第13話 失語症(前)

気温は30℃を超えていたが、日本ほどの湿度はなかった。たまに吹いてくる潮風は涼しかった。


僕はパラソルの日陰の下のチェアに座って、ソシュールを読んでいた。この本は、正確にいえば、彼の授業を受講していた生徒たちによって書かれているもので、彼の言わんとしていたことが果たしてどこまで表現されているのかは分からない。


```

シーニュ = シニフィアン+シニフィエ

```

と書かれていて、そこには卵を割ったような補足イラストが書いてあった。

僕の内部体験、もしくは内発性、主意性...これはどのようなシーニュとするべきなんだろう?


「何かを厳密に定義するその度に、あなたは死に向かっている」

と沓子は言った。


「私の宗派にいる高僧は、12歳になるまでまともに日本語を覚えさせられなかった。一番神通力があるのは、その人」


僕は常に、何かを厳密に定義してきたか、といわれればそうかもしれないと答える。妹には理屈っぽいと言われ、両親からは天才と寵愛を受けた。公立の小学校に僕の居場所はなかった。中学からは幾分ましになった。


どの教科も、基本的に満点以外をとったことはなかった。

ただし、なぜか国語だけ点数がいつも悪かった。

いくつかの塾へ行ったが、それでも点数は伸びなかった。


「ディスレクシアですね。失読症と翻訳します」

と主治医は言った。母親が心配そうな表情で説明を聞いていた。


そんなはずはない。と僕は思っていた。

僕が失読症なら、周りの人間は一体なんなんだ?


*

ビーチには僕と、一組の中年のカップルしかいなかった。男はとても太っていて中東系のようだ、女は白人で、病的と思えるくらいに痩せている。

一年前に沓子と来たときにはあったビーチバーは閉まっていた。ロウ・シーズンだから当然だ。その時彼女はピニャコラーダをオーダーした。僕はハイネケンを飲んだ。


少しずつ太陽が上に登ってきたので、僕はチェアの場所をすこしずらして日差しを避けた。風が出てきて、波の音が大きくなってきていた。


僕は本を置いて軽く目をつむった。


沓子は消えた。

接触を禁じてきた謎の男。

沓子の唯一の友人の右足の無い女性。

その元恋人の死。


失読症だから何も分からないんだな。と僕は思った。


*

「大丈夫かしら?」と声をかけられて僕は目を覚ました。

もう一組のカップルの、痩せた女の方だ。

「ああ、寝てただけなのね、それなら良かったわ。気絶しているのかと思って」と女は言った。


顔にはいくつかのシミができていて、白人なのでそれは余計に目立っていた。頬が激しく痩けていた。


「どこから来たの?」

と女は言った。


「日本」

と僕は言った。


「そう、日本なのね。行ったことは無いけれど、良さそうなところよね」

と女は言った。


「ええ、4月か10月くらいに来るのがおすすめですよ」

と僕は言った。


「ちょっと座っていいかしら」

と女は言った。

あまり乗り気ではなかったが、時間もあることなので僕はもちろんと答えた。


「あなた、一人で旅行してるの?」


「ええ」


「よく旅行するの?」


「ええ、よく行きます。30カ国以上は行きました」


「それはオォオウサムね」

と女は言った。


「旦那さんもぐっすり寝ているようですね」

と僕は20m位先のパラソルの下でいびきをかきながら眠っている太った男の方を見ていった。


「ああ、彼は夫ではないの」

と女は言った。


僕はどういうこと?という表情をする。


「彼は私の息子なの」

と女は言った。


まさか、明らかに40歳くらいに見えるけれど。と僕は思った。

肉付きのいい腹に、びっしりとギャランドゥーが生えている。


「息子はホルモン異常の難病でね、今16歳なんだけど、もう中年みたいな見た目になっているの」

と女は言った。


「どうやら、普通の人の倍か3倍の早さで歳をとっていくのね。だからもう40代みたいな見た目に見える。だから、30歳まで生きれるのかどうか」

そう言うと、少し大きめのため息をついた。


「あなたはいくつ?」


「28歳です」


「素晴らしいわね」

と女は言った。


「それじゃあそろそろ戻るわね。ありがとう」

そう言って、息子のところへ向かった。そろそろ帰りそうな雰囲気だった。


このビーチ沿いにはビラ施設は一つしかないので、おそらく同じところに宿泊しているのだろう。スマホで時間を確認してみると、もう午後四時を回っていた。


まだだいぶ明るいけれど、日は傾き始めていた。

僕も荷物をまとめて、ビラへ戻った。






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