第63話 領域ー強制退去ー
もう夜は十分だとこの前思ったのに、結局一人でまた夜を歩いている。白々とした月が思っていた以上に明るくて、街の中の街灯なんてここでは不要なのかなと思った。ここに来て、「生まれて初めて」を何度経験したんだろうと、数えてみようとしたけれどあまりに思い出が多すぎてやめた。宿舎に帰り着くまでに終わらない。
林の中に入った時はさすがに少し怖かった。木々のしなりや風の音が想像をかきたてる。夜の闇の中で怪談が生まれた理由を肌で感じる。
そのとき、私の背後でパキンっと足音がした。ガバリと振り返ってみたい気はしたけど、怖すぎて無理だった。
無理だと思ったその時には私はもう走り出していた。声が聞こえた気がしたけど、足を止めるわけにはいかなかった。
あともう一息でゲートだ、と思った途端に、肩をつかまれた。
人は本当に怖い時には悲鳴も出せないんだな、と初めて知った。「生まれて初めて」がもうひとつ増えたけれど、これで終わりかもしれないと思った。
「おい」
干からびたような声がした。悲鳴は出せなくても殴り倒してやる、と心に決めた瞬間に、
「ひまり、足速いって」
と、もう一人別の声が聞こえた。
「え?」
死にそうな顔で私の肩をつかんでいるのはケンシだった。その後ろでよろめくようにこちらに近づいてくるシルエットは、
「ミユ?」
二人とも疲れ切った顔でうなずいた。
「ユウトは?」
ゲートの前に座り込んでケンシがようやく口を開いた。
私は首を振る。予想はしていたんだろう。
「そっか」
ケンシはうなずいた。
「で、結局全部、あいつの希望通りにいったんだ」
不満そうだった。
「どうだと思う?」
「計画通りだろうな。最後にわざわざ逃げ出して、マリと同じように消えて見せたんだから。ここから戻ったら殴ってやる」
なんとなく三人そろって空を見上げた。木々のアーチの隙間から星の瞬きが見える。じっと見つめていると距離感をつかめなくなりそうで、目を閉じた。
どれくらい私たちがゲートの前に座って空を眺めていたのか正直わからない。吸い込まれるような闇の中から、真っ白な光が急に降ってきた。視界が奪われるくらいに強い光だった。
「キタか」
ケンシがつぶやいて立ち上がる。
「お前ら、そこにいろよ」
「ちょっと、ケンシ。待って」
真っ暗な中でもケンシがこっちを振り向いて笑ったのがわかった。
ゲートから軽い機械音がし、扉が開く。
「不法滞在の3人を発見しました」
呼びかけとともに、もっと強烈な光が私たちを照らした。眩しい。
「行くぞ」
そう言ってケンシが走り出す。つられたように私も走り出した。
「ちょっとやめてよ」
後ろからミユの声が聞こえてくる。
「ミユ!」
「行って!」
何から逃げ出そうとしているのかわからなかった。はじめに走り出したケンシも、逃げようと格闘しているミユもわからないんじゃないかな。ただ、思い切り走って、自分の足でどこかにたどり着きたかった。
時間の感覚がなくなる。
体も頭もひとつのものみたいに走ることだけに集中する。
「・・・一生分走ったな」
呼吸が粗いまま私も必至でうなずく。夜にこんなに自由に走り回るなんてもう生涯二度とないかもしれないのだから。
走ることによる効能なのか頭の中が妙にクリアなのに自己抑制が弱まって何だか妙に気楽だった。どんなことにでも素直になれる気がした。
「ケンシはここが嫌いなの?」
偽物の世界だと言い続けたケンシは結局ここをどう思っていたのだろうか。ここで過ごした思い出はケンシにとってどうでも良いようなことなのだろうか。本当はもう少しで違う聞き方をしてしまいそうだったけれど、さすがにミユの顔がよぎって自分を抑えた。
「マリの作ったシステムはすげーと思うし。今の領域制度の方針も反対派してない」
「そうなの?」
意外だった。ディストピアとして憎んでいるんじゃないかと思っていた。
「システムとして合理的だし、実際に俺らはここでVRで見るだけじゃない経験をすることができる」
「こんなに走ることはもう一生ないしね」
そこかよ、と笑ってケンシは続ける。
「俺が許せないのは」
どきりとした。ずっと気づかないふりしてきたことを指摘されようとしている。
「俺たちのもともといる場所はどうでもいいのかよ?ここで癒されてそれでおしまい?」
私は何も言い返せない。
優しい風が私たちのそばを通り過ぎる。しっとりとした土の匂い、植物の甘い香り、木々の葉の若々しい気配。風とともにいろんなものが私の周りを通り過ぎる。ここでないと味わえない。残してもらえた記憶がが、たまらなく愛おしい。
「ダメだろ。それじゃ。俺たちはさ、」
ケンシは最後まで言う前に口を閉じて、林の向こうをふりかえる。
真っ白で大きな月がぽっかり浮かんでいた。そして、その月を背にして、白い肌が光るように見えるくらいに綺麗な佐々木さんが立っていた。
「IDを確認します」
