#3 白花女学院第一事件
「おめでとう」
灰色の世界が広がっていた。だからすぐにこれは夢だな、と思った。
明晰夢、というのではない。ただぼんやりと夢ということを知覚できただけで、わたしは椅子に座ったまま動けない。
場所は一般的な教室の半分ほどの広さのある部屋だった。左右に事務用のスチールラックや本棚がずらりと並べられ、狭い部屋をさらに狭めている。ラックや本棚がこのまま中央へ勢いよく滑ってきたら、わたしも正面の男も潰れて死ぬだろうなと唐突に想像した。男は正面の机がストッパーになって潰されないかもしれないが。
「いや、変な表現なのは理解している。だが俺はやはりおめでとうと言うべきだと思ったんだ」
恥ずかしさを誤魔化すためなのか、男は椅子をくるりと一回転させた。小学生のような稚気に満ちた行為である。きっちりとスーツを身に着け、髪を清潔に刈り込んで、その上でサングラスをかけた成人男性にふさわしい行いではないのは確かだ。
「お前は人を殺した」
わたしに向き直った男が言葉を続ける。
「だが後悔することはあっても反省はしなくていい。悔悟する必要はあっても自省する必要もない。今この日本じゃ人殺しが許容されている。お前のとった行いは、国が、文部科学省が推奨する行為だ。くそったれなことにな」
わたしは怪訝な顔を、したのだと思う。
「ん? ああ。確かに俺は文科省からやってきた役人だが、文科省に絶対服従の
四月で、体育館の壇上でこの男が言っていたことと、今の台詞は少し異なる。
「そりゃな。あれはルール説明を含むから、何を言うのかほとんど決められているんだ。ほら、模試の試験監督が
言うだけ言って、男は正面の机に置かれた資料に目を通した。
「しかし、やったなあ。四月入って早々の殺人とは恐れ入った。
特に驚かなかった。誰もが混乱し、事態の把握すらままならない今の時期に殺人を行うのが合理的なのは、突き詰めれば分かることだ。
「さて、話を本題に戻そうか」
男はサングラスを外す。隠されていた瞳は、案外というか、案の定というべきか、どこか幼げのあるものだった。少なくとも回転椅子で遊びそうなくらいには。
「殺人から二週間、お前は生徒たちの捜査から逃げ延びた。ま、捜査らしい捜査さえできなったというのが実際のところだが、そういう過程の話はどうでもいい。ルールはルールだ。お約束通り、お前には一億円の報酬が与えられる。殺人罪は免責され、未来永劫、お前が今回の殺人で起訴されることもない。さらに新しい戸籍も与えられるんだが……。その前にだ」
ぺらぺらと、男は資料をめくる。
「一億円の振込先はここでいいのか? 名義からするに、お前の父親の口座っぽいんだが」
「駄目でしたか?」
「駄目ってことじゃねえよ。ただ、この前、別の生徒が相談に来てな。両親に一億円を使われるのが嫌だから、自分の名義の口座に報酬を送金してもらえるかって。ぼかした言い方してたが、要するに家出を企んでたんだな。一億円貰って、戸籍と名前を変えて。そうしたいのに一億円が親の口座に振り込まれたらやりづらいし。その辺は生徒のやる気に関わるところだから柔軟に対応するんだが……。念のためお前の場合も聞いておこうと思ってな」
「別に問題はないです」
「そうか。ならいい。で、戸籍と名前の変更だが、こればっかりは両親と相談してもらわねえとな。まあさっきの話がある通り、生徒個人で決めちまってもいいんだが……」
「それですが…………」
わたしは男を見据えた。が、相手と目を合わせるのを何となく嫌がって、男の背後の窓を見て、それっぽく誤魔化した。狭苦しい部屋に解放感を与える唯一の窓からは、灰色の空が覗けるだけだった。
あれ?
いや。
空が灰色なのはこれが夢だからじゃなくて、あの日もその色だったからだったっけ?
