名もなき酒場にて

ひざのうらはやお/新津意次

名もなき酒場にて

 国境を囲む森の中に、一軒の小さな小屋がある。黒々とした木々と濃い霧の中にひっそりとたたずんでいるそれは、ひどく質素だったが、煙突には真っ白な煙がのぼっていた。


 ある新月の夜のこと。


「いらっしゃい」

 小屋は酒場になっていて、戦争に疲れた二国の兵士や、ふらりと迷い込んだ旅人などが、時を忘れてゆったりとくつろいでいる。

「なんだ、お嬢さん、ここでは見ない顔だな。どうだ、一杯?」

 小屋に迷い込んだ女は、男の声がするほうへ目を向けると、一瞬固まり、目を丸くした。

「まあ、そんな顔しなさんな。別に化け物ってわけじゃない。元々はおれも人間だったんだ」

 そう言ってトマトジュースを取り出した店主は、小さな球体のからだをぴょこぴょこと言わせながら、酒瓶の間を通り抜けていく。真っ白な球体は、暗い室内で見ると不思議に目立つ。

 女は戸惑いながらも、薄い板を何枚も重ねただけの、簡素なカウンターに腰をかけた。

「しかし、この店にお嬢さんが迷い込んでくるなんてのは、久しぶりだな」

 小さな球体の店主は、じゃがいもほどの大きさの四肢を器用に操り、目にもとまらぬ早さで赤い液体の入ったフルートグラスを女の前に置いた。

「まあ、こいつはサービスだ」

 ブラッディメアリ。真っ赤なカクテルはそんな名前があることで知られている。

 女はゆっくりとそれを飲んだ。トマトジュースの奥で、つんと少しだけウォッカの強さがしみる。

 女は球体の生物をじっと見つめる。彼はよく見ると二本の足と二本の手があり、足できちんと自立している。四肢は粘土のように自在に動くようで、物をつかむこともできるみたいだ。球体の中心には、子供の落書きのような気の抜けた顔が描かれていて、困ったような表情を浮かべていた。

