★想いとピンチと護身術

 煩くて目が覚めて、目を開けてみたら知らない天井だった。そして空気がなんだか埃っぽい。


(なんだか頭痛い……。というか、ここ、どこ?!)


 ゆっくりと部屋を見回すと、わりと広い部屋だった。窓はあるけれどカーテンはないし、まるで職場の建物の窓みたいだ。

 そして私が寝ていたのは、ふかふかのマットレスの上だった。……マットレスって、固いんじゃないの?

 そこまで見回して、友人二人とランチに行く途中で派手な服を着た男二人に道を塞がれ、車から降りてきた黒服の男たちにハンカチで口と鼻を塞がれて車に乗せられたことを思い出した。車に乗せられたあとの記憶がないことから、多分、薬か何かで眠らされてここに連れ去られて来たんだろう。


 一緒にいた友人たちは無事だろうか……。


 今日はパンツスーツにしておいてよかった……そんなことを考えながら何とか逃げ出せないかとマットレスから下りて立ち上がると、ドアに近づく。そっとノブを回しても途中で止まってしまったので、鍵がかかっているのがわかった。

 当たり前かとがっかりしながら、今度は窓に近づいてフック式の鍵を開けようとしたけれど、こっちは錆び付いていて開かなかった。幸いにも窓は透明でそこから下を見ることができた。

 外が暗くてよくわからなかったけれど、高さ的にはビルの三階か四階くらいかな? そしてそこから見えたのはたくさんの人と、ところどころ見える『ICPO』の白い文字。


「籐志朗さん……」


 唇に指先をあてて、彼とのキスを思い出す。この中に彼がいればいいのに……。そう思ったけど、SPをやるくらいすごい人だから、ここにはいない気がした。



 ***



 本当はあんなことをいうつもりじゃなかった。『不安が消えるまで、抱き締めていてほしいの』と伝えるつもりだった。そのつもりで口を開いたのに、出てきた言葉は『キスをしてください』だった。


『暁里、ここでか?』

『う……その、できれば……』


 少しだけ皺が寄った眉間が『何を言ってるんだ?』と言っているようで、でも今さらキスじゃなくて抱き締めてほしいとも言えなくて……。窺うように籐志朗さんを見上げると、少しの沈黙のあとで『わかった』と言われた。

 それに呆然としていたら軽く押されてドアに寄りかかる感じになっていて、気づいた時にはもう顔が目の前にあって、額にキスされた。

 続いて重ねられた唇から彼の舌が入って来て、小説とか海外の映画にあるような深いキスをされていた。最初は頬を覆う手のひらと、それを撫でる指が擽ったかったけれど、その指と口の中を動く舌が気持ちよくて、いつの間にか彼の服を握っていた。


 好きな人にキスをされるのが、こんなに幸せな気持ちになるなんて知らなかった。ずっとキスされて、彼と肌を重ねたいと思ってしまった。

 でも、そんな幸せな時間はすぐに終わりを告げ、彼に促されて家の中に入って鍵をかけると、彼の足音が遠ざかった。

 腰が抜けたようにズルズルとその場にへたりこみ、幸せな気持ちと悲しい気持ちを同時に味わってしまう。


 キスをされて幸せだった。

 でもそれは私がねだったからで、彼は私が好きだからキスしたわけじゃない。


 好きだという気持ちは私の一方通行だけど、キスをしたことで、もしかしたら少しは私を意識してくれるんじゃないかと思った次の日の朝。彼はいつも通りの挨拶しかしてくれなくて私はがっかりしたし、ふいにキスが思い出されたりして注意力散漫だったせいか、その日のお昼に連れ去られそうになった。

 今まで何もなかったからすごく怖くて、迎えに来た籐志朗さんの顔をみたら何だか安心してしまって、泣いちゃった。

 その時に背中を撫でてくれた大きな手は、とても優しくて温かかった。



 ***



 そこまで思い出して我に返ると、外にいる人にわかるように、私はここにいるという合図になるような物はないかと振り向くと、マットレスの上にあった布が目に入った。近付いて見るとそれはマットレスにシーツをかけただけらしく、捲ってみればそこにはマットレス本体ではなく、何故か折り畳んである山積みのバスタオルがたくさん並んでいた。


「……本当に国際的な犯罪組織なの? マットレスとかソファーくらい買いなさいよ……」


 呆れながら溜息をつき、白いバスタオルを一枚持ってまた窓に近寄ってから振ると、小さな明かり……懐中電灯みたいな明かりがたくさん、窓に集中した。それが眩しくて手で一旦遮り、恐る恐る手をどけるといつの間にか明かりが逸らされていて、ひとつだけになっていた。

 わかってもらえたことに安堵して感謝の気持ちを込めて頭を下げると、伝わったのか明かりがチカチカと点滅した。またバスタオルをふってから窓から離れると、マットレスもどきに座って息を吐いた。バスタオルは畳んで元の場所に戻しておく。


 籐志朗さんの仲間が、きっと私を助けてくれる。それに、彼に教わった護身術もある。隙を見つけて、絶対に逃げ出して……そして彼に告白するんだから!


