第25話 感情を増やす(2)
ミユキさんが軽井沢で休養している時、主に彼女の面倒をみたのはコイケさんという女性看護師だった。ふくよかな体型で、喉が弱いのかよく咳をするので、彼女はいつもマスクをしていた。
コイケさんは1975年に、岐阜県で生まれた。
コイケさんは22歳の時に大学を卒業して、岐阜の大病院で検査技師をやっていたのだが、3年後に退職して、もう一度地元の大学に入り直して、看護師の資格を取り直したのだ。その後色んな病院や診療所を転々とした。全然長続きしなかったのだ。その後、ミユキさんの両親が経営するクリニックで働くことになり、それが1番長続きした職場になった。
コイケさんは人との距離をほどよく取れる人で、あまり目立つ人ではなかったが、コイケさんとおしゃべりにくるために通う老人もたくさんいた。老人だけではなく、若い人からもよく好かれていた。男の子からも好かれていたし、年ごとの女の子も自分の悩みを聞いてもらうためにクリニックに通っていたほどだった。
ミユキさんが生まれた時には、コイケさんはそのクリニックで働いていた。
コイケさんはよくミユキさんの面倒を見た。ミユキさんもコイケさんのことが好きだった。コイケさんはミユキさんの美しさの才能に瞬時に気づいた。コイケさんはミユキさんの両親に「この子は苦労するでしょうね」と冗談めかしてつたえたことがあった。でもミユキさんの両親はそんなことはすぐに忘れてしまった。おそらく今でも覚えていないと思う。
ミユキさんの胸に穴が空いてすぐに、コイケさんはミユキさんの母親に「私がなんとかします」と言った。軽井沢に越して治療した方がいいと提案したのもコイケさんだった。
僕が軽井沢の別荘に行く時に、コイケさんはいつもミユキさんのそばにいた。そして僕が来ると、コイケさんは決まってキッチンの方へ言って紅茶とお手製のお菓子、よく彼女はアップルパイやアップルシュトゥルーデルを作っていた、を僕に振る舞ってくれた。コイケさんはまず僕の話を聞いた。今大学はどんな調子なのか、新幹線代は負担ではないのか、ミユキさんとどんな幼少期を過ごしていたのか、ミユキさんのどういうところが好きなのか。
しばらく話をすると、コイケさんは「それじゃあ」といって、別荘内にある自室にゆっくりと行くのだ。その後姿はいつも、幾分疲れているように見えた。コイケさんは僕が軽井沢にこなければ、24時間ずっとミユキさんの面倒を見ているのではないかと思った。
僕が軽井沢で過ごせるのは、せいぜい週末の2日程度だった。長期休みに入っていたとはいえ、就職活動やバイトのために、それなりに平日には予定が入っていた。
ミユキさんは僕のことを覚えていたと思う。でも、彼女からは人間らしさ、もっというと様々な感情が抜け落ちてしまっているようだった。僕と会話するミユキさんは、もう昔のミユキさんではなかった。とても淡々としていた。今家族やコイケさんが、胸に穴のあいたミユキさんを中心にするように巡りまわっていることにはとても気づいていなかったと思う。そして僕も。
ミユキさんにとって僕は、本当の他人よりは馴染みのある数少ない人物だが、とりたてて価値を重んじるものでもない人物だったのだろうと思う。
事実、ミユキさんは僕をみた時に嫌な顔もしなかったけど、特に嬉しそうでもなかった。穴のあいたあとのミユキさんは、他人に対して強烈な拒絶反応を示すようになっていたから、まあ、それでもいいと思った。彼女にとって激しくマイナスなものしかないこの世界の中で、僕は少なくともゼロだからだ。その時の彼女にとって、母親も、コイケさんも、僕も等しくゼロなのだ。そのことはたまに僕をつらい気持ちにさせた。でも僕は逃げることもできなかったのだ。だから毎週末、なんとか予定を作って彼女のところへ行くようにしていた。
たまに、ミユキさんが少し笑顔になることもあった。僕はそれがとても嬉しかった。ミユキさんから感情が見えるだけで、僕は心の底から満たされた気持ちになれた。彼女の笑顔を見る度に、僕はコイケさんにそのことを報告した。コイケさんもそれを聞いて、いつも嬉しそうな表情を見せた。
その時は色んなものが彼女を中心にして回転していたのだ。
僕もコイケさんも、その要素の一つに過ぎなかった。ミユキさんだけが、そんなことになってるなんてことを知らなかった。
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