「わたし、このまま学校にいてもいいですか?」
「………………ううん?」
要領を得ない、というふうな声を男が上げた。
「いくら戸籍と名前を変えても、この学校にいたら意味ないだろ」
「そうではなく、戸籍の変更などはせずに、この学校にいたいということです」
「…………どうしてだ? 大事な友達と離れたくないっていうのなら、余計なお世話かもしれないがやめとけ。自分の命の方が大事だろ?」
「別に、離れるのが苦痛になるほどの友達なんていませんよ」
皮肉っぽく笑ってみた。
男の目にはそう映ってほしかった。
「そも、戸籍と名前を変えてどうなりますか? 別の高校に行きますか? 意味ないですよね。今の日本で、この時期に訪れる転入生。元の学校がどこだったのか、どういう暮らしをしていたのか、まったくの不明。この時点で大抵の人間は想像ができてしまう。『ああ、あいつは人を殺して稼いできたんだな』と」
「そりゃあな。その点がこのプログラムのネックだ。だが俺はさして問題ではないとも思うぜ? 疑惑は疑惑だ。確信に変わるまでは、どんな黒も黒とは言えない」
「雪の色すら黒と言い切るのが人間ですが、ここでお互いの人間観や人生観を話しても意味がないでしょう。転校云々の話は副次的なものです。わたしがここを離れたくないのは、別の理由からです」
「別の…………?」
「……………………………………ええ」
息を整える。
「もうちょっと、いやもっと、稼がせてくださいよ」
皮肉っぽく笑ってみた。
今度は心の底から笑えたはずだ。
「十五年生きてきて、いろいろなことをしました。させられたというのが正しいのかもしれませんけど。水泳、ゴルフ、フィギアスケート、卓球、テニス、空手、柔道、囲碁、将棋、チェス、プログラミング、電子工作、料理、生け花、書道、ピアノ、ヴァイオリン、英会話。そのどれもがものにはならなかった。それだけのことをいろいろしても、ひとつとして『自分に向いているもの』は見つからなかった。勉強も運動もろくすっぽできなくて、自分は平凡以下で、何もかもが常人より劣って足りない人間だという事実を突きつけられた」
でも。
しかし。
「盲点でしたよ。なるほど、うん、人殺しは試したことがなかった。人生は何事も挑戦というのも間違いじゃなかった」
あの日。
教室に残っていた一人の生徒を無造作に殺した日に気づいた。
下手に策を弄するより、無造作がいい。学校の連中は事態を飲み込むのに精いっぱいでまとまりを欠いている。そこに考えるべき謎や検討するべき証拠物件を残すようなトリックを案出して団結させるより、通り魔的にただ殺す方が成功率が高いと思った。だから返り血に注意して、あらかじめ用意したナイフでずぶり、と。
その時だ。
「自分の得意なことが分かりました」
黒は明白に黒へ。
「ねえ、いいじゃないですか。問題ないんでしょう? 国が推奨しているんでしょう? だったら、もっと稼いでもいい」
人殺しを金にして、誰からも咎められない時代。
わたしが生きられるのは、今しかない。
「別に構わないが……」
男はサングラスをかけ直した。
「解決されたものはともかく、二週間の期限を過ぎ、未解決となった事件の情報は機密扱いになる。俺たちや警察はお前が犯人であることを把握しているが、だからどうするということもない。他の生徒たちがどう思っているかまでは知らないが、疑惑が確信に変わることはない」
「それで充分。じゃあ、くれぐれも報酬の支払い、お願いしますね」
わたしは椅子から立ち上がる。それは自分の意志によるものではなく、かといって操られてのものでもなかった。夢の中で、取るべき動作が決まっていて、その通り自動的に動いているだけ。
ああ。
これはわたしの記憶か。夢で昔のことを見るなんて、ありきたりでつまらない。
「××××さん?」
「ん?」
部屋から出ると、一人の女子生徒がこちらに向かってきた。長い髪を下ろした、全身から柔和な空気をかもしている少女だった。
「管理官とお話があったの?」
「まあね。そっちも?」
「うん………………ねえ」
その場を去ろうとしたわたしに、少女が言葉を投げかける。
「どうして、こんなことになっちゃったんだろうね」
「……………………」
「今回は犯人、見つけられなかった。でも、次は絶対見つけようね。きっとぼくたちなら、うまくやれるよ」
「………………そうだね」