「変な身体だろう」

「そうね」

 女はきわめて穏やかに、そう答えた。

 球体の生物は落ち着かない鼠のように、カウンターの中をあちらこちらと動き回り、何かを探している。

「どこやっちまったかな……お、あったあった」

 彼は、そう言いながら錆が目立つ小さな鉄板を女に手渡した。

「なに、これ」

「次、ここに来るときに必要になる物だ」

「でも、私、ここの場所覚えたけど」

「そういう問題じゃねえんだ。まあ、また来たいと思った時に見てみな。そんときわかるだろう」

 女は鉄板をしげしげと見つめる。よく見ると、中央には文字が彫ってあった。

「これ……ドッグタグ?」

「元はそうだったものだ」

 球体の生物は、そう言ってカウンターの隅にいた兵士へグラスに入ったナッツを差し出した。兵士はグラスを高々と上げて礼をする。

「こいつが、方位磁針みたいにこの酒場の場所を指してくれる」

 女は再び周囲を見渡す。服装から見ても、二国の兵士が入り乱れて酒を飲んでいる。普段は互いに銃を撃ち合っているというのに、この酒場の中では関係ないようだ。

「ここ、なに?」

 思ったことをつい口にしてしまって、最も動揺したのは他ならぬ彼女自身であった。

 店主である球体の生物は、雑に描かれた顔を女に向け、

「今更そんなことを聞くのか?」

 と呆れたような声を出した。

「こんな場所に名前なんざないんだよ。他にないからな」

 彼はそう言って奥に引っ込んでしまった。

 女はつまらなそうに、どろりとした赤い液体を飢えた狼のように飲み干すと、店を後にした。


 月は少しばかり膨らみ、両端の鋭さがなくなってきた、そんな夜。


「最近、吸血鬼が出るって噂があんだよ」

 人が少なく落ち着いた店の中で、常連の兵士がバーボンのロックをくるくると回しながら言った。からんからんと、小気味のいい音が響く。

「不気味な森には違いねえが、吸血鬼なんざ、本当にいるのかねえ」

 相変わらず店主は、球体の身体で器用にグラスを磨いている。

「そりゃあんたみたいな奴がいるんだから、吸血鬼だっているかもしれねえじゃねえか」

「なるほど、そういわれりゃ、確かにそうかもな」

 店主がそう言ってグラスを棚にしまい終えると、扉が開いて、女が入ってきた。

 すらりとした華奢な身体と、穏やかな顔つきは、夜の酒場には似つかわしくなかったが、店主は彼女を歓迎した。

「お、いつかのお嬢さんじゃねえか」

 店主の、雑に書かれたような顔が少し明るくなったように見えた。

 真っ黒な髪を長く伸ばし、真っ白なブラウスに紺色のカーディガン、灰色のコットンパンツを履いた彼女は、あまり女らしい雰囲気ではなかったものの、商売女ばかりを相手にしてきた兵士たちの間では、ちょっとした噂になっていた。

「確かに、この鉄板は必要ね」

 彼女は柔らかな声でそういった。もったりとした一重まぶたが緩やかな視線をつくり、店主に注がれる。

「そうだろう。さあ、何がいい?」

 店主はタンブラーをひとつ取り出すと、女の前に置いた。

「ブラッディメアリを」

「気に入ってくれたのか、ありがとう」

 店主は何も書かれていない透明な瓶からウォッカを注ぎ、その上にトマトジュースを重ねた。マドラーをゆっくりと差し込み、彼はタンブラーを差し出す。

「はいよ」

「ありがとう」

 女はゆっくりとタンブラーに口をつけた。その薄い唇に視線が集まる。

「なあに? 私がそんなに珍しいの?」

 視線に気づいた女は少しだけ眉をつり上げ、張り付いたような笑みを浮かべた。

「珍しいさ。ここに女が来ることなんて滅多にないし、ましてや一度来た女が再び来る事なんて、今までないぜ」

 店主は男たちの気持ちを代弁するかのように言う。言ってから、ちょっと失敗したかな、などと彼は思ったようだが、女はその失礼な発言に気を悪くした風もなく、すんと澄ましたような顔をしている。

