31 神 千里の日常 -10-

「そう言えば、最近体調良くないって言ってたよな。」


 病院に行くと言った知花の背中に手を添えて、駐車場に向かう。

 いつもはチャリ通勤なんだが…今日は知花を待って、また少しドライヴでも出来れば…なんて思ってたからちょうど良かった。



「う…うん…でも…大丈夫…」


「大丈夫とか言うな。」


 助手席に座らせて、急いで運転席に回る。



 …カンナに、俺との関係をアレコレ言われた事が、そんなにストレスだったなんて。

 三日月湖に行って、ちゃんと気持ちを打ち明けた事で解決したと思ってたが…さっきもカンナの前にいるだけでオドオドしてたよな。


 …今も顔色は良くない。

 カンナへの苦手意識は相当なもんだな…。



「白井中央病院か?それとも大学病院か?」


 エンジンをかけながら問いかける。


 基本、知花は元気だ。

 知花だけじゃない。

 桐生院家はみんな元気だ。

 だからつい…それが当たり前のように思ってしまって…



「…椿つばき産婦人科…」


「そうか。椿産婦人……………」


「……」


「……えっ?」


 頭の中でもう一度…


『椿産婦人科』と繰り返す。


 産婦人科。

 それは…



「…知花…」


「…はい…」


「に…」


「まだ分からないの。分からないけど…華音かのん咲華さくかの時と同じ症状だ…って、聖子とまこちゃんに指摘されて…」


 俺が言いかけた言葉を、知花が早口で遮る。

 でも…

 椿産婦人科。

 産婦人科だろ…!?



「……に」


「だから、まだ。まだ分かんないの。」


「……分かった。でも急いで行こう。いや、安全に、ゆっくり急いで行こう。」


 自分でも何を言ってるのか…



「…まだ分かんないんだってば…」


 知花の声を聞きながら、それでも頭の中はその文字でいっぱいになっている。


 …妊娠…………妊娠!!



「く…車、出すぞ。」


「…うん。」


「右…右に曲がるからな。」


「……うん。」


「…ブレーキ踏むぞ。」


「……」


「大丈夫か?」


「……千里。」


 心配なあまり、いちいち声を掛けていると。


「大丈夫だから、普通にして?」


 知花は、何とも言えないような顔でそう言った。


「……おう。」



 普通に。

 普通にって…


 出来るかー!!



 腹の中に子供が宿るんだぞ!?

 って…

 華音と咲華の時にそばにいなかった俺が、大きなことは言えないが…

 だからこそ、大事にしたいんだ。

 絶対付きっ切りで面倒を見る!!



 それからも、超安全運転で椿産婦人科に辿り着いて。

 知花より先に車を降りて助手席側に回る。


「ゆっくり降りろよ。」


「…ありがとう。」


 ドアを開けて手を差し出すと、知花は苦笑いをしながら立ち上がった。


「でも、千里は車にいて?」


「…あ?」


「待合室に他の患者さんがいたら…色々困るから。」


「……」


 知花の言ってる事の意味が分からず、無言で瞬きをする。

 なぜ困る。


「…はっ…」


 もしや男は入っちゃいけねーのか?


