9 神 千秋の暇つぶし -3-

「……はー……」


 ベッドに仰向けになったまま、深い溜息を吐いた。

 夕べ、千幸と千里と三人で飯を食って、酒を飲んだ。


 …本当は行きたくなかったのに。


 飯の最中、千里が帰ると言い始めて、それじゃ困る!!と思って引き留めた。

 千幸と二人きりなんて嫌だ。


 結局、千里は残ってくれた。

 そして、俺は…


 飲み過ぎた。



 それでなくても…酒には強い方じゃないのに。

 途中から、二人が家族の話を始めたのが気に入らなくて。

 …酔い潰れるほど飲んだ…と。


 調子狂ったな。

 …俺らしくない。



 シャワーを浴びて、コーヒーを飲む。

 散らばってる計算式を手にして、ソファーに座った所で…電話が鳴った。


「はい。」


『フロントです。お客様がいらしてます』


「客?誰。」


『高階様です』


「……」


 千幸…

 なんだってこんな所まで。


「上げて。」


『かしこまりました』



 やれやれ。

 バスローブのままだったのを思い出して、適当に着替える。

 どうせ午後からビートランドに行くし、千幸にそこまで乗せてもらおう。


 そんな事を考えていると。


 コンコンコン


 ドアがノックされた。


「千幸、仕事してんの…………」


「久しぶり。」


「……」


 ドアの向こう。

 目の前に立ってるのは、千幸じゃなく…

 千幸の妻、玲子…さんだった。



「わ、何?散らかして。」


 するりと俺の横を通り抜けた玲子さんは、部屋の中の散らかり具合に目を丸くした。


「…散らかしてるわけじゃない。それ、並べてるんだから触らないでくれる。」


 低い声でそう言うと、玲子さんは拾いかけてた紙をゆっくりと床に置いた。


「今起きたの?」


「今じゃない。」


「もう…可愛くない。」


「可愛いわけがない。」


「何怒ってるの?」


「は?」


 ようやく、玲子さんの目を見る。


 何を怒ってるか?

 何をって…



「どうして…俺じゃなくて、千幸だったんだ。」


 つい…両手を握りしめて言ってしまった。


 八年前…この女は、俺じゃなく千幸を選んだ。

 俺は…

 俺は、本気だったのに…!!



「えっ?まだそれ言うの?」


「まだって…俺はあれ以来玲子に会ってない。」


「そうだけど…だって、千秋、あの時まだ18だったじゃない。」


「18でも玲子を守る自信はあった。」


「んー…」


 玲子は呆れたような首をすくめると、ソファーに座って足を組んだ。


「答えろよ。千幸のどこが良かったんだ?」


「え?」


「千幸のどこが、俺より良かったんだ?」


 のんきそうな玲子に早口で問いかける。


「千幸さんの、千秋より良かった所?」


「そう。」


「……」


 玲子は少しだけ考えた後、口元を緩めて。


「人を信じて疑わない所かしら。」


 そう言った。


「…人を信じて疑わない…?」


「ええ。」


 …確かに、千幸はすぐに人を信じる。

 そして…疑わない。

 だから、俺のすぐ上の兄貴の幸介にはバカにされてたっけな。


『千幸は騙しやすくて楽だ』


 って。



「…玲子…」


 赤いタイトスカートからのぞいた足。

 組んでいる分、普段は見えないであろう太腿があらわになって…それは俺を誘っているかのようにも思えた。


「…千幸が自分を疑わないから、俺と浮気でもしに来たのか?」


 玲子に一歩近付いて言う。


「ふふっ…千幸さんなら、気付かないわよね。」


「……」


 もう一歩、近付いた。



 …俺は五人兄弟なのに、ずっと孤独に思えて仕方なかった。

 いつもそばに誰かがいるような生活も、思いがけず早いうちに終わった。

 上の二人は早くから留学したし、幸介がイタリアへ飛んだ後、俺も10歳で日本を離れた。

 千里だけを残して。


 五人兄弟なのに、みんなバラバラになってしまったあの頃。

『アキちゃん』と呼んでくれた、可愛いを恋しく思った。

 だが、一人残された孤独からか…

 久しぶりに会った千里は、無口でニコリともしない子供に様変わりしていた。


 変わってしまった千里を見て、俺に興味を持ってくれる奴なんて…誰もいなくなった。

 そう思ったのを覚えてる。


 それから、幸太と千幸も帰国して…

 一緒に暮らす事はなかったが、千幸はしょっちゅう俺が滞在していたじー様の家にやって来た。

 彼女を連れて。


 

「あなたが天才君?」


 IQ200以上なんて聞くと、大抵の奴らは俺が特別だと思い込んで喋るのをためらう。

 なのに…玲子は最初から…


「天才なら、このクイズ分かる?」


 そう言いながら、バカっぽいクイズばかりを俺に出して来た。

 バカにされてる。

 そう思って最初は反発していたが…

 それが、意外と俺を普通の奴として見てくれてる事に気付いて。


 …好きになった。




「…俺、どんな女と付き合っても、玲子の事が忘れられなかった。」


 手を差し出すと、玲子は俺をゆっくりと見上げた。


 千幸と結婚する。と聞かされたあの日。

 俺は…玲子を押し倒して…



 玲子が俺の手を取る。

 そして、ゆっくりと立ち上がって…



「あたしを信じて疑わない千幸さんを、裏切るような事はしないわ。」


 俺の唇に、人差し指を立てた。


「……」


「今日は忘れ物を届けに来たの。はい、これ。あなたのでしょ?千幸さんが、千秋が困ってたらいけないから持って行ってやってくれって。」


「……」


 俺の手を握ったまま、玲子は空いた方の手でボールペンを差し出した。

 それは…

 見た目ボールペンのボイスレーコーダー。


 俺は玲子の手を離すと、そのボールペンを受け取って部屋のドアを開ける。

 すると、玲子は小さく笑って俺の前を通り過ぎた。


「千秋。」


 ドアを閉めようとした瞬間。

 玲子が振り返る。


「…何。」


「いつまでも義理の姉に恨みを持つのはやめて、そのパワーを新しい恋に注ぎなさい?」


「……」


「あなた、普通にいい男なんだから。」


「…うるさい。」


「ふふっ。じゃあね。」


 玲子はケラケラと笑いながら手を振る。

 俺はその笑顔から視線を落としてドアを閉めた。



 ……ちくしょー……


 なんで…



 なんで千幸なんだよ…!!

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