#7 屋上の傷心者
「捜査に必要な情報だ。朝山朱里のスマートフォンを出しやがれ!!」
「個人のプライバシーに関わることだ。遺族としてそれはできない」
押し問答は既に三十分は続いていた。
豪勢な机の向こう側で、これまた高級そうな革張り椅子にふんぞり返った朝山群青。
彼の背後に控え、時折申し訳なさそうにわたしと紅葉を見る呉
机を乗り越えんばかりの気概で迫るポイズン。
そして彼女の後ろで呆然とするわたしと紅葉。
これが喜劇舞台『鉄黒高校生徒会室のらんちき騒ぎ』午後公演の図である。
こんなもの、誰がチケットを払って観劇するか。
「やっぱりポイズンに来てもらって正解だったかもね」
紅葉がわたしにこっそり耳打ちした。わたしもそれに頷き返した。当初、『鉄黒高校校舎屋上を調べるために朝山群青に喧嘩を売ろう』作戦の実行者はわたしたちだけだったが、ポイズンを役者に加えたのは大正解だっただろう、と思いつつ、昼休みの捜査会議を思い出した。
「さっぱり分からん」
捜査会議兼昼食会が始まって数秒後、弱音を吐いたのはポイズンだった。
場所はさぼりんお得意のさぼり部屋、つまり一昨日、わたしが不用心にも居眠りしていた元応接室である。
彼女は持参の焼きそばパンにかじり付いて、コーヒー牛乳で無理矢理飲み込んだ。
「分からねえっていうか、どう調べろってんだよ個人のスマホなんて! そういやさ!」
当てもなく飛び出してたのか、昨日。そう思いながら、わたしも自分の昼食である羊羹にかじり付く。本当はエネルギーバーがあるのだが、根廻のやつに持たされたのでそっちの消費が先だ。
「ちなみに今、会長のスマホはどこにあるの?」
紅葉さんは自分で調理してきたらしいお弁当を開き、箸でウィンナーを摘まんだ。
「いろいろ調べ回ったが分からん。老竹のやつは、プライバシーに関わる物品だから証拠品の中でも扱いが場合によって変わるんだと」
「空ちゃんの学校だったらどうだった?」
「わたしの学校か……」
羊羹を飲み込む。どうだったかな。
「一応生徒会警察の預かりになったはず。でもそもそも、ロックがかかるものだから生徒個人じゃ調べようがないんだよね。あ、でも一度だけ何とかロックを解除したことがあったな。生徒会警察が被害者遺族全員を説得して、携帯会社に全力で掛け合って」
わたしが
「もし仮に生徒会警察が持ってるとなると……」
「あの群青のクソが懐に隠しちまったってことだろ? くそったれ!」
ポイズンは悪態をついて、また焼きそばパンをかじる。
「今日の放課後、あたしと空ちゃんで鉄黒高校に行こうと思うんだけど、ポイズンも一緒に行く?」
「あの生徒会長に会うのか? よし、わたしもつれてけ」
大丈夫かと一瞬思ったが、朝山群青との衝突はあくまで陽動だ。ポイズンと盛大にバトってくれた方が都合がいいかもしれない。
「そんで、はぴ子の方はどうなんだよ」
ポイズンがさっさと焼きそばパンを食べ終わって、ダウンジャケットに首を突っ込んだはぴ子の方を見る。彼女はゼリー飲料をずるずる飲んでいるが、その顔色は暗い。
「全然」
空になった飲料の容器を落として、彼女は沈鬱に呟いた。
「銃声、聞いてる人もいる。聞いてない人もいる。そのくらい」
「銃は残ってるのに薬莢と銃弾が消えた謎は?」
「さっぱり」
言葉の上ではいつも通り、ざっくばらんとしていて感情が読めなかった。しかしはぴ子の表情は暗く落ち込んでいるのがわたしでも分かった。自分の担当箇所で成果が上げられなかったのを悔やんでいるらしい。ポイズンの場合はどうしようもないのに対し、彼女の担当箇所はどうにかなりそうに見えてしまうから余計にだろう。
「気にすんなよ。わたしも収穫ゼロなんだし。お互い様だ」
元気づける意味も込めて、ポイズンははぴ子の頭を軽く撫でた。
「それでどうする? わたしは放課後に天色たちについていくが、はぴ子は帰るか? 銃の謎なんて、現場でうんうん唸ってても解決するタイプの謎には思えねえし。別の事件に巻き込まれる方がわたしは不安だぞ」
「ああ、それなんだけど」