言いたいことは言ったのか、少女が扉のドアノブに手をかける。その右手首に白いシュシュが通されていたのを見て――――――。
カッと。
全身から汗が噴き出した。
次はこいつを殺そう。
目を覚ますと口の中がカラカラで、全身が冷えて寒かった。寝ている間に汗をかいて、それが乾いてしまったらしい。
天井がぼんやりとしか見えない。眼鏡を外しているから当然だ。わたしは自分の眼鏡を探るために右手を伸ばそうとして、そこで自分に何かがかかっているのに気づいた。
横たえていた体を起こす。横長のソファに寝転がって、肘置きを枕代わりにしたせいで背中と首筋が痛かった。
「あ、起きた?」
声がした方を見る。向かい側のソファに、誰かがいる。声からして……。
「……紅葉さん?」
「そっか、眼鏡ないと見えないよね」
眼鏡を取り上げて掛ける。視界がクリアになって、ようやく彼女の屈託のない笑みが視界に映った。
「どうしてここに?」
わたしがいたのは、白花女学院校舎の一角である。本棟と呼ばれる女学院の中央にでんと構えた六階建ての校舎、その最上階の一隅なのだ。放送室や視聴覚室、生徒会室や会議室などに交じって応接室などがあるが、わたしと紅葉がいるのは元は応接室だったらしい部屋である。わたしや紅葉が座っているソファと、それに挟まれたローテーブルは応接室にふさわしいものだが、いささか古ぼけている。また、この部屋には段ボール箱が雑多に詰め込まれていて、応接室としては不適格な様相となっている。聞くところによると、この部屋は現在では物置のように扱われてしまっているらしい。鍵もかかっていないから、生徒たちがさぼるのにも使われていた。わたしにこの場所を教えたクラスメイトは、現在では鍵がかからないのは不用心で使う人間は誰もいないと言っていたが。
「さぼりんが教えてくれた。さぼる場所としてここを空ちゃんに教えてあげたって」
「………………ああ」
さぼりんとはクラスメイトの一人である。サボり魔だからさぼりん。そのくせ成績は優秀なんだとか。
「大丈夫? うなされてたみたいだけど」
…………いったい紅葉さんはいつから居たのか。
わたしも馬鹿じゃない。現在の、殺人が容易に起こり得る白花女学院において、鍵のかからない部屋でぐっすりと眠っているやつは制服を着た一億円と同じだ。それは分かっていたはずなのだが、どうしてわたしは眠っていたのか。
気が緩んでいたのか、疲れていたのか。
「別に、大したことじゃない」
「『カニが……カニが……食う……』って呟いてたから、てっきりカニ食べ放題の夢でも見てたのかと思ったよ」
「その寝言からだとカニ食べられ放題の夢しか思い描けないんだけど」
まあ、わたしはカニ嫌いだからあの夢を見る前にそういう夢を見ていても不思議はないのだけど。
……………………あの夢?
どの夢だ?
わたしが覚えているのは、誰かの手首を飾っていたシュシュと、灰色の世界だけだった。あのシュシュは白色だったのだろうか、本当に。灰色の世界では、それさえも分からない。
「そういえば、これ」
わたしは自分の上にかかっていた、紅葉さんのコートを指す。赤いペンギンのぬいぐるみが、ボタンかけのところであざ笑うように揺れた。よく見るとむかつく顔しているな、こいつ。
「空ちゃんったら、こんなところで寝たら風邪ひくよ? ブルゾン着てても寒いでしょ」
「……………………」
コートを彼女に返しながら立ち上がり、軽く伸びをする。この部屋は物置代わりなので冷暖房の電源が入らないようになっているのだ。窓もカーテンも閉め切っているから耐えられないほどではないが、停滞して淀んだ空気はひんやりとしている。
「今何時?」
「十三時過ぎたとこ。四時間目も終わったからお昼食べに来たの」
眼鏡を置いていたローテーブルをもう一度見ると、巾着袋に包まれた弁当箱と水筒、それから半透明のレジ袋が置かれているのに気づいた。レジ袋の方はわたしが持ってきたものだが、弁当箱は彼女のものらしい。
「そうか、もう昼か」
お腹は空いていなかった。ここ一年、空腹らしい空腹は感じていない。一年よりさらに前はいつも空腹を感じていたから、それに比べれば精神的に負担が少なくて気分が楽だった。
それでも時間通り、何かを口に運ぶ。
さっきまで寝転がっていたソファに座る。レジ袋から常温のミネラルウォーターを取り出して喉を潤し、それからクラッカーの袋を開く。