「そう」

 女は赤い痕が放物線のように広がったタンブラーを静かにカウンターに置いた。かたん、という音はわずかな喧噪の始まりに消えていく。

「どうして、また来ようと思ったんだ?」

 店主は率直に聞いた。

「また来ちゃだめ?」

 容貌に似合わず幼い声でささやく彼女に、店主はいつも通り困ったような顔をする。

「あら、思ったより純情なのね、マスター」

「やめてくれよ。慣れてないんだ」

 店主はすごすごと店の奥へ引っ込んだ。

「なあ、あんたも知っているか、この森の噂」

 近くにいた兵士はだいぶ高揚しているらしく、静かにたたずむ女に向かって話しかけた。

「何かしら?」

 ゆっくりと、流すような目線で彼女は兵士に顔を向ける。

「吸血鬼が出るんだってよ」

 兵士はにやにやしながら続けた。

「ふうん」

「なんだ、面白くねえのか」

「だって、あり得そうな話じゃない? これだけ不気味な森なのだから」

「あんたもそう思うか?」

 数個のグラスを抱えて戻ってきた店主は、ぴょこぴょこと短い足を器用に操って、二人の会話に混ざり込んできた。

「よくもまあ、こんな森でドンパチやってられるよなあ」

 店主は雑な呆れ顔をして、磨いたグラスをカウンターの下にしまう。

「しょうがねえだろ、それが仕事なんだからよお」

 兵士は年甲斐もなく口をとがらせて、そう言った。

「にしたってもっと戦いがいのあるところいっぱいあるじゃんよ。たとえば西の湖とか、峠の街とか。なんでこの森ばっかりが戦場になってるんだろうな」

「そりゃわからん。俺は雇われてるだけだしな」

 兵士はそう言ってバーボンを飲み干した。

「おかわり」

「おい、そんくらいにしとけよ。ここんとこ毎日酒が増えてんぞ」

「いいじゃねえか。戦うのだって疲れんだよ」

 店主のふわふわとした言葉は兵士には届かないようだ。彼は仕方なく新しいグラスに丸い氷を入れ、ゆっくりとバーボンを注いだ。

「だいたい、敵なんて見あたりゃしねえ。同じ服を着た奴は撃っちゃ駄目だってのに、敵がどこにいるかなんて誰も教えちゃくれねんだ」

 兵士はがん、と乱暴にグラスを置いた。

 その隣で女はふふ、と、どこかいたいけな笑みを浮かべる。

「ホンノウジにでもいるのでしょう?」

「ホンノウジ? なんだそりゃ?」

「敵はホンノウジにあり、か」

 店主はまじめ腐ったような顔を作った。

 意味が分からず唖然とする兵士。

「そういう諺があるんだよ。なんだったかな、確かウィスコンシン・カッパドキアの台詞だったか」

「ああ、カッパドキア! 確か『石の上にも三年』っていう劇を見たことがある。あれは笑えるぞ。悲劇の帝王カッパドキアなのにな!」

「カッパドキアの喜劇四十選のひとつですものね」

 女は淡々とそう言った。

「カッパドキアってのは悲劇が神髄とはよく聞くが、実のところ喜劇の方が多いってのはあんまり知られてねえんだ」

「そうなのか、知らなかったぜ」

「カッパドキアの四大悲劇はみんな全部言えるくらいですものね」

「そう思ってんのはお嬢ちゃんだけだと思うぜ」

 そりゃたいへんだ、と店主は困った顔をした。そして彼女のグラスが空いていることに気づいた。

「他のも飲むか?」

「ええ、何があるの?」

「なんでも」

「じゃあ、私が好きそうなものを」

「随分とふっかけるなあ」

 彼はそのほほえみのうしろに、大海のよどみのような、言いしれない不思議な気配を感じた。

 店主は少し深めのカクテルグラスを取り出すと、アルミ製のシェイカーにウォッカとレモン、ホワイトキュラソーを順々に入れていく。

「バラライカか」

 氷をまんまるの手で掴んで放り込む店主をみながら、兵士がぽつりとつぶやく。

「持ち玉でお嬢さんにあうものっていうと、これくらいしかねえな」

 大きなシェイカーをちいさな身体で一生懸命しゃかしゃかと振る。身体全体がぴょんぴょんと飛び跳ねるように、店主は全身でバラライカを作っていた。

「お嬢さん、ラッキーだ。こう見えてもな、マスターのバラライカは最高なんだ」

「へえ、そうなの」

「おい、ハードル上げるんじゃねえよ、やりづらくなるだろうが」

 シェイカーを振っているのか、シェイカーに振られているのか、いよいよわからなくなった店主の悲壮な声が神妙にこだました。

 そうしてまもなく、彼はカクテルグラスにシェイカーの中身をあける。

 薄暗い照明に黄色く彩られた半透明のバラライカが、妖しく光っていた。女の目がほんの少しの間だけまんまるになったのを、店主は見逃さなかった。

「いただきます」

 彼女は少しかしこまって、三角のグラスに口をつけた。細かく砕かれた氷とレモンとホワイトキュラソーにコーティングされ、十分に冷えたウォッカは、彼女の身体をゆっくりと炙るように降下していく。高揚と鎮静が交互に折り重なるように通り過ぎて、彼女はようやく我に返った。