水で羊羹を流し込んで、わたしが二人の会話に混ざる。
「銃について、はぴ子に調べてほしいことがある」
「え、なになに? 何か思いついたの空ちゃん!」
がちゃん、と。
空っぽになった弁当箱を叩きつけるように置いて紅葉がこっちを見た。なんではぴ子じゃなくそっちが反応する。というか四人の中で一番しっかりした昼食だったのに、どうして食べるスピードが変わらないんだ。
「……まあね」
「どこ、しらべる?」
はぴ子の声には少しだけやる気が戻っていた。首もダウンジャケットから伸ばして、こっちを見ている。
「銃声を聞いた人間を調べてほしい」
「………………?」
怪訝そうな顔をした彼女に、わたしはさらに説明を加える。
「鉄黒高校校舎の最上階。そこなら、銃声らしい音を聞いた人がいてもおかしくないんだよ。わたしの推理が正しければね」
かくして白鞘校長が呼んで曰く白花女学院選抜捜査隊の四名は、総員が放課後には鉄黒高校にいた。はぴ子は今頃、わたしのアドバイス通り聞き込みをしているだろう。そして残る三人は、生徒会室で大喧嘩である。
「いいかげんにしろ! 捜査に必要なんだよ! さっさと寄越せ!」
「いいかげんにするのはお前たちだ! 捜査の要であるオレを捕まえて延々と同じことを繰り返しよって! 捜査妨害のつもりか!」
思えば、鉄黒高校の生徒会室は白花のそれより豪勢である。部屋の造りといい、調度品といい根廻のいた部屋に近い。生徒が活動するための部屋にしては無駄に豪華だ。あるいはこれがスタンダードで、白花の方が質素なのかもしれないが。
「てめえ、本当は隠したいことがあって
ついに、ポイズンは机に片足を乗っけた。おおう、よくそこまで足が上がるな。
「こちとら聞き込みで把握してんだ! うちの会長が教室を出るとき、一度戻ってきてスマホを鞄から抜き出してから去って行ったってな。つまり会長が生徒会室に向かった用件はスマホが大きく絡んでんだよ。誰かからの連絡を待っていて、その連絡は他の誰かに聞かれたくないとかな」
ポイズンの威勢に群青会長が大きく怯んだ。呉は間に入ろうとはしない。入る隙もないだろうと最初から諦めているらしい。
「とにかくスマホだ! そいつが重要なのは小学生だって分かるだろ! いいからさっさとこっちに寄越せ!」
「何度も言っている! スマホは鉄黒高校生徒会警察で預かっている。そもそも遺族のオレが、朱里のプライバシーを考えればスマホの開示など許すはずもないだろう」
それは当然の主張だった。
一般的な視点に立っても。
わたしの推理に立っても。
そろそろ頃合いだろう。
「ぅ…………あ」
杖から手を離す。絨毯の上では音がしないから、わざと部屋の側面に置かれた調度品にぶつけるように。それから呻いて、両膝の力を抜いて体を崩した。
「空ちゃん!?」
紅葉が近づいて、覆い被さるように体を重ねた。
「大丈夫? 苦しい? どうしたの?」
「おい? いったい何なんだまったく!」
群青のいらだつ声は無視する。
「どうかしましたか、
「呉くん…………!」
群青会長の後ろに控えていた呉がようやく動き出す。紅葉の体の隙間からちらりと見ると、自分を守らないくせに病人には優しくしようとする呉に群青は黒く濁った視線を送りつけていた。しかしそんな呉をさすがに止めることは彼でもしないらしい。
「空ちゃんが、具合が悪そうで…………」
「保健室に連れて行きましょうか」
「お願いっ」
肩を借りるにはわたしと呉は体格差が大きすぎる。呉はわたしを両腕でがっちりと抱え上げる。紅葉はわたしが落とした杖を持ってきて、わたしの手に握らせた。
まあ、ようするに。
お姫様だっこの構図である。
あらかじめ覚悟と検討の上ではあるがこれは…………つらいものがある。
呉の純朴で真面目そうな顔がわたしのすぐ前にある。抱えられた際に眼鏡がずれたために視界がぼやけて直視に耐えられているが…………。もしわたしの視力が正常なら恥ずかしさで発火していたかもしれない。
『謎の怪事件!! 女子高生、男子生徒に抱え上げられた瞬間に発火!