「空ちゃん、ディストピア飯にでもはまってるの?」
「ディス…………なに?」
「そのご飯に合う雑談、『今日もC地区で暴動があったらしいぜ。配給が滞って仕方ねえよ』しか思いつかないよあたし」
「どっちかというと戦場の糧食イメージだったんだけど」
「その場合の雑談は『ちくしょう! こんな雨の中で塹壕にいたら飯食ってんだか泥食ってんだかわかりゃしねえ!!』かな?」
「口に入れた瞬間爆発しないだけマシじゃない?」
「ディストピアに戻ったよ」
「『完璧で幸福なアルファコンプレックスの食事が爆発するわけないじゃないですか。さては市民紅葉はコミーですか?』」
「あ、はぴ子ちゃんの洗礼受けたんだ」
はぴ子というのもクラスメイトだ。年中TRPGの同士に飢えているやつだが、今はそれこそ状況がディストピア近似なので飢餓状態が酷いらしい。
「そういえばはぴ子ちゃん、最近は先生をTRPGに誘おうとしてたらしいよ」
「末期だな」
「転校一か月でサボりを覚える子も末期だと思うなあ先生は!」
と、ここで。
唐突に部屋の扉が開いた。施錠していないから当然だが。
入って来たのは中年太りの白スーツこと白鞘実子校長である。
「ふふん、天色さんが
「嘘ですね」
「嘘だよねえ」
わたしと紅葉さんは同時に同じことを言った。というのも、白鞘校長の手には大きなピクニックバスケットのようなものが抱えられていたからだ。ただ様子を見に来るだけならこれはいらないものだ。さらに言えば、そのバスケットの中から何か香ばしい匂いもしている。
「ばれた?」
校長はわたしの隣に問答無用で腰掛けると、ローテーブルの真ん中にでんとバスケットを置いて、その上部を覆っていた布を取り去る。バスケットの中には様々なパンと、プラスチックの蓋がついた紙コップが収められている。コップの中身は……コーヒーか。
「ストリートにあるパン屋さんが配達サービスを始めてね。物は試しと注文したんだけど、適当に注文し過ぎて一人で食べるには多いし他の先生と分けるには少ないしで困っちゃって」
「それでここに?」
「ええ。最近はそうでもないけど、普段ならさぼってる生徒が何人かいるはずだから、その子たちと食べようかなって。あなたたちがその幸運に預かったってわけ」
「やったー!」
喜んだのは紅葉さんである。もうちょっと喜び方に工夫がないのかと言いたくなる素直さだ。
「ほら、天色さんも。そんな新兵を戦場での食事に慣れさせるために用意したようなものじゃなくて、こっち食べなさいな」
「いや、わたしは……」
「というか食べてよ。それ食べてる横でわたしと鴨足さんが普通に食事してたら『奴隷階級の扱いに慣れた貴族階級の母子』みたいになるじゃない」
「そんな異世界転生した主人公が世界観のギャップに衝撃を受ける一コマみたいな」
とはいうものの、わたしも校長や紅葉さんに気まずさを与えるのは不本意である。後からこの部屋に誰かがやってきた場合、本当に校長が言ったような場面になりかねないし。
クラッカーは適当に水で流し込んで、先生からコーヒーとクロワッサンをもらった。まずコーヒーを一口飲むと、程よい甘さの中に覚めるような苦みがあって、頭にかすかに残っていた眠気が、シュシュの夢幻とともにかき消えていった。
次いでクロワッサンを齧る。サクッと歯が通って、口の中からバターの香りが鼻に抜けていく。
「そういえば」
クリームパンを手にしながら、校長が思い出したように口にする。
「昨日、ストリートのお店から苦情があったんだよねえ」
「苦情ですか、穏やかじゃないですね」
メロンパンを頬張りながら紅葉さんが返答する。
「ま、通学路に設定してあるし、うちの生徒が通るからこそ繁盛している面もあるからもちつもたれつなんだけど……。でも酷いのがねえ」
校長が身を乗り出す。つられてわたしたちも身を乗り出した。
「苦情をよく聞いてみると、問題だったのは鉄黒高校だったの。店の前で鉄黒高校の生徒が喧嘩して迷惑だって」
きっと昨日の、呉とあの生徒会長の一幕だろう。いくら高校生でもそう一日に何組もが店の前で喧嘩するとは思えないし。
「それがどうして、白花の方に苦情が来るんですかね。電話番号間違えたとかですか?」
「ああ、あなたたち一年生はピンと来ないかもしれないわね」
紅葉さんの質問に答えて、校長はちらりと横のわたしを見た、ように思われた。実際に彼女が見たのは、わたしのすぐ背後にある、カーテンが閉められた窓の方だった。
