第三十二話(三)「ヘザ殿と分かち合ってほしい」


  明くる日は、朝からみんなで集まっていた。

  朝食の後、航空舟の発着場となっていた宮殿の中庭に洒落た白いテーブルを置いて、それをグークとモエドさん、ナホイにブンゴン、そしてヘザとぼくが囲んだ。

  テーブルに人数分用意されたマグから、アリーシブの香りが漂い、辺りを満たしている。

  この場にいる誰もが、笑顔もなく、憮然としている。

  ぼくを含め、みんな何となく予感しているのだ。

  このひと時が、ぼくと過ごす最後の時間となることを。

 ……これでお別れたぁ、しんみりしちまうな。ま、どこかで別れは必ず来るもんだ。特に俺みたいな傭兵は、突然の別れなんて日常茶飯事だったから、それなりに覚悟はあるつもりだけどよ……」

  朝食の際に、日本の現状を話し、これがぼくとヘザの最後の召喚であることをナホイたちにも伝えていた。ナホイは目を伏せがちにして力なく語り、ブンゴンはしょぼくれた表情を隠そうともしなかった。

 あっしはそろそろ故郷へ帰って、また漁師で細々とやっていこうと思ってやしたから、元々お別れのつもりではいたんですがねぇ。この世界からいなくなるってぇのは、また別の話でさぁ。いつまでもいてほしかったですねぇ……」

 ……救世の英雄がこの世界を去ることは、一部の関係者を除き極秘とする。このダーン・ダイマの平和を乱そうとすれば救世の英雄が正しに来るぞと、彼には畏敬と崇拝の対象となってもらおうと思うのだ。この魔界に奇跡の逆転勝利をもたらした、伝説と共にな」

  グークが薄笑いを浮かべてぼくを見つめ、ぼくは静かにかぶりを振った。

 救世の英雄だの、六行の大魔術師だのという名前が一人歩きするのは好まないが──それが少しでも世の中の争いごとや、多くの人命が奪われるようなことへの抑止力になってくれるのなら、その方がいい。本当のぼくは見てのとおり、グークやヘザや……ナホイ、ブンゴン、モエドさんに、マーカムやトットー、オド老師にアーエン師匠、それと──ぼくに命を託してくれた多くの人々がいなければ何も成せない、迷いもあればへこみもする、ちっぽけな人間なのだけどな……」

 そう言うな。ただ力があるだけの人間に人は寄り添わぬ──貴殿が慈悲深く、温かい心の持ち主であったからこそ、貴殿の理想に皆、命を賭したのだ」

  グークの言葉に、周りが一様にうなずきを返したので、何だかこっ恥ずかしくなってしまった。

 困ったな、ぼくは人づき合いが下手で、人に親切であれば少なくとも嫌われはしないかな、って思っているだけの小心者でしかないのに……だが、ありがとう。みんなが一緒にいてくれたから、ぼくは大義を成すことができたし、それにぼくは──とても、とても幸せだった……!」

  目頭が熱い。鼻の奥がじんと痛い。

  あふれそうになる涙をこらえて、ぼくは、にっこりと笑った。

 ──何を言っているんだ、ハイアート。君は日本で、これからもずっと、もっと幸せであるべきなのだ。そしてその幸せを──願わくば、ヘザ殿と分かち合ってほしい。異世界という隔たりを乗り越えて、運命を共にできる奇跡に恵まれたのだから──」

 そっスよ、ハイアート様。せっかく同じ『えにし』を持てたんスから、いつまでもヘザ様をお側にいさせてくださいね?」

  グークの言葉に乗っかって、モエドさんが強めのプレッシャーをかけてきた。

 ……や、約束はできない。心情的にはその、やぶさかではないが──」

  チラチラと、脇に座るヘザの顔を横目で見ながらしどろもどろに答えた。彼女は何を思っているのか不透明な微笑を浮かべている。

 煮え切らないっスねー。そんな曖昧じゃ、安心してお別れできないっスよ。ハイかイイエか、ちゃんとヘザ様の目を見てはっきり言ってほしいっス」

  モエドさんの追撃に、グークがこくこくと何度も小さくうなずいた。そんなこと言われても──

  もう一度、そうっとヘザの方を見やる。

  彼女は頬を紅に染めて、高まる期待でキラキラした視線を向けていた。……そんな顔をされたら、イエスでもノーでも、ウソになるような答え方はとてもできない。

  困惑して、再び顔を背けてしまった、その直後。

 ハイアート様。こちらを向いてください」

  頭の両側に手をかけたヘザに、強引に顔を横向きにされる。

  彼女の顔が目の前の、とても近くにあった。

  どのくらい近いかといえば──唇と唇が接触するぐらいに近かった。

  ナホイがヒューッと口笛を鳴らした。

  ブンゴンが手を叩いたのを皮切りに、全員から生暖かい拍手がぼくたちに送られ、全身がかっと熱くなるのを感じた。

 へ、ヘザ、いきなり何を……」

 ……お嫌でしたか、ハイアート様?」

  数秒後に唇が離れて、ぼくはかすれた声を上げると、ヘザが首を傾ぎつつ照れたようにはにかんだ。

 …………あ、その、い、嫌というわけでは……ない、が……」

  うつむき加減にして途切れ途切れにつぶやくと、再び周囲から拍手が起こった。

 ──陛下、どうっスか。これが答えということでよろしいっスか」

 ああ、納得した。とどのつまりハイアートは、押せば落ちる、と。安心した。超安心した」

  ニヤニヤ顔のモエドさんと、ほっこりした表情のグーク。二人のまなじりが、あからさまに こいつチョロいな~~」と如実に語っていた。

  もう腹立つやら悔しいやら、恥ずかしいやらキスの感触を反芻してドキドキするやらで、頭の中がグチャグチャになってわけが分からない。

 い、いや違う。ぼくはだな、決して、押しに弱いとかそんなアレじゃなくて、こういうことは、もっと真剣に──」

  

  パッチン!