「不思議なお酒ね」

 その言葉をまさに不思議そうな顔で残りの二人は受け入れた。珍妙な顔をしている彼らのことをあえて無視して、彼女はゆっくりと一重まぶたをつむり、そして開けた。

「おう、大丈夫か?」

 店主は心配そうに彼女をみつめたが、いかんせん雑に書かれた顔ではその心情は多分読みとれない。

「少し、酔っちゃった」

 彼女はそう言って残りを飲み干すと、ゆっくりと立ち上がった。雪のように細くしなやかな左腕に、腕時計の細い鎖が鈍い光を反射している。

 ふう、と軽いため息をついて、女は身を翻した。

「気をつけろよ。吸血鬼も出るかもしれねえからな」

 兵士の言葉に、彼女は再度振り返って、

「私は大丈夫」

 と言って、酒場を後にした。

「おい、ちょっと心配だなあ」

 店主は困ったような顔をしてつぶやいた。

「大丈夫さ、ひとりでこの店に来るような女だからな」

 兵士のそんな言葉にどこにも根拠がないことはわかってはいたものの、まさかついていくわけにもいかず、店主は黙ってグラスを磨き始めた。


 上弦の月を過ぎ、その輪郭は緩やかになり、木々さえなければ、それなりに明るい夜なのだろうと思われた。

 森は相も変わらず鬱蒼としており、時折遠くで機関銃の音や爆発音が響いている。膠着し続けた戦況は、実質的に兵士たちに安寧をもたらしているのだ。

 そんな森のいずこかにある酒場では、いつもと変わらない時間と空間が広がっているのだった。


「しかし、ここも随分客が減ってきたなあ」

 店主はタンブラーに水を注いで、すっかり小さくなってしまった石鹸の泡を立てた。今となっては、ここにいる客は目の前の女だけであった。

「吸血鬼が出るからじゃないかしら?」

 一見の客ばかりの酒場で、すでに常連の筆頭となっている女は、今日も店主の前で無邪気にそんなことを言った。楚々とした顔に慣れると、素朴な娘らしい美しさがにじみ出てくるような不思議な顔をしている。店主はぼんやりとそんなことを思ったが、カクテルグラスにほんの少しだけ残ったバラライカを名残惜しそうに飲み干すさまがあまりにも官能的だったので、その思考を否定した。

「よせよ」

 手際よくタンブラーやグラスを洗いながら、店主は例によって困った顔をする。

「最初は単なるおとなしいお嬢様かと思ったけど、あんた、案外冗談好きだよな」

「今更そんなこと言うの?」

 彼女のほほえみはどこか儚げなやさしさを装いながら、男たちを魅了する妖しさを秘めていた。

 どこかで逢ったような気がするんだよな。

 店主は見覚えのない彼女に、あるはずのない記憶を重ねようとするが、無駄なことだと気づき諦めた。

「ねえ、そういえば、あの兵士さん、最近見ないけど」

 数日前、バラライカを出したときにいた兵士は、彼女と並ぶ、いやそれ以上の常連だったが、あの日以来一度も来ていない。

「死んじまったのかもしれねえな」

 雑に書かれた顔がまじめそうに整う。

「えっ、嘘? 冗談?」

「冗談でこんな顔しねえだろ」

「いや、あなたの顔だと何言っても冗談に見えるけど」

「悪かったな。……だけどあいつ、一応傭兵だぜ? 不意に襲われて死ぬことだって十分あり得るだろ。そもそもあんだけ飲んだくれてりゃ、敵が来たら死ぬさ」

「冷たいのね」

 ただの感嘆詞と同じような感覚で、まったく感情のこもっていない冷淡な調子で彼女は言った。

「じゃなきゃこんな身体になってねえよ」

 店主はなげやりにそう言うと、空になったカクテルグラスを下げ、代わりに取り出したフルートグラスにトマトジュースとウォッカをぞんざいに注ぎ、マドラーでくるくると回して薄く切ったレモンを搾った。

「はいよ」

「まだ頼んでない」

「わかるだろ」

 目の前に置かれたブラッディメアリを、小首を傾げて受け取ると、素っ気なく口をつけた。初めて訪れたときから比べると随分図々しくなったな、と店主は感慨を巡らせる。それは決して負の感情ではなく、むしろ、娘の成長を喜んでいる父親のような心情であった。