オカルト雑誌にあることないこと書かれかねん。
「ふんっ」
そんなわたしの馬鹿馬鹿しい妄想は、苛立ち混じりの群青会長の声で遮られた。このときばかりはやつの声に感謝してもいい。危うく妄想記事が『抱え上げた男子生徒も焼死! 無理心中の可能性は?』まで展開するところだった。
「罪の重さに耐えきれなくなったか? さっさと自首してくれると助かるんだかな」
「群青さ――――」
「こらーっ!!」
抗議しようとした呉の言葉を遮って、生徒会室にポイズンのそれ以上の怒号が飛び交った。
言葉そのものは幼稚であったけれど。
幼稚だったからこそすぐに分かったけれど。
それは紅葉の声だった。
「そもそも何の根拠もなく空ちゃんを容疑者リストに入れてることだってこっちは怒り心頭なんです!! 朝山会長のスマホをこっちに引き渡す件と、空ちゃんの容疑者リスト除外の件、両方飲んでもらうまであたしたち動きませんからねっ!」
「えっわたしも…………そうだそうだ! てめえ好き勝手言いやがってこっちの根性なめんじゃねえぞ!」
巻き込まれたポイズンもやけ気味に言葉を吐き出す。呉の体に遮られて様子は見えないが、その声に背中を押されるようにして、わたしは呉に抱えられたまま生徒会室を後にした。
「………………」
紅葉にあそこまでやらせたからには、収穫ゼロでは済まないだろうな。
「少し、このまま歩きましょうか」
呉がひとり、呟くように言った。わたしは頷いた。
生徒会室を離れる。木製の、豪勢な扉が見えなくなり、廊下の角を曲がったところでようやく呉はほっと息を吐いた。
「うまくいって良かった。群青さんにばれるんじゃないかと気が気じゃなかった…………」
彼の声は、体格の割に弱々しかった。
そう、今回の喜劇の役者は白花の人間だけじゃない。
呉紫紺もまた、こちらが雇った
名付けて『体の弱い空ちゃんが捜査を頑張りすぎて倒れちゃったので、紫紺くん急いで保健室までっ! と見せかけて屋上を捜査しろ!』作戦。
火サスのテレビ欄より分かりやすい作戦名だ。命名者は言うまでもない。「『ヤシオリ作戦』とかさあ、絶対命名者良い名前付けたって悦に浸ってるよね! あたしそういうの嫌いだからっ!!」という感想は意外だったが。
「それにしても、鴨足さんに『鉄黒高校の屋上を調べたいから手伝ってほしい』と連絡を受けたときは驚きましたよ」
再び歩み出しながら、呉は呟く。廊下を曲がるとすぐに階段で、そこを登り始めた。
「しかも群青さんを騙す格好とは。白花ではなく鉄黒の屋上を調べる意図はさっぱりですが、それくらい群青さんも許可するのでは?」
わたしはより一層、体を深く呉に預けた。楽だ。
「そもそも、あいつの許可がいるってものでもないけれどね」
あらかじめ紅葉が呉から聞き出した話では、鉄黒高校の屋上の鍵は――屋上に限らずすべての鍵もそうだが――職員室で管理しているという。鉄黒高校でMCP下での殺人が起きてからは、捜査を円滑にするために生徒会室の金庫にも鍵が一式用意され、金庫の暗号を知っているのは生徒会長と校長だけだという。
だから呉の言うとおり、屋上を調べたければ群青などに言わずとも、鉄黒高校の職員に頼めばいいのだ。捜査に関わる話となれば教職員らは嫌とは言えない立場にある。
「あんたも鈍いな」
ため息をついた。呉とどういう距離で話そうか悩んでいたのだけど、紅葉と同じくらいぞんざいでいいやと思うことにした。
「どうしてわたしたちがあの生徒会長に隠れて捜査をしようとしていると思う? そもそも、なんで生徒会長の
「俺は…………」
階段を登りながら、呉はこちらを見る。眼鏡の位置は直していたので、その純朴な瞳とにらみ合う格好になる。
「知りたいだけですよ。朱里さんがどうして殺されたのか。犯人は誰なのか。普通なら、群青さんに頼っていればそれでいいんでしょう。でもどうしてか、今回はあの人に任せていたら何も解決しない気がして…………」
「あと紅葉の押しが強すぎて断れなかったとか?」
「……ははっ」
あ、笑った。
こいつ笑うんだなと思った。いや、呉のことは何も知らないのだが。どうしてか「あまり笑わないやつ」のイメージがあった。いつも神妙な面もちで群青の後ろにいるからだろう。
紅葉と喋っていたときは、普通に笑っていたはずなのに。
階段を登り切ると、屋上に続く扉にたどり着く。金属製のあちこち錆びた、いかにも一般生徒立ち入り禁止という雰囲気を放った扉だ。バイオハザードマークが貼られていても違和感がなさそうだ。
「鍵はもう職員室から借りてますから、すぐに開き…………」
と言いかけて、呉は言葉を切って立ちすくんだ。
「どうした? 鍵忘れた?」
「あ、いや、そのっ……」