 …産婦人科。

 そりゃそうだ。

 女ばかりがいる場所だ。



「わ…分かった。だが、段差に気を付」


「大丈夫だから。ちょっと行って来るね…」


「お…おう…」



 知花の姿を見送って、運転席に戻る。

 …しかし…どうも落ち着かねー…


 俺は末っ子だから…当然ながら、母親が妊婦だった時期を知らない。

 さらには、妊婦って存在が近くにいた覚えもない。


 幸太や千幸は。


『千秋の時はあまりお腹が大きくならなくて、まだまだと思ってたのに産まれて驚いた』


 とか。


『千里はせっかちだから早く産まれて来た』


 とか。


 …そんなの思い出すと、常に細心の注意を払ってやらなきゃなと思う。

 うちには華音と咲華という、何かにつけて突進してくる子供達がいるんだ。

 あいつらにもちゃんと説明して、危険は回避しなきゃな。



「……」


 そう言えば、妊婦がいたな。


 もうすぐひとみの出産予定日だ。

 妊娠報告はされたが、その後事務所でも会う事はなかったし…アズも特にそれについて話さない。

 アズの性格上、浮かれて言いふらしそうなもんだが…

 あいつは…あれだな。

 家庭環境が複雑だったから、色々複雑に思うところもあるのかもしんねーな。



「……」


 駐車場で一人、悶々としていると。

 サイドミラーに知花が映った。


「何かあったのかっ?」


 急いで車を降りて駆け寄ると。


「ううん。他に患者さんがいないから、千里が来ても大丈夫そうって。」


 そう言った知花は、笑顔。


「…いいのか?」


「え?うん。この時間、予約の患者さんいないんだって。」


「…そ…そうか…」


 行きたいと思っていたはずなのに、妙に緊張した。

 女の園…いや、神聖な場所。


「…男の俺が行ってもいいのか?」


「ふふっ。旦那さんも一緒に来る人いるよ?」


「マジか。おまえ、色々困るって言ったから、男は出入り禁止なのかと思った。」


「…もう、千里…テレビ出てる人だって自覚ある?」


「…あ…そっちか。関係ねー…あ…関係あるか。」


 そうだった。

 俺から知花の存在がバレる事だってある。

 SHE'S-HE'Sは顔出しも素性も出してないバンド。

 そこにも細心の注意を払わなきゃなんねーんだった。



「…病院のスタッフは大丈夫なのか?」


「ここの人達は大丈夫。」


「そうか…」


 知花の絶大なる信頼を得ている椿産婦人科に、足を踏み入れる。

 入った瞬間から、命を思わせるポスターに内心ビビった。



「連れてきました。」


 知花が受付でそう言うと、年配の女性がスッと顔を出して。


「ご一緒に診察室にどうぞ。」


 柔らかい笑顔で言った。


 …緊張する。

 LIVEより、レコーディングより。

 待て。

 笑顔だったんだから、きっと…いい報告だ。

 妊娠してます。って言われるのか?

 そう言われたら、俺はなんて答えたらいいんだ?


 そのシチュエーションを頭の中で展開して、言葉を選ぶ。

 まさか、ストレスでの体調不良です。って言われやしねーよな…

 それはそれで、早く元気にしてやって下さい。って言えば…

 いやいや、原因は俺だから、俺が頑張りますって…



「ご主人ですか。初めまして。」


 目の前の白衣は、白髪の女医だった。

 何も想像はしてなかったが、予想外だったのかもしれない。

 俺は少しキョトンとした後、小さく会釈をして椅子に座った。


「おめでとうございます。」


 座った途端にそう言われて、固まった。

 知花が照れくさそうに、隣で俺を見上げる。



「双子ちゃん、お元気かしら?」


「はい。もうヤンチャで…」



 知花と女医は華音と咲華の話題を始めたが…

 俺は未だ固まったまま。


 こんな時、脳内で展開したシミュレーションは、役立たない事を知った。



「うふふ。ご主人、途方に暮れてらっしゃるの?」


 女医がそう言って笑う。

 途方に暮れてる…?

 いや…これは…


「…やべー…」


 少し俯いて、額に手を当てる。


「…千里?」


「やべーよ…」


「…何が…やばいの?」


「……」


「…千里…?」


 無言で知花の頭を抱き寄せる。

 知花は少し抵抗したが、女医の『感激屋さんなのね』という言葉で、それはおとなしくなった。



「…やべーよ…言葉になんねーよ…」


 額に手を当てたまま、眉間にグッと力を入れる。

 そうしてなきゃ…泣きそうだった。


 この感情は何なんだろう。

 嬉しい…もちろん嬉しいが…それだけじゃない。


「千里…」


 ああ…これは…

 感動ってやつなんだな…


「知花…ありがとな…」


 自然とそんな言葉が浮かんで。

 女医の前だが、知花をギュッと抱きしめた。

 腕の中の知花は苦笑いだろうが…そうせずにはいられなかった。


「…さあ、ご主人。今後についてお話をするので、しっかり聞いて下さいね?」


 女医はしばらく時間をくれた後、凛とした声でそう言った。

 俺も姿勢を正して説明を聞く。


 …華音と咲華の時も、こうして居られたら…

 頭の隅っこにそんな想いも浮かんだ。

 だが、時間は戻らない。


 あの時の後悔分も含めて。



 俺は…全力で知花を守る。

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