29 桐生院知花の憂鬱 -8-
「調子悪いのか?」
ルームで机に突っ伏してると、優しい声が降って来た。
「…セン。」
久しぶりに顔を上げると眩しくて、目を細めたままセンを見る。
「ううん…大丈夫。取材終わったの?」
「ああ。今、陸が新しいギターについてを語りまくってる。」
「ふふっ。終わるのかな。」
「それ。俺は帰りたいから抜けて来た。」
「何かあるの?」
首を傾げて問いかけると。
「…ベビーベッド、買いに行くんだ。」
センは照れくさそうな、だけどこっちまで幸せになるような笑顔。
「わあ、それは早く帰らなくちゃ。」
「
「……」
「ん?」
あたしが無言になるとセンが首を傾げて、長い髪の毛がサラリと肩から落ちる。
センはいつも優しい雰囲気をまとってるけど…今の言葉でより一層センの優しさが沁みた。
世貴子さんが少しでも動きやすい間に…って配慮、素敵だなあ。
「ううん。セン、優しいなと思って。じーんとしてたとこ。」
「世貴子には過保護って言われるけどな。でも、向こうで
「え?」
「妊娠中、色々大変だったろ?俺達、もっと助けられたんじゃないかって反省ばっかしてた。」
「な…」
何言ってんの―――!?
あたしは心の中で大絶叫した。
渡米中、あたしは
メンバーのみんなには、本当に助けられた。
あの時、みんながいなかったら…あたし、何もかも諦めてたかもしれない…。
「…あたしは、みんなに…言葉では言い表せられないぐらい感謝してるよ…?」
何て言っていいか分からなくて…素直な気持ちを口にする。
するとセンは、座ったままのあたしの頭をポンポンとして。
「それはこっちのセリフ。知花が頑張ってくれたから、今の俺達があるし…子育てに関しても色々役立ちそうだ。」
そう言ってくれた。
…嬉しいな。
そんな風に思ってくれて。
帰り支度をするセンを見ながら、体を起こして机に手を置いたまま、首をコキコキと鳴らす。
…どうしたのかな。
最近、どうも調子が上がらない…
カンナさんにあれこれ言われた事で気分は落ちてたけど、千里が三日月湖に連れて行ってくれて…
…普段口にしないような事、言ってくれて。
すごく幸せだって思った。
千里との間に出来てしまってたわだかまりも、あの時全部消えたし…ストレスみたいな物は特にないはずなのに。
「あら、セン。もう帰るの?」
ルームのドアが開いて、聖子とまこちゃんが入って来た。
「ああ。出産準備。」
「あ~、早く会いたいわ~。世貴子さんによろしくね。」
「うん。じゃ、お先に。」
三人でセンに手を振って、あたしは小さく溜息を吐きながら、再び首のストレッチを始める。
「どした?知花。顔色悪いけど。」
正面に座ったまこちゃんが、頬杖をついて言った。
「んー…最近何だか体調がいまいちで…」
「肩凝り?」
聖子が背後に立って、肩を揉んでくれ…
「あはっ。やだっ。くすぐったい。」
「当たり前よ。くすぐったいようにやってるんだから。」
「もうっ。やり返しちゃうっ。えいっ。」
振り返って聖子の脇腹を攻撃すると。
「あっ、いいの~?そんな事したら押し倒しちゃうわよ?」
聖子があたしの両肩をギュッと掴んで不敵な笑みを浮かべた。
「もう、恋人同士みたいだよー?」
あたし達を見て笑うまこちゃん。
…平和だなあ…………うっ…。
「…知花?」
突然の気持ち悪さに口を押さえてしゃがみ込む。
ああ…気持ち悪い…
「…これ、あたし見た事あるんだけど…」
しゃがみ込んだままのあたしに、聖子が言った。
「…僕も…覚えがあるよ…」
「……」
それは…あたしにもあった。
二人はあたしと同じ目線になるようにしゃがみ込んで。
「知花、今日はもう終わりよね?」
「病院行った方がいいよ。一人で心細いなら、僕達付き添うし。」
早口で…そう言った。
付き添うよ。と名乗り出てくれた二人をルームに残して。
あたしは…病院に行く事にした。
本当はボイトレをしたかったけど…それどころじゃなくなった。
…もし、妊娠してたら…
千里、どんな反応するのかな。
そう思うと楽しみで、まだ分からないのに…少しだけウキウキしながらエスカレーターに乗ってると…
「……」
ロビーに、千里とカンナさんの姿が見えた。
…一気に、気分が落ちる。
…ううん。
千里はあたしを愛してるって言った。
ごめん…って、謝ってくれた。
あたしは千里を信じるだけ。
「帰るのか?」
あたしに気付いた千里が、優しい顔で歩み寄ってくれて。
それだけで…少しホッとする。
「うん…」
「じゃあ一緒に帰ろう。」
「え…?でも…」
こんなに早く帰っていいのかな。
F's、何だか忙しくなるみたいだって
あたしがそう思って千里を見上げると。
「……ねえ、ちーちゃん。質問していい?」
不意に…カンナさんがそう言いながら近付いて来た。
…別に、何でもないはずなのに。
カンナさんが怖い。
そう思って俯いてしまったあたしの肩を、千里が抱き寄せた。
…大丈夫。
うん。
あたしと千里が顔を見合わせてると…
「…『初めての相手』って、男の人とっては…どうでもいいもの?」
カンナさんは、あまり聞いた事のないような…弱々しい声で、そう言った。
「……」
初めての相手…
その言葉に、胸の奥に嫌な感情が湧いた。
…カンナさんの…初めての相手は…千里。
どうして…そんな事、千里に聞くの?
すごく嫌な気分になって、千里の胸に頭を寄せる。
「…何だ?その質問。」
千里が鼻で笑いながら答える。
「次のラジオ番組でのテーマなの。『初めて』を大事にするのは、女だけか…って。」
仕事なのは分かるけど…
だからって、その質問をあたしの前で千里にするの?
消えたはずの黒い塊が、胸の奥に広がっていくようで…キュッと唇を噛みしめる。
「……男でも、特別に思う奴もいるんじゃねーか。」
すぐ近くから聞こえて来る、大好きな声の発した言葉は。
自分にとっては大切にして欲しいと思えても、今はそう答えて欲しくないものだった。
矛盾…うん…矛盾してるあたし…
でもやっぱり…イヤだ。
「…そう。そうよね。やっぱり初めての相手って…特別なんだね。相手にとってそうじゃなくても…」
「…そんな事ねーだろ。中にはそれを大事にする奴もいるし…後悔してる奴もいるんじゃねーかな。」
何だかカンナさんと千里が、あたしには分からないように気持ちを通わせてるんじゃないか…って気になってしまって。
あたしの顔はどんどん下に向いてしまったし…気分も落ちた。
そんなあたしの様子を知ってか知らずか。
千里はあたしの頭をポンポンとする。
「……」
その何気ない行為を…どう受け止めたらいいのか分からなくて。
「…ごめん。もう…馴れ馴れしく触れたりしない…。でも、あたし達の思い出だけは…大事にしてて欲しいの…。」
あたしを試してるとしか思えない、カンナさんのその言葉に。
心が折れた。
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