どうにも慌てた反応をする。よく見ると顔も赤くなっている。なんだなんだ? 急性発熱かとバカなことを考えて、いつもの癖で杖を突こうとして、そこで自分がバカ二号なのに思い至る。
お姫様だっこじゃん。
現在進行形で。
呉が鍵をどこに持っていようが、両腕でわたしを抱いているんだから開錠できるはずもない。
「…………」
「…………」
なんだこれ。
人気のない屋上に続く階段で二人、お姫様だっこ。
ミュージカルのリハーサルか。
わたしが三秒後に階段から突き落とされるのか。
「ねえねえ、ちょっと耳を近づけて」「なんだいなんだい?」「ちょっとお、顔を近づけるだけなのにだっこしなくてもいいじゃあん」なのか。
少なくとも、これから現場を捜査しようというという男女の取るべき体位ではないな。
たとえそれが、仮病作戦の延長線でそうなっている体位だとしても。
「おろして」
「そうしましょうか」
いったい群青会長を紅葉たちが何分足止めできるか分からない。そんな時間との戦いを迫られる作戦中に、確実に五分をわたしたちは浪費した。屋上に続く扉の前という狭い空間で無理にだっこを解除しようとするからそうなる。それに体格的にも優れて筋肉質でがっちりとわたしをホールドできる呉がいるのに、わたしが彼の力に頼らないよう何故か気張って変な姿勢で降りようとしたからでもあった。
降りる途中、彼の胸元に頬を思いっきり強く押し当ててしまう。何か柔らかい感触とともに、どこか硬質的ですらあるあの特徴的なトクン、トクンという音が聞こえた。ああこれが彼の生きている証……とか浸っている場合でなく、その数倍は早いわたしの鼓動が向こうに伝わっている可能性に気づいて焦りが頂点に達した。
まだ肝心の捜査は始まっていないのに、わたしの額と背中には変に冷たい汗が流れていた。たぶんそれは呉も同じだったろうと断言できてしまう自分が嫌だった。
「じゃ、じゃあ、開きますよ」
「御随意に」
呉が学ランのポケットから鍵を取り出し、扉を開錠する。錆びた扉が、意外なことにあまり音を立てることなく開かれていく。
扉が開かれた瞬間、わたしは一歩を踏み出した。屋上の地面に杖を強めに突き立てた。たぶんその動作は、緩慢からは遠いものだっただろう。
鉄黒高校校舎の屋上は、殺風景で、面白味のないものだった。
別に面白味は求めていないけど。
床はコンクリート製の立方体のタイルが几帳面に並べられているが、長年の風雨にさらされてところどころ欠けている。水たまりの跡のようなものも見える。施設の新しさが売りの私立高校と言っても、手の回るところとそうでないところがあるのだろう。
落下防止策はほとんど取られていない。申し訳程度に出っ張りがあるだけで、金網などで覆われてはいない。これは白花高校の側から見た時点で既に分かっていることだから、別に驚きはしない。これでは危険だから、一般生徒立ち入り禁止も当然だろう。
「……何もありませんね」
追いついてきた呉が呟く。確かに、彼の言うとおり何もない。ただのっぺりとした空間。それが屋上だった。
しかし呉の言葉もあまり正確ではない。実のところふたつ、「何か」はあるのだ。
ひとつは階段室。つまりわたしたちが入ってきた扉のあるところだ。立方体の建物みたいになっているが窓もなく、わたしたちが押し問答をした扉が今は開かれているだけだ。
もうひとつは給水塔である。一塔だけで意味があるのかよく分からない、クリーム色をした円筒形の建物である。ひょっとするともう用途はなく、ただ建っているだけなのかもしれない。給水塔の側面には梯子が備え付けられていて、こちらは錆びているが登るのに支障は無さそうだった。
「階段室の上、調べてみますね」
誰に言うでもなく呟いた呉は、階段室に向かう。自身の背の高さを活かして、器用に階段室の上部を探る。わたしもぐるりと周囲を見て、階段室と給水塔の周りに何か落ちていないか確認した。
何もなかったのだが。
そこまでは計算どおりなのだが。
「残るは給水塔ですね」
「…………」
そう。
それを調べればすぐに終わる。
でも。
すぐに終わらせたくないと、そう思ってしまったわたしがいた。
「呉」
「紫紺でいいですよ、天色さん。鴨足さんもそう呼んでいますから」
「…………紫紺」
そういえばわたしは。
MCPで殺された被害者の関係者と、こうして話したことがあっただろうか。
「どう思う?」
「…………何がですか?」
何が、だろう。
MCPという、高校生に殺し合いを真面目に推奨する教育プログラムのことか。
そのプログラムに沿って、優秀な成績を納めたわたしのことか。
今まで誰も死ななかった白花女学院で、殺人事件が起きたことか。
その被害者が、自分の恋人であることか。
その加害者が、ある条件さえ除けば――いや満たせば自分の知る男であることか。
わたしは何を聞こうとして……。
何を聞けばよかったのだったっけ?