「鉄黒高校と白花女学院は、ただのお隣さんじゃないの」
「………………なるほど」
思い出した。そういえば、そんな話だったな。
わたしは立ち上がって窓に近づき、カーテンを開いた。そこからは白花女学院の本棟――つまりわたしたちの今いる校舎から正門に向かって一直線に伸びる道が見える。そして正門のすぐ目の前が………………。
曇り空の下に鎮座する鉄黒高校本棟校舎である。ちょうど、
より正確に描写するとこうだ。白花女学院は東側、鉄黒高校は西側に向かい合って建っている状態だ。ふたつの校舎はぐるりと包括するように、同じ高い塀で覆われている。外から見れば、この二つの学校が別々の学校だと知るのは難しいだろう。そして二つの校舎を分断するように北から南にかけて一本の広めの道が通っている。その道の南側の、塀に作られた出入り口が鉄黒高校の正門であり、反対側が裏門である。白花女学院の正門は、その南北を貫通する道に沿って白花側に建てられた塀に造られたものなのだ。
言ってしまえば、鉄黒高校のほとんど中に白花女学院があるような状態である。一度鉄黒高校の正門を潜らなければ白花女学院の正門を拝むことはできない。おかげではじめて来た時は、事前知識があったにも関わらず三十分くらいは学校の周囲をさまよう羽目になった。
「去年まで、白花女学院と鉄黒高校は同じ学校でしたね」
「そうそう。だからいまだにストリートの人たちはその感覚が抜けなくて」
「…………ほふぇ?」
わたしと校長は紅葉さんの方を見る。彼女はメロンパンを飲み下してから、もう一度言葉を繰り返す。
「今、変な音がしませんでしたか?」
「音?」
話を区切って何を言っているんだこいつは。
「なんか聞こえた気がして」
わたしは壁に立てかけてあった杖を取り上げて、それで床を軽く小突いた。
「こういう音じゃなくて?」
「ううん。銃声? っぽい気がしたけど、聞いたことない音だなあ」
銃声、聞いたことあるのか。
スターターピストルの音じゃなくて。
「じゃあ気のせいだね」
「あ、空ちゃんひどーいっ!」
実際、わたしには聞こえなかったのだから仕方がない。校長も聞いていないらしく、首を横に振るだけだった。
音についてはそれ以上詮索しても仕方ないので、紅葉さんが話を元に戻す。
「鉄黒と白花が同じ学校だったって、本当なんですか?」
「ええ。といっても、十年くらい前から実質上は分離していて、明確に別々の学校に分かれたっていうのが今年からってだけ。経営や法律上の問題がどうのという話で、生徒たちにはあまり関係ないのよ」
関係ない、だろうか。おそらく実質上の分離状態から名実ともにの分離状態を目指したのは、きちんとした意図があったはずだ。
そして分離こそ適ったが、意図は果たせなかった。
「天色さんは知ってたんだ」
「そりゃあ、転入する学校のことですから調べましたよ。もっとも、受験生向けのパンフレットではそういう細かいところは拾えませんでしたが」
サングラスの下の、稚気に溢れた瞳を思い出す。
「詳しい人がいまして、教えてもらいました」
「ふうん」
校長の目がこちらを見据えた。わたしが言葉をぼかしたところまで見抜いているようであまりいい気分はしなかった。
「そうそう」
校長は何か、わたしに追及をしたそうな雰囲気を出していたが、その雰囲気をすっと体に仕舞うと、バスケットの中のパンに手を伸ばした。
「
「管理官?」
コーヒーを啜りながら紅葉さんがオウム返しに聞く。
「あ、思えばうちに管理官いませんでしたよねっ! 一校につき一人って扱いだったのに」
「うちはまだ誰も殺されてないから、まあそれでいっかって感じだったんだけど――――」
ちらりと校長がこちらを見る。
「最近はそうもいかなくて。あのプログラム、一年だけって言ってたのがどうも三年に延長するかもって噂も聞こえてきたし」
「ええっ? そんなあ」
そうか、延長か。
がっくりとうなだれる紅葉さんを尻目に、わたしはコーヒーを飲むふりで口元を隠した。それから、そっぽを向くように窓の景色を眺めた。鉄黒高校の校舎は、今わたしたちのいる校舎と同じ六階建てらしい。おそらく他の校舎も構造はそう変わらないだろう。校舎の足元で、黒蟻のようにちらほらと生徒の姿が見えた。
「あ、もうこんな時間」
振り返ると、校長が自分の腕時計を覗いていた。
