30 桐生院知花の憂鬱 -9-

「帰るか。」


 あたしの手を持って歩き出そうとする千里。

 だけど…なぜかあたしの足は動かなくなってしまってた。


「…知花?」


「……」


「どうした?」


「……」


「…俺がカンナと話すだけでも嫌か?」


 俯いたままのあたしの顔を、覗き込むようにして千里が言った。

 その声は…少し面白くなさそうで…


「…あんな話…イヤ…」


 泣きそうな声で、そうこぼしてしまった。


「あんな話?」


 千里はあたしの肩を抱き寄せて、ロビーの隅っこにあるソファーに連れて行くと。


「ほら、座れ。」


 観葉植物に近い位置で周りから死角になるように、あたしと密着して座った。


「あんな話って、さっき言ってた『初めての相手』か?」


 膝に頬杖をついて、千里があたしを見る。


「…うん…」


「…俺は、おまえの初めてを半ば無理やりだっから…後悔してるとこもあるんだけどな。」


「……」


 千里の声を聞きながら。

 あたしは数回瞬きをした。


『中にはそれを大事にする奴もいるし…後悔してる奴もいるんじゃねーかな』


 後悔してる…って…その事?


「…千里の初めての人って…誰?」


 勇気を出して、俯いたままで問いかける。


「誰だったかなんて覚えてねーけど、随分年上の女だった気はする。中坊ん時に酔っ払った勢いで。」


「……」


 千里らしい答えにホッとしたのは…

 相手がカンナさんじゃなかったからだと思う。

 でも…


「…カンナさんとの事は…?」


「あ?」


「カンナさんの…初めての相手だ…って事は…?」


「は?カンナの初めての相手って、誰だよ。」


「……」


 …あれ?


 顔を上げて千里を見ると、頬杖をついてる顔がすぐそこにあって。


 チュッ


 勢いついでみたいに、キスされてしまった。


「こ…こんな所で…っ…」


「見えやしねーよ。」


「……」


「で?カンナの初めての相手、俺だったとか思ってんのか?」


「……」


 …え?


 つい、キョトンとして千里を見つめる。


 そう聞いた。

 でもこの反応からして、それはカンナさんの嘘…って事になる。


 千里とカンナさんは幼馴染で、寂しい幼少期を一緒に過ごした関係。

 …黒い塊を払拭したいけど…二人の関係が壊れるのを望んでるわけじゃない。



「ったく…あいつに何か吹っ掛けられたのか。」


 あたしが言いよどんでると、千里が前髪をかきあげて。


「昔から誰かの幸せを妬んだり、自分が一番じゃなきゃ気が済まない性格なんだ。それでも嘘はつかねー奴だと思ってたけど…俺の知らない間にカンナにも色々あったのかもしれねーしな。」


 溜息交じりにそう言った。


 カンナさんがそういう性格だと知ってても…突き放さなかった。

 千里は優しいな…


「でも、知花を苦しめる奴は許さねー。」


 千里は、あたしの頭を自分の胸に抱き寄せて。


「ほら、正直に話せ。あいつに何て聞いた?」


 少し…笑い交じりの声。

 何となく、少しだけ気持ちが軽くなった。


「…16の時…おじいさまのお屋敷で…って…」


 罪悪感に駆られながらも、小さな声で答える。


「あいつが16の時?」


 千里は何か考えるような間を持って。


「あー…そーいや、迫られた事があったな。」


 ニヤニヤするような声で…思い出した事を言った。


「…迫られた…」


「ああ。朝まで一緒にいたけど、手は出さなかった。」


「…朝まで一緒にいたの?」


 少しムッとして千里から離れると。


「いたな。あいつが勘弁してくれって言うまで。」


「……」


 あたしは良からぬ想像をしてるのに。

 千里は何かを思い出したのか、ただ…ニヤニヤ笑うだけ。


「とにかく、俺はあいつとは何もねーよ。だいたいあの頃ってもうおまえと出逢ってたしな。」


 もう一度頭を抱き寄せられる。


「…出逢ってたって言っても…」


 偽装結婚目当てで…


「婚約中だったからな。」


「…婚約中って…言っても…」


 何だろう…

 ムッとしたり嬉しくなったり…

 千里、ずるい。って思っちゃって、素直に喜べない。

 …あたしのこういう所…可愛くないよね…



「赤毛、まんざらじゃなかったからなー。」


「……」


 千里が、髪の毛にキスをする。

 …どうしよう…

 嬉しい。

 だけど恥ずかしい。

 顔、上げられない。


 そうこうしてると…


「…何してんの。こんなところで。」


 降って来た声にハッとして顔を上げると、聖子とまこちゃんが腕組みをして立ってた。

 あたしが慌てて千里から離れようとすると。


「邪魔すんな。」


 千里はグッとあたしを抱きしめる。


「邪魔って何。知花、神さんに言ってないの?」


「あ。」


 …そうだった。

 あたし、病院に…



「何かあったのか?」


「あ…えーと……病院に行こうかと…」


「病院?」


 首を傾げる千里を見た二人は。


「はい、神さん立って。」


 まこちゃんが千里の腕を取って。


「はい、知花も歩きながらでいいから説明して、さっさと行くのよ。」


 聖子があたし達の背中を押した。


「…何のことだ?」


 怪訝そうな顔をする千里に。


「いってらっしゃーい。」


 二人は、満面の笑みで手を振った。

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