「……胸ポケット」
結局、聞いたのはさっきのこと。
さっきのわちゃわちゃで気づいた、彼の胸ポケットに入っているもののことだった。
「学ランの内側の胸ポケットに、何か入ってるよね?」
「…………」
「それって……」
「あの日…………天色さんと初めて会った日に、お店で買ったものです」
つまり、
呉は……紫紺は右手で自分の胸元に触れる。その目元がキラキラと悲痛さに輝いているのを見ていられなくて、わたしはそっぽを向いた。
見えた先は、白花女学院の校舎。事件現場となった生徒会室も、ここからならよく見える。距離にして五〇〇メートルは離れているけれど。
「壊れても汚れてもいなかったのでラッピングし直したんですけど、渡す相手がいなくなっちゃいまして」
「納棺のときに入れたら? 燃えたら一緒に天国にでも行くんじゃない?」
「難しいかもしれませんね。群青さんはもとより、他の朝山家の人たちも見ていますし」
ひょっとしてそのレベルで内緒だったのか。二人の関係は。
あるいは単に、こいつの気兼ねかもしれないが。
「俺、よくドラマでプロポーズのシーンを見ているときに思うんですけど」
唐突に、紫紺が変なことを言う。
言わせるままにしておいた。
「結婚指輪をこう、見せるじゃないですか。もしあれで断られたらどうするんだろうってよく思いますよ。それか、告白には成功しても指輪のサイズが合わなかったらどうしようとか」
「そういう細かいこと考えて見るものじゃないから」
あれは演出だ。
「だいたい、結婚指輪を用意する段階でプロポーズは成功すること前提なんだよ。指輪のサイズも、あらかじめ別の指輪を誕生日プレゼントに送って、そのときにサイズを何気なく聞くとかさ。やりようならあるって」
「天色さん、いろいろ細かいことというか、現実的なこと考えてドラマ見てるんですね。人生がつまらなさそうですけど大丈夫ですか?」
「そっちの細かい指摘に答えたらその仕打ち!?」
今分かった。馴れ初めは不明だが紅葉とこいつは確かに友達になるよ。
驚きと怒りでわたしはつい、紫紺の顔を見る。向こうもこっちを見ていた。
目が合う。お姫様だっことは違う、ちょうどいい距離。それでどうしてか、怒りも驚きもすとんと消えた。
「何の話してたんだっけ?」
「いえ、だから……。そう、渡せなかったプレゼントはどうなるのかなと。その前フリとしてプロポーズのシーンの話をしたんです。断られたりしたら、せっかく買った指輪はどうするのかなと」
「質にでも入れたら」
「うーん」
不服そうに彼は唸った。それからもう一度、自分の胸元を指で軽く叩く。
「値の張るものじゃないんですよね」
「だろうね。じゃあほとぼりが冷めたころに、別の誰かにあげたら?