「そろそろ、ここも潮時かなって、そう思うんだ」

 彼は珍しく仕事を止めて、女に話しかけた。

「そう。確かに、人は少なくなってきたね。戦場が別に移ってきたのかも」

「ああ。だが、おれはこの森から出られない」

 店主は哀しそうに身を縮めた。

「その身体のこと?」

「まあな」

 それ以上のことを、彼女は聞こうとしなかった。

 店の中にゆるやかな静寂が訪れる。

 女はグラスの酒をゆっくりと呷った。小さな喉が小刻みに動いて、どろりとした赤い液体が彼女の中に入っていく。球体の生物は、そんなことは興味もないというような顔をして、酒瓶を整理している。

「ねえ」

 彼女の少しだけ潤んだ声が、彼の動きを止めた。

「なんだよ」

 ブラッディメアリは、決して弱いカクテルではない。店主のさじ加減でウォッカの量が変わるし、その変化を舌では感じ取りにくい。

「吸血鬼の噂、どうなったかな」

「ああ、そういえばそんな話あったな。あいつくらいしか、信じてなかったみたいだけどな」

 かつて常連だった兵士は、いかにもまことしやかに、しかし何度もしつこく吸血鬼の話をしていた。まるで、信じたくないとでも言いたげに。

「本当に、いたとしたら?」

 後ろからナイフのみねでじっくりと背筋をこすりあげるような物言いに、店主は思わず女を見つめた。彼女の鈍い一重まぶたに覆われた白銀のまなざしは、ぞっとするほどに冷たい。

「なんだよ、急に」

 彼はその異常さを肌で感じながらも、否、だからこそ、努めて冷淡に取り繕った。

 店主の声で我に返ったかのように、彼女は穏やかな表情を作った。

 酒場は、もとの寂れた空間に戻った。

「戦場が変わって、吸血鬼がこの森に迷い込んでしまったら、いったいどうするかな、と思っただけ」

 彼女はつとめて、令嬢のような柔らかな声を出した。

「さあな。まあ、ただ、誰の手助けも借りず、どちらの国にも属さないようなやつがこの森を出ようってのは、ちょっと難しいだろうな」

 人間でないものを受け入れられる度量が領民にあるならば、とっくの昔に森は切り開かれ、穏やかな空間になっているはずだった。各地が銃やナイフや爆弾で争っている時代に、森が森であり続けるには、何らかのわけがある。

「で、本当に店を畳むつもり?」

 真新しい雪のような一重まぶたに白銀の瞳。彼女はわざとらしく上目遣いで店主を見つめる。

「いや、他に移るだけだ。似たような廃屋なんて、この森にはいくらでもある」

 昔は森じゃなかったからな。

 店主はそう言うと、空になったグラスを下げた。

「もう一杯、飲んでくか?」

「いえ、今日はこれで」

 少し頬が上気し、弛緩した笑みを見せた彼女に、先ほどの鋭さは微塵もない。紺色のスカートが艶やかに翻り、彼女は扉に手をかけ、

「せめて、満月までは待っててくれないかしら?」

 と言った。

 店主は後ろを向きながら、

「わかったよ」

 と答えた。


 煌々と輝く満月が、大地を照らしていた。それは鬱蒼と木が生い茂るこの森の中にもうっすらと届くほどに強い。

 森が唯一、明るくなる日だ。


 森の中の小さな小屋に、どこからともなく深紅のドレスの女が現れた。腰まで伸びてしまった髪は、ほんの少しだけ毛先がねじれていて、そのゆるやかな一重まぶたと白銀の瞳は、妖しく鋭く退廃的な視線を作りだしている。陶器のような白い肌には傷ひとつなく、飾り気のない顔には似遣わない赤い口紅が毒々しい。

