第42話 領域ー世界の変え方①ー
ケンシは1冊の本を取り出した。見覚えのある表紙の本だった。
「一つ、頼みがある」
そう言って、ゆっくりと文字を本の中に書き出した。真っ白な紙の上に線が引かれ、徐々に形が出来上がっていくのはまるで絵を描いているように見えた。
「なんでケンシは文字がかけるの?」
「誰でもできるだろ」
「できないよ」
今ではもう遠い昔の習慣だ。特別な人たちだけが文字を紙に書くのを見たことがある。今では貴重な文化遺産となっている神事の一環として。真っ白な紙に書かれたみずみずしく輝く文字は神様へ願いを伝えるのにはこれ以上ないくらいふさわしい手段に思えた。
「俺たちも襲撃にあったことがある」
ケンシは文字を書きながら話し始めた。とても静かな口調で、私に話しかけているのかわからないくらい淡々としていた。
「ここで」
「・・・ここで?」
私の問いかけに微かにケンシがうなずいた。
「その時、親戚が一人行方不明になった」
行方不明?そんなに激しい襲撃だったのだろうか。私の疑問を察したようにケンシが小さく首をふる。
「被害はほとんどなくて、俺らの親戚ともう一人だけ・・・」
少し言葉を切ってケンシが視線を上げる。黙々とPCで何かの作業を続けているマリを見つめる。
「いなくなった」
ケンシはマリの方を見たままかすれた声で呟いた。
「それから、毎年のように手紙を書いてるんだよ。あいつに言われて」
「先輩?」
「そ」
小さな先輩とケンシが親戚の人のために一生懸命に手紙を書く。あたたかい何かに包まれながら涙が出そうな気分になった。
「手紙ならきっと届くからいっぱいかいてあげようって言ってさ。小さい頃ならまだしも今でもほとんど無理やり書かされる。書いた手紙をどうしてんだか知らないけど。そういうわけで俺たちが文字を書ける」
そして、さらりと文字を書ききって、本を私の方に押してよこした。
「明日、どこからでもいいから海を見てみろよ。面白いもん見えるから」
「頼みって・・・それだけ?
「それだけ」
文句あんのかよ、と言いたげにケンシが少しだけ眉を寄せた。手に持っていたペンをくるりと指の先で器用に回してから、なんでもないことのように言い足した。
「こっちに来て、最初に紙を見つけた時、俺は迷いなく手紙を書いた。あいつも多分、同じことをした。で、こいつにあった」
そう言ってマリを振り返る。マリもようやく顔を上げる。
「マリも、ここに住んで住んでいたんだ?」
マリがじっと私を見てからこたえる。
「多分ね」
「多分?」
覚えていなくてもおかしくはないけど。
ケンシがじっとマリを見つめる。懐かしいものを眺めているようにも見知らぬものを観察しているようにも見える奇妙な眼差しだった。
「ねぇ、一個だけ聞いていい?」
「なんだよ?」「何?」
ケンシとマリがほぼ同時に返事をして、同じような角度で私を見返す。とてもよく似ていた。
「二人は従姉弟なんだよね?」
ケンシがゆっくりと口角をあげて微笑んだ。そして、マリの方をふりむく。
「ほんと、お前誰なんだよ?」
※※
ミユと私が見つめていた赤い船はいつの間にか波間の向こうにキラリと輝くように消えてしまった。水平線の遠い向こう側に進んでいったようにも、泡のように静かに消えていたようにも思えた。
それでも、だいぶ長い間私たちは動かないで海を眺めていた。
「吉川ひまりさんですね」
頭上から、聞き慣れたけどちっとも親しんでいない声が降りてきた。私は一度ゆっくりと目を閉じて、今見た鮮やかな海が私の中から消えないように祈るような気持ちで強く瞬きをしてから声の方を振り返った。
黒い綺麗な髪を一つにまとめ、少しも暑さを感じさせない無機質な無表情で佐々木さんが立っていた。私がうなづくと、
「少しお話をお聞きしたいことがありますので、事務室まで来ていただけますか。メールを差し上げたのですが返信がなかったので、申しわけありませんが居所を探させていただきました」
機械のように丁寧でよどみない口調の佐々木さんは私の顔から視線をそらさず続ける。
私はゆっくりとスマフォを取り上げて、何度かシミュレーションした台詞を彼女に伝えた。
「充電切れちゃって使えないんです」
わずかに佐々木さんの表情が動いたように見えたのは気のせいかな。まっすぐに私を見つめたまま佐々木さんは答えた。
「では、事務室へお願いします」
言い終わる前にすでに歩き出している彼女の後を追って私も歩き出した。
呆然とした表情でなりゆきを見ていたミユが慌てて立ち上がる。
「ひまり!」
「大丈夫」
ミユを振り返って手を振って見せる。
そしてポケットの中でいつでもスマフォの電源をオンできるように片手を添えてしまいこんだ。暑さのせいだけじゃなくて身体中の水分が蒸発しそうだった。
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