「そうですね。その辺、よく考えてみましょう」
その答えでいいのか。個人的にはすごく不真面目に答えたつもりだったのだが。
恋人からのプレゼントが、元カノへ不幸にも渡せなかったプレゼントとか、呪われてそうでわたしならぞっとしないのだが。
「じゃあ、あとは給水塔ですね」
吹っ切れたように、元の精悍で活動的な表情に戻って、紫紺は給水塔の方を見た。
「ああ。わたしの推理が正しければ、一番のポイントはここだ。ここばかりは、わたしも登って調べないわけには行かない」
屋上を調べてもらうだけなら、それこそ紅葉でも適当に派遣した。ここが重要だとわたし自身が思うから、自分で調べにきたのだ。
「じゃあ先に登ってください」
と紫紺が言う。
「もし落ちそうだったら受け止めますんで」
「おい」
彼の言葉はひょっとすると
わたしは自分の制服をはたいた。
ブレザー同様に純白の、プリーツスカートを。
「……………………え、あ、ああっ!」
紫紺は顔を真っ赤にした。本当にこいつ女性との恋愛経験あるんだよな。
中学生みたいな純朴な反応しやがって。こっちが擦れてるみたいじゃないか。
「すみません! そんなつもりじゃ!」
「いいから。紫紺が先に登って。後からわたしが登るから引き上げて」
「承知しました」
あわあわと紫紺が梯子に手と足をかける。焦ってはいても、念のため梯子の耐久性に疑問がないかの確認は怠らない。
登る直前、彼はこっちを見た。
「もし俺が落ちてきても、受け止めたりはしないでくださいね」
「のし紙付きで頼まれてもしないから」
死ぬじゃん、わたしだけ。
そうして危険性のわずかにある梯子登りは敢行された。やはり鍛えているのか、紫紺の昇降運動には安定感があり、見ているこちらに何ら不安感を与えるものではなかった。梯子も、錆びてはいるが強度に問題があるような様子はない。紫紺ほどの体格の男が登って軋みひとつないなら大丈夫だろう。
「登り切りました。次、どうぞ」
「はいはい」
杖は地面に置いて、わたしもトライ。
梯子は冷たく、錆特有のあの爽快感すら感じる嫌な臭いがした。しかし紫紺が握ったところはやつの体温で熱くなっている。手汗で滑りやすくなっているふうでもないし、むしろやつが錆を根こそぎ手のひらに引っ付けていった可能性もある。やつの導線に倣って、こちらもゆっくり着実に登っていく。
別に高所恐怖症でもないが、途中、後ろを振り返りたくなる好奇心には何とか打ち勝った。たぶん振り返っていたら高さにビビって体がこわばっていただろう。
「最後です。さあ」
「ああ、うん」
上半身を給水塔の頂点に出す。紫紺は給水塔の真ん中で、こっちに右手を伸ばしていた。錆だらけのその手にこちらも右手を伸ばす。すると合図もなく、ぐいっと、わたしの体は給水塔の最上部まで持ち上がった。
「うわ、とと……」
「大丈夫ですか?」
「引き上げるときくらいは合図しろ」
「すいません」
ともかく、到着である。
幸いなことに、給水塔の最上部は転落防止の手すりがぐるりと周囲を覆っていた。登り切れば当面、安全ではあるのだ。
そして床部分。点検用と思われる蓋が鎮座している。マンホールのようなはめ込み式ではなく、まるで銀行の金庫みたくバルブハンドルがついている。円形の蓋の側面には蝶番もある。なるほど、このハンドルを捻れば蓋が開くわけだ。
「給水塔の最上部にも、何もありませんね」
「そうだな……」
かくいうわたしは、階段室の屋根を見ていた。紫紺に調べさせたところだが、給水塔に登ればここからでもはっきり確認できる。彼が確認したとおり、階段室の屋根には薄緑の汚い苔以外の何もない。
「すると天色さんの探しているものは……?」
「この中だな」
杖がないので、左足で給水塔を踏みしめる。ガイン、と、空洞音が聞こえる。
「その蓋、開けられるか?」
「やってみます」
紫紺は前屈みになって、蓋のハンドルを両手で握る。そして最大の力で思いっきり…………。
「あれ?」
そこで紫紺は間抜けな声を上げ、こちらを見た。
「どうした?」
「このハンドル、緩いですよ?」
「…………そうか」
試しにわたしも、ハンドルを回してみる。彼の言うとおり、非力なわたしでもするりとハンドルを回転させることができた。通常、こういう点検用の蓋はがっちり閉まっていると相場が決まっているものだ。それが本来、あまり使われることのないものならなおのこと。
それが意味することとは。
「開きますね」
結局、ハンドルはわたしがくるくると回し切ってしまう。紫紺がハンドルを手がかりに、ぐいっと蓋を開く。
給水塔の中は果たして。
空だった。
「…………あっ!」
給水塔本来の機能としては。
紫紺の叫びで、わたしは自分の推理が正しかったことを実感する。
「……帰ろうか」
振り返る。
給水塔の上からは、血塗られた惨劇の舞台たる白花女学院が澄まし顔で鎮座している。
上にかかる雲は、わずかに切れ目を見せていた。
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