 口元の牙は、控えめながらも尖っていた。

「こんばんは」

 女が扉を開けると、ほとんど元の廃屋に近いくらいにがらんとした店内がそこにあった。

 以前訪れたときと同じように、彼女のほかには客がいない。わずかばかりの蝋燭の火に照らされ、店主の白くて丸い身体がふわりと、亡霊のように浮かび上がっている。

 雑に書かれたような顔が彼女を迎えた。その後ろにあった大量の酒瓶はもうすでになく、がらりとした棚が、空虚に並んでいる。

「待ってたぜ、吸血鬼のお嬢さん」

 彼はいつもと同じように、ブラッディメアリを彼女にすすめる。

「いつから気づいたの?」

 そうして彼女は、淡々と一杯目を飲み干した。

「最初からな」

「なんだ。お芝居が上手なのね」

「そういうわけじゃねえけど、やっぱりこの森にあんたみたいなお嬢さんが来るのは変だと思ったんだ」

 店主は二杯目のブラッディメアリを丁寧に置いた。

「ごめんなさいね」

「まったくだよ。おかげで商売あがったりだ」

 店主は、まいった、という顔を浮かべていた。それを見て吸血鬼は微笑む。無邪気な牙がちらりと口元からのぞく。

「あんたも、そんなにかわいらしいのに、なんで吸血鬼なんかになったんだ? もっと他に道はあったろう?」

 三杯目のブラッディメアリを作りながら、彼は困ったような顔で吸血鬼にそう言った。

「それ、あなたが言うこと?」

「どういう意味だよ」

 彼の言葉を聞くなり、吸血鬼ははっと目を伏せた。

 そうか、忘れてるんだ。

 彼女はぼそりとつぶやくと、

「ごめんなさい。なんでもないの」

 と言った。

「そうか、もしかしてあんた、おれが人間だった頃を知ってるのか?」

 店主はそう言って彼女としっかり向き合う。

 空虚な酒場を緊張感と静寂が満たした。

「ええ、まあ」

「なるほど。それじゃ悪いことをしたな」

 店主のふざけた顔だけが、緊張感を乱している。

「おれはすべてを売り渡した。そうしてこの身体になってしまったんだ」

「記憶も、存在も、何もかも」

「その通り」

「それほどまでに……辛かったのかしら」

 彼女は複雑な表情をした。複雑すぎて、店主には伝わっていない。

「だろうな。記憶がないからわからないわけだが」

「残念ね」

「ああ、残念だ」

 三杯目のグラスを飲み終わったとき、

「これで、終わりだな」

 と、店主が蝋燭を吹き消した。

 わずかな月明かりだけが、彼らを照らす。

「でも、これを持っていれば、また、会えるでしょう?」

 彼女は、最初にもらった鉄板を胸元から取り出した。一重まぶたが少し赤みがかっていることを、店主は見逃した。

「そうだな」

 店主は冷淡に答えて、雑に書かれた大きな口を開けた。

 店の中の残った備品が、全て彼に吸い込まれていく。

「そうやって仕事してるのね」

「まあな。この身体で、唯一使えるところだ」

 膨らんだ身体のまま、苦しそうに店主は答えた。

 吸血鬼は、寂しげに微笑む。

「なんだよ、そんな顔するなよ」

「いいじゃない、もう一度くらい」

「知らねえよ。一度目の記憶がねえんだから」

「そうね。でも、また来るから。きっと必ず」

 彼女はそう言って、酒を一気に飲み干してしまうかのように、鮮やかな赤とともにさっ、と霞のように消えてしまった。


 ごくり。

 店主がすべてを飲み干して、酒場は消え、本当にただの廃屋に戻った。ぼんやりとした月の光が、屋根の隙間から彼を照らしていた。


「トマトジュースと、健康な客を用意しとかねえとな」

 誰もいなくなった廃屋の中で、彼はそうつぶやいた。

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名もなき酒場にて ひざのうらはやお/新津意次 @hizanourahayao

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