 そう決めた時だった。鍵がかかっていたドアが開き、見覚えのある男が入ってきた。その手には銃が握られていて、銃口が私に向けられていた。


〔移動する。外に出ろ〕


 口を開くなよと英語で話した男に頷くと、促されるままに扉の外に出る。すると、下のほうから何かが倒れる音とか、銃の音とか聞こえた。

 その音がどんどん大きくなっているから、近づいて来ているとわかる。けれど、男にはまだ聞こえないのか、焦るような感じがしない。


(……ドラマとかだと、猿轡さるぐつわだっけ? 喋れないようにあれを口にかけるんじゃないの?)


 そんなことを考えながら歩かされる。私のヒールの音が廊下内で反響しているのに、男は注意するでもなく、靴を脱ぐように言うでもない。

 そして階段に近づくと、下から銃の音がはっきり聞こえているのに、男はまだ反応すらしない。


「……もしかして、耳が悪いの?」


 ボソリと呟いても、男は〔階段を登れ〕と英語で話すだけでそれ以上は何も言わなかったから、耳が悪いんだと確信する。そしてヒールの音をわざと響かせながら、階段を数段登った時だった。


「暁里!」

「籐志朗さん! 上、むーーっ!」


 毎日聞いていた、彼の声が聞こえた。だから、彼の名前を呼んで上にいることを伝えている途中でようやく気づいたのか、男が私の口を手のひらで塞いだ。

 その直後に数人の黒服が現れて階段の下を塞ぎ、数人が階段を降りて行く前にすぐにドサリという音がした。

 踊り場に来たので下を見ると籐志朗さんの顔が見え、彼と同じ格好――海外ドラマで見るような、警官が突入する時の格好をした人が五、六人くらいいるのが見えた。


〔チッ、もう来たのか! 時間まで奴らを足止めしろ! お前はさっさと階段を登れ!〕


 焦ったような男の声がするけど、男自身が私の腕を引いて登ることすらしない。もしかしたら足も悪いのかもと思いつつも下をチラリと見れば、籐志朗さんが黒服たちを殴ったり蹴りを入れたり、銃を撃ったりして相手を倒していた。


(カッコいい!)


 場違いだとわかっていたけれど、いるはずがないと思っていた人がこの場にいて、好きな人のカッコいい姿にテンションが上がってしまった。


(大丈夫……私は頑張れる……)


 彼が、そして彼の仲間たちがいる。本当はすぐに撃たれるんじゃないかと思って怖いけれど、彼がいることで勇気をもらった気がするから、頑張れる。それに、逃げるチャンスは一度きり。そのために、毎日練習をしてきたんだから。


 階段を登りきると、鉄のドアがあった。男に銃を突き付けられながら『開けろ』と言われて仕方なく開けると、そこには広い場所と白い線が見えた。遠くからヘリコプターの音がするから、もしかしたらヘリポートなのかも知れない。

 けれど、床のコンクリートにはヒビが入っていて、ヘリコプターが停まれるとは思えない。

 そしてさっきは気づかなかったけど、男の足音はなんだか不規則で、びっこを引いて歩いている感じがする。


(やっぱり耳だけじゃなく、足も悪いのかも……)


 階段を登ったことで疲れが出たのかも知れない。犯罪を犯すくらいなら病院に行けばいいのにと思うけど、犯罪を犯しているから病院に行けないのかもとも思った時だった。


〔止まれ!〕


 籐志朗さんの流暢な英語が聞こえると男は舌打ちをしてから足を止め、私ごと振り向いた。視線の先には銃を構えた籐志朗さんと、同じように銃を構えた彼の仲間が数人いる。


「籐志朗さん、ヘリコプターの音が……んんーー!」

〔黙れ! そこから動くな! じゃないと女を撃つぞ!〕


 振り向いた時に銃が離れたから、籐志朗さんにヘリコプターが近づいて来ていることを伝えようとしたのに、また口を塞がれた。今度は耳元でカチリという音――彼が教えてくれたリロード音が聞こえて、こめかみに硬いものが押し付けられて恐ろしくなる。でも。


「暁里、大丈夫だ。俺が教えたことを信じて実行し、俺のところまで走って来い」


 男の脅しに屈することなく銃を構えながら、日本語でそんなことを伝えてくれたので頷く。続けて「ヘリの音は?」と聞いて来たのであれだけで伝わったのが嬉しくて、自由に動かせる左手で右の方向を指すと、彼は頷いてくれた。

 そして彼の隣にいた人も聞いていたのか、何か話していた。その声は小さすぎて、耳がいい私にも聞こえない。


 護身術の練習で彼が教えてくれたのは、三つだけ。

 ヒールで足を踏むことと、体重を思い切りかけて足の爪先を踏むことと、口が塞がれた場合は手を思い切り噛んでから隙を作り、身体を低くして抜け出し、走ること。

 咄嗟なことでもできるようにと、籐志郎さんは毎日私と一緒に訓練に付き合ってくれた。だからこそ、できる……やれる。


「暁里!」


 私を呼ぶその声で塞がれている手を掴むと足の位置を確認して思いっきり踏む。


〔い……っ! この、くそアマが!〕


 殴るためなのか、銃を持っていた手を振り上げたけど、それよりも早く口を塞いでいた手を掴んで思い切り噛んで怯ませる。


〔ギャアァァァ!〕


 噛んだ手を離したら身体を低くして抜け出すと、そのまま籐志朗さんに向かって走り出し、彼の横を通り過ぎた、その瞬間。


 わりと近くで聞こえた爆発音と、私の後ろから銃声がしたあとでドサリという音と――「篠原!」「籐志郎!」と叫ぶ声がした。


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