「そろそろあなたたちも戻らないと、次の授業があるでしょう。午前中はさぼったんだから、せめて午後はちゃんと授業を受けてね」
「はーい。行こうか、空ちゃん」
このままもうしばらくぼうっとしていたかったが、反抗する気も起きなかった。コーヒーのカップなどはバスケットに元通り戻して、校長が回収する。三人連れ立って応接室だったサボり部屋を出て、廊下を歩いた。
わたしたちは足を進めた。校長と紅葉さんが案外に足早なのに、わたしは一応杖をついているし歩幅も広くないので、少し遅れ気味だった。
途中、ひとつの部屋の前を横切る。掲げられたプレートには『放送室』とある。ちらりと扉の覗き窓から部屋の様子を覗こうとしたが、内側からカーテンがかかっていて中の様子は見えない。
「……………………………………」
むきになった、とかではなく。
何となく覗こうと思った部屋を覗けなかったからだろう。次の部屋も覗いてみようという気を起こした。校舎のこの辺りに来る機会は多くないし、どこに何があるか把握できるときにしておこうという魂胆もあった。
果たして、それが良かったかどうか。
放送室の隣は、プレートからして生徒会室らしい。今度の覗き窓はカーテンなどで遮られていない。意気揚々と、しかしさりげなくちらりと部屋の中を覗いて――――。
わたしは足を止めた。
「……………………空ちゃん、どうしたの?」
気づくと、二人もわたしの傍に来ていた。しかし横目でそれを確認だけして、すぐにわたしの視線は生徒会室の中へ戻った。
生徒会室の広さは、わたしたちが普段使っている一般的な教室のそれと同じである。机や椅子の数が少ない分、広く感じるくらいでもある。事務用の長机を長方形の形になるよう繋げたところに、パイプ椅子が適当に並べられている。扉付きのスチールラックは半開きになって、中からごてごてとしたファイルの背表紙が顔を覗かせている。
その教室の窓際。
机とパイプ椅子に遮られてよく見えないが。
何かが臥せているように思われた。
「どうしたの?」
今度は校長が尋ねる。わたしはそれを無視して、扉に手をかけた。二枚組のスライド式の扉だったが、やはりというか、鍵がかかっていてびくともしない。
わたしは少し下がって。
「紅葉さん――――」
この扉壊せる? と聞こうとしたのだった。
「よいしょー!!」
聞く前に動作は完了していた。
わたしが何かを頼むより早く、彼女のタックルが扉に炸裂した。しかも全力の、一切のためらいのない総力を込めたタックル。校長が目の前にいて、事態の深刻さもまだ全然把握できていないという状況で行うには暴挙と言って差し支えのない行為だった。
「ちょ、ちょっとっ!」
さすがに、いつも鷹揚としている校長も焦っていた。
「紅葉さん!? 何してるの?」
「扉壊してます」
「聞き方を間違えたわね。どうしてそうなるの?」
「でいりゃ!」
二撃目は鋭い蹴り。正確に錠前の部分を狙って放たれた攻撃を受けた扉は、バキッっと嫌な音を立てた。扉の外観に変化はないが、錠前のどこかがいかれたらしい。
「せーの…………」
「待て。もう大丈夫。後は扉ごとレールから外した方が早い」
「そっか!」
言うなり、紅葉さんはスライド扉の一枚をひっつかみ、ガタガタと揺らす。すぐに扉を外し、彼女はそのドア板を適当に放り出した。
「さて、鬼が出るか蛇が出るか」
部屋の中に顔を突っ込んで様子を見る。その時、風が柔らかく吹いてわたしの前髪を撫でた。何かが倒れている付近の窓が一枚、開かれているのに気づいた。
もうひとつ、気づいたこともある。
風に乗ってわたしの鼻に届く臭いだ。
………………懐かしいな。学校でこれを嗅ぐのは。
「あたし、管理官の人呼んでくるね」
「分かった」
パタパタと足音を立てて、紅葉さんがその場から離れる。わたしは生徒会室に数歩、足を踏み入れて、それから振り返る。白鞘校長は心配そうにこちらを見るだけだった。むしろそっちの方が好都合なので校長はそのままにして、わたしは窓際に近づく。
「…………………………」
窓際には、一人の女子生徒が仰向けに倒れていた。ま、白花は女子高だから女子生徒以外いないんだけど。
彼女は胸元から血を溢れさせていた。その血は白いブレザーを黒く濡らし、左腕の腕章まで滴っていた。
角度からして『生徒』までしか見えないが、その腕章に書かれている文字が何かは分かる。