  

  ぼくは自分の部屋で寝転んで、天井のシーリングライトを見つめていた。

  しばらく呆気に取られていたが、やがてじわじわと、ぼくのダーン・ダイマにおけるすべてが終わりを告げたのだということが心に染み込んでいった。

  アレが最後のひと時、最後の言葉かと思うと、時間を戻してやり直したいという気持ちになるが──ぼくの視界に映る最後の光景がみんなの笑顔だったから、それでもいいか、とも思う。

  朝倉先輩に電話で最後の召喚となる時期を伝えて、それから休日の昼下がりのひと時を、こたつにゴロ寝して過ごすことにした。

  頭では分かっていても、まだ終わったという実感がない。

  しばらくして、先輩が向こうから帰ってきて……思い出話とかするような頃になれば、そう思える時が来るのかもしれない──

  

 …………君、速人君……起きてください……起きないと、また寝ている間にチューしてしまいますよ……?」

  いつの間にか熟睡してしまっていたらしい。ぼくは声に反応して、カッと目を開いた。

  口をタコのようにとがらせた先輩の顔が、すぐそばまで迫っている。

 せ・ん・ぱい!  何してるんですかっ」

  肩をぐいと押し返す。朝倉先輩はチッと舌打ちして、残念そうに苦笑した。

 何って、チューに決まってるでしょう。見て分かりませんか?」

 詳細を訊いたんじゃないです。といいますか、何でぼくの部屋に?」

 呼んでも返事がないというので、お母様にお部屋に上げてもらいました。今回が最後の召喚になるので、帰ってきたら真っ先に速人君に『おかえり』って言ってほしくて、ここから召喚してもらおうかと」

 ──ああ、その気持ちは分かります。ぼくも戻った時にこの部屋に独りで……寂しくなってしまいましたから」

 恐れ入ります。では準備しますね」

  朝倉先輩は黒い外衣を羽織り、眼鏡につけ替えてから、ぼくの真向かいに座ってこたつに足を入れた。

  あれから四時間ぐらい眠っていたようで、窓の外はすでに暗くなり始めていた。しばらくの間二人とも特に話すこともなく、ただ茫然と、お互いの顔を見合わせたままその時を待っていた。

 ……ボーッと待っているのも何ですね。テレビでもつけましょうか」

 この部屋、テレビがあったんですか」

 普段は観ないので、押し入れに入れてあるんですよ」

  押し入れを開けて下の段から、十七インチのシンプルなテレビを引っぱり出してくる。アンテナを差して電源を入れると、よくある街ブラの番組が映し出された。

 ……そうだ、グークに言いそびれたことがあるんだ。伝えておいてくれませんか」

 ええ、もちろんです」

 では、頼みます。──召喚はこれっきりであってほしいが、もし世界が再び危機に陥ったなら、その時は躊躇なく召喚してほしい。ダーン・ダイマを憂い、そして愛する思いは、いつまでも──」

  不意に、ぼくの腕時計がキラキラと輝き始めた。顔を上げると、朝倉先輩は少し寂しげに微笑んでいた。

 了解しました。それでは、行ってきます」

  先輩の姿が一瞬、ノイズが走ったように揺らぎ、そしてすぐ元に戻った。

 ──ただいま、速人君」

 おかえりなさい、先輩。お別れはできましたか」

 はい。あれからアハドー伯爵や、エンプ村のお父さんや兄弟たちと会ってきました。みんな戸惑っていましたが、最後にはヘザは死んで新しい人生を送るのだということを、分かってくれました」

  うっすらと涙を浮かべながら、先輩は苦く笑った。

 ……そうですか。よかったですね」

 ええ。これで、ヘザとしての生は全うできました。速人君、これからは朝倉映美として、末永く──」

 待ってくれ」

  ぼくは、おもむろにテレビの画面に向き直り、息を詰まらせながら言った。

 ──まだ、終わりにはできない。ぼくには──いやぼくたちには、これを何とかしなければならない責任がある」

 ヘザ」も画面を覗き込み、その表情を固くする。

  番組は臨時ニュースに切り替わっていた。スマートフォンで撮影されたらしい、夜空を映している荒れた動画が、何度も繰り返し流されている。

  その夜空を飛来し、月明かりに浮かぶ黒い影は、いわゆるファンタジー世界のドラゴンのような姿をしていた。

 ……繰り返します。発陳はっちん市上空を飛ぶ黒い怪物が、謎の光を放ち市街地を破壊しています。付近住民はただちに命を守る行動を取ってください。ただいま入った情報によりますと、怪物対策として陸上自衛隊呉武くれたけ駐屯地に臨時配備されていた戦闘車が出動したとのことです。繰り返します。発陳市上空を飛ぶ黒い怪物が……」

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