まっすぐに伸ばした佐々木さんの手には銀色に光る物体が握られていた。いわゆる銃口というものがしっかりと私とケンシを狙っている。
「不法滞在者の名前とIDくらい覚えてるくせに」
ケンシがニヤッと笑って私の手をつかんだ。ケンシはまっすぐに佐々木さんを見返したまま動かなかった。
佐々木さんは艶やかに微笑んだ。
「IDの確認がとれない場合はここをお通りいただくことはできません」
そう言って佐々木さんは肩にかかった髪を揺らして後ろになびかせると、一歩私たちの方に近づいた。ようやくケンシは私の方を振り向いて小さく呟いた。
「もうひとつある」
「え?」
意味がよく理解できずに聞き返すと、ケンシは私を無視した。
「ユウトはあんたの兄さんとの取引で記憶を売った」
佐々木さんの表情が一瞬だけ変化した。困ったように瞳が揺れた。その時、ゲートから他のセキュリティの人がかけつけた。佐々木さんは、ふー、と息を吐いてからいつもの無表情に戻った。
「申し訳ないのですが、あなたたちは強制退去の処理をさせていただきます」
「もうひとつある。俺がここを好きになれない理由が」
佐々木さんがじっとケンシを見つめる。
「ただの一度もトラブル事例が報告されていない。俺たちはそんな賢くない。ユウトほどじゃなくても何かしら勝手なことをする奴らは絶対に出てくる。多分、あんたちは軽微とはいえ領域から戻るときに記憶を操作している。もしかしたら・・・それは今後の人格にも影響を与える可能性だってある。だから、俺らの年代のときに必ず領域を経験させるんじゃないのか?影響を与えるために」
ケンシが荒く息をして黙る。佐々木さんは表情を崩さずに呟いた。
「それだけ?」
「それだけって、あんたちはっ」
「それだけの経験しかできなかったってことよ」
佐々木さんの言葉にケンシが黙る。佐々木さんがケンシだけではなくて私の顔もちらりと見る。
「私たちは『記憶』を奪ったことなんてない。ただ、このシステムの副作用的な側面で、ある程度、「記録」的な情報は、帰った後に失われることが報告されている」
佐々木さんの後ろにいるスタッフが少し慌てたようなそぶりを見せる。佐々木さんが手で制す。
「記録?」
ケンシと私が同時につぶやき、顔を見合わせた。その様子を見て佐々木さんはほんのわずかに頬を緩めたような気がした。気のせいかもしれないけれど。
「そう。物事はだいたいデータとして記録することができる。青い空、青い海、暑い夏。誰でも同じ言葉で一定の表現ができることがらはただのレコードでしかない」
ケンシが押し殺した声で反論する。
「だからって、一律に消されていい情報ない」
佐々木さん、じっとケンシを見た。
「じゃあ、しっかりと記憶しなさい。感情と一緒に」
強い言葉だった。
「あなたが感じたこと、考えたこと、気配、匂い。五感をフルに使って、体に叩き込みなさい。ただのデータは失われても体を使った記憶は残っているわ。世界を変えるんじゃないの。まずは自分たちを鍛えなさい」
後ろのスタッフがだいぶ慌てている。きっと、彼女が話していることは真実だ。
「じゃあ、私たちはここで会ったことを全部覚えたられるんですか?」
「それはあなたたち次第ね」
「主任!」
我慢しきれなくなったスタッフの一人が悲鳴に近い声を出す。
「わかってる」
長い髪を揺らしてスタッフに頷くと、佐々木さんはケンシに改めて銀色のマシンを向けた。
「でも、悪いけど、強制退去が決まった人は少し違うかな」
カチリと冷たい音がどこかで響いた。
シュッというような金属音が響いた直後、ケンシの体がゆっくりと崩れていった。ケンシがこっちを見た。唇が動いた。でも、私の体は動かなかった。
「ケンシ!」
ひんやりとした金属の気配を感じて顔を上げると佐々木さんが私を見下ろしていた。
「どうして?」
自分の問いかけが思っていた以上に不安げに響いて驚いた。こんなに泣きそうな声を出してしまうなんて不覚だ。こんな場面で泣いたら負けを認めたようなものじゃないかと思いながら、頭の中の一部が「誰に?」と私に問いかけてくる。知らないよ。自分との戦いってこんな時に使う言葉であってたっけ。
体の中に溜まった不安を全部吐き出すように息を吐いてから私はもう一度顔を上げて佐々木さんを見つめ返した
「どうしてですか?」
「ごめんね。でも、仕事なの」
そう言った佐々木さんの瞳はとても綺麗で、あぁ、この人も何かを信じて守ろうとしているんだなと思った。ゆっくりと私は目を閉じた。
遠い林の向こうから海鳴りが聞こえた。小さなうねりが大きな波になる。何度も浜辺に打ち付けられて、何度も跳ね返されて、それでも自分で世界を変えていく力強い海。ミユと砂浜を歩いて、先輩とケンシとアイスを食べて、そして先輩と夕日を眺めた海。忘れたくない。
先輩と約束したんだ。
全部覚えてるって。
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