そこで倒れている生徒の顔を見れば、腕章の文字など見るまでもない。
「ひょっとして………………」
部屋の入口からでも察したのか、校長が呟く。
「朝山さん?」
倒れ――いやどう素人目に見たって死んでいるようにしか見えないのは、白花女学院の生徒会長、
はいここで暗転。
普通なら。
ミステリーにおいて最初の被害者の発見はそこそこインパクトの大きいシーンであるだけに、ここで一回、章を区切るというのはありがちで、かつ無難な方法だ。もしわたしが筆者だったとしても同じことをした。ここで「朝山会長が、し、死んでいるっ!」とインパクトを与えておいて暗転させる。そうして次章はどこかの部屋に意気消沈した関係者が集うところから始めて、そこから少し時計の針を戻して死体発見のシーンを詳述する。死体発見からすぐに現場検証のシーンに映ってしまうと、死体発見のインパクトが薄れるし、登場人物たちがあまりショックを受けているようには見えなくなってしまうからね。
ところが語り手たるわたしにとって、学校内で死体を発見することなどさほどインパクトの大きい事態ではない。
死者たる朝山会長も、知り合ってわずか一か月となると死んでいることのインパクトに影響を及ぼさない。インパクト的には紅葉さんが死んでいた方がまだマシだったくらいだ。
そして何より、今の日本、今の高校、今の白花女学院においては、死体にショックを受けている暇があるなら視線をさっと現場に走らせるべきなのだ。
だからこのまま現場検証のシーンへ移る………………と思ったら大間違い。いや、わたしとしてはそうしたかったのだけど、より大きなインパクトを持ったシーンが間に挟まってしまい、結局この章はここで幕を閉じる羽目になる。
わたしはわたしに追いついて。
時は足並みをそろえて歩き出す。
頭の中で得た事実を整理する。
生徒会室は密室だった。……密室だった? 扉のひとつは確かに施錠されていた。他の扉は?
窓が開いている。だがここは六階。犯人がスパイダーマンでもない限り出入りは不可能。
すると一番警戒するべきは…………。
さっと、視線を生徒会室に走らせる。一瞬、床に落ちているスマートフォンが赤色だったので変に気を取られたが、探すべきは、犯人が隠れていそうなところだ。
よし、今のどさくさで犯人が逃げた様子はない。既にこの部屋にいないか、今も息をひそめているかのどちらかだ。
「なにがあった!!」
突然の大声。校長のものでもない、紅葉さんのものでもない声に、咄嗟にそちらの方を見てしまう。
「……………………え?」
声の主たる闖入者の正体に、わたしは少なからず驚いた。
声の主こそ一人だったが、その後ろにどうやらぞろぞろと同じ格好の人間が控えているらしいことに。
彼らの格好が黒い詰襟の学生服だったことに。
そして。
声の主であり、彼らの統率者らしい男が。
わたしの足下で倒れている会長の従兄弟だったことに。
「……………………………………」
わたしとその男、朝山群青は数瞬、お互いの眼鏡越しににらみ合う。男はこちらに近づき、自分の従兄弟の死体を見た。
身内の死体を見た時、人の反応は千差万別で尋常一様の「こう」という動作はないのだが、朝山群青の反応はその中でも淡白なもののように見えた。
そう見えることと、そうであることの間には差があるけれど。
彼は口元を隠し、ぷいっと横を向いた。悲しみに耐えている様をこちらに見せないようになのか……。
あるいは。
「そうか…………」
濁った眼に血色の悪い肌と、今しがたまで死んでいたと言われても信じてしまいそうな彼の様相だったが、やはり口元を押さえて考え事をするさまは思慮深さに溢れていた。生徒会長をする分には不足はない程度には。
「では、仇は取るとしよう」
「…………………………?」
仇を取る?
朝山群青は、わたしから背を向けて教室の出入り口を見た。おそらく彼が連れてきた連中ではなく、白鞘校長の方を向きたかったのだろう。
「マーダー・チャレンジ・プログラム。略称MCPにおける白花女学院第一事件の捜査をこれより鉄黒高校生徒会警察が開始する!」
それは…………。
あり得ない宣言だ。
事件の捜査ができるのは、事件が発生した学校の生徒だけだ!!
こいつはいったい、何を考えている?
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