第16話 失語症(中)

翌日も、太った中年男に見える青年と、やせ細った女はビーチにいた。

男は浅瀬で泳ぎ、女はパラソルの日陰の下で本を読んでいる。


僕も持ってきた本を何冊か手元に置いて、リクライニングチェアに寝そべりながら本を読んでいた。


今日はもう何組かビーチにいるようだった。

小さな男の子と女の子を連れた家族連れもいて、4人でボールを転がして遊んでいる。とても似ている男の子と女の子だったので、双子かなと僕は思った。


潮風がとても心地よかった。

僕はいつの間にか眠ってしまった。


*

目を覚ますと、日はすでに沈んでいて、ビーチには誰も居なかった。

僕は少し焦ってすぐに辺りを見回してみたけれど、やはり誰も居なかった。波の音だけがそこに響いていた。


不意に「雨宮くん」という声が聞こえてきた。

その声の方向へ振り返ると、沓子がいた。


「懐かしいね」

と沓子が周りを見回しながら言った。

僕は黙っている。


「喋れないんでしょう」

と沓子が言う。


僕は何かを言おうとするけれど、言