8 神 千里の日常 -3-

「千秋、千里。」


 夕方、千秋とエレベーターホールで一緒になって。

 そのままエスカレーターを降りてると…ロビーから名前を呼ばれた。


「え。」


 隣にいる千秋が、なぜか露骨に嫌そうな顔をする。

 俺達の視線の先には…


「千秋、帰ってるなら連絡してくれよ。」


 上から二番目の兄貴、千幸ちゆき

 エスカレーターを降りた俺達に駆け寄った千幸は、千秋の頭をクシャクシャとする。

 目を細めてそれから逃げようとする千秋を見てると、昔みたいだと思って笑えた。



「…誰に聞いたんだよ。」


「篠田さんから連絡があって。」


「え?なんで篠田が知って…千里、何か言ったのか?」


「俺は何も言ってねーけど。」


「カンナから聞いたって言ってたぞ。」


「カンナ?」


 俺と千秋が同時に答えると、千幸は嬉しそうに。


「やっぱりおまえらは、いつまでも可愛いな。」


 そんな事を言いながら、俺と千秋の頭をクシャクシャとした。


 ふっ…

 可愛いって。

 俺達をいくつだと思ってんだ。



 その流れで三人で飯を食いに行った。

 千幸が、俺が知花にベタ惚れな話を自慢そうに話すのを、俺は飲みながら黙って聞いた。

 知花にベタ惚れなのは本当の話だしな。


 でもなぜか、千秋はそれに対してそっけない。


「…そんなにいい女なのか?」


 グラスに視線を落としたまま、千秋が低い声で言った。


「あ?」


「おまえの嫁さん。なんかオドオドして暗いよな。」


「……」


 つい、千幸と顔を見合わせる。


 知花…オドオドして暗いか?


 いや…?俺はそう感じた事はないけど。


 千幸がそう答えてくれたかどうかは分からないが、俺達はそう視線で会話をした。



「千秋は彼女、いないのか?」


「いないし要らないし。女ってかまってやらないと、執念深いほど恨み積もった視線送って来るだろ?」


「そうか?それは千秋の過去の女がそうだっただけだろ?」


「俺は、女の『言葉で言わなくても分かって欲しい』ってのが我慢出来ねーの。そんなの言われなきゃ分かんねーし、望む事があるなら念じずに言えっつーの。」


「……」


 これまた千幸と視線だけを合わせる。


 だが…

 千秋の言ってる事も、何となく納得出来る。

 知花にもそういう所はある。

 言わなきゃ分かんねーよ。って。


 …でも、別に今の俺達は平和だし、特に不満も…


「あ。」


 しまった…!!

 今日は早く帰るって、咲華と約束したよな…俺…!!


「どうした?何かあったのか?」


 突然立ち上がった俺を、二人が見上げる。


「…俺、帰るわ。」


「あ?まだ二杯しか飲んでないだろ。」


「娘に早く帰るって約束したんだった。」


 そう言った俺に。


「そりゃ早く帰らないとまずいな。」


 千幸はそう言って。

 千秋は…


「あー、こういうのが面倒なんだよな。久しぶりに兄弟三人で飯食ってんのに。」


「……」


 その言葉は、簡単に俺を座らせた。

 確かにそうだ。

 千幸と千秋と飲みながら飯食うなんて…今まで一度もないよな。


「いいのか?」


 千幸は心配そうに言ってくれたが。


「ま、明日早く帰る事にする。」


 俺はグラスを持った。

 それを見た千秋は。


「可愛いなあ、。」


 そう言って、俺の髪の毛をクシャクシャとかきまぜた。


「懐かしいな。その呼び方。」


 千幸が目を細めて笑う。


は昔からみんなのアイドルだよな。」


 もう酔っ払ったのか、千秋は頬杖をついて、空いた方の手で俺の頬をピタピタと触る。


「ははっ。相変わらず千秋はが大好きなんだな。」


「その呼び方やめろって…」


「俺がを大好きなんじゃなくて、が俺を大好きなんだよな?」


「…はいはい…」



 その後、店を変えて三人で飲んで。

 ベロベロになった千秋を、俺がホテルに連れて行く事にした。



「いいのか?」


「いいよ。今日は誘ってくれてサンキュ。」


「久しぶりに可愛い弟達に会えて嬉しかった。」


「……」


 サラッとそんなむず痒い事を言う千幸に、笑顔だけ返す。


「じゃ、玲子さんと隆幸によろしく。」


「伝えておくよ。」


 酔っ払った千秋の肩を抱えたまま、千幸の乗ったタクシーを見送る。


 千幸は…昔からいい兄貴だ。

 何かと気に掛けてくれて。

 …それでいてマイペースで、長男の幸太はそんな千幸を羨ましそうにしてたっけな…



「よっ…と。」


 千秋の肩を抱え直して、タクシーに乗り込む。

 ほどなくして到着したホテル。

 七階の部屋のドアを開けると、そこは戦場さながら。

 俺には訳の分からない文字が羅列した紙が、あちこちに散らかりまくってる。

 テーブルの上にはコンピューターが四台。


「……」


 …ビートランドのために、ここまでやってくれてるのか。

 そう思うと、感謝しかない。



「千秋、気持ち悪くねーか?」


 ベッドに降ろして問いかけると、もう目も開けない状態の千秋は。


「……」


「…え?」


 一瞬、俺の耳に届いたのは。


 女の名前だった。




 * * *




「あ~残念。さっき寝ちゃった。」


 帰って大部屋に入ると、義母さんとばーさん、誓と麗がみかんを食べながら俺を見上げた。


「…そうっすか。」


「それにしても、遅くなるなら連絡ぐらいしたら?」


「う…」


 麗にズバリ指摘されて、若干小さくなる。


「二番目と四番目の兄貴と飯食ってて。」


「まあ、それじゃ仕方ないわね。」


 義母さんはそう言ってくれたが…


「理由なんて知らないわよ。神さん、早く帰るってサクちゃんと約束したんでしょ?そこは守るか、連絡入れるべきよね。」


 麗はどこまでも厳しい…

 いや、当然の事だな。


「…ごもっとも。」


 そそくさとキッチンで水を飲んで部屋に向かう。

 そっとドアを開けるも、気配を感じ取ってるはずの知花は…振り向きもしない。


「…悪かった。」


 そう言って背後から抱きしめる。


「…おかえりなさい。」


「…ただいま。」


「……」


「……」


 あー…怒ってるよな。

 そりゃそうだよな。

 なんで、一度席を立った時に電話しなかった俺。

 今更だが、数時間前の自分にダメ出しをする。



「悪かった。明日は絶対早く帰る。」


「……」


「な?」


「…あたしに謝られても…」


「……」


 むっ。


 …いや、俺が悪い。

 仕方ない。



 知花の視線は、眠ってる子供達。

 俺も二人の寝顔を見て、咲華の頬に手を伸ばそうとすると…


「起こさないで。やっと寝たんだから。」


 知花の冷たい声が、それを止めた。


「…やっと寝たって。なら起こしてくれてたら良かったのに。」


「…ずっと泣いてたの。だから寝かし付けたの。」


「……」


 見ると、咲華の頬には涙の痕…


 ああああああああ…


「明日ちゃんと謝る。で、絶対早く帰る。」


 知花を抱きしめる腕に力を入れて言うと。


「…もう、約束なんかしないで…」


 知花は、小さな声でそう言った…。

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