拶の代わりに告げた。


「私たちの眷属の名にかけて、これからあなたに幸せな一生が

訪れますように…」



空に浮かび上がったメアリーが、呪文の言葉を唱えた。




名もなき黒猫の若者。

あなたに私の祝福を受ける資格を認めます。


風よ。

さあ、行きなさい。私の魔法の粉をのせて。

あの子のもとへ…




――――




黒猫は、フローリスト「シシリー」の正面にある

小さなビルの脇、暗い横路から顔をのぞかせていた。


餌場に行くためには、どうしてもここを通らなければならない。

その度に、あの花屋とやらが目に入るのだ。


彼は生粋の野良猫だ。花になんて全く興味はなかった。


今日も黒猫は、立派に発達した四肢で地面を蹴って

その店を通り過ぎようとした。


何かがひっかかって、彼は足を止める。


店先にある高椅子の上に、小さな花の籠が置かれている。

何本ものピンクの花が収まっていて、アクセントに緑の葉の

クローバーシャムロックも飾ってあった。


影の具合からか、黒猫にはそれが座っている猫に見えた気がした。


黒猫は頭を振った。

俺、どうかしてるな。


彼は再び歩を進めた。


大きな本の置かれたアンティーク・チェアの前を横切ると

黒猫はそのまま、路地の裏へと消えていった。





ケット・シー(Cait Seth)の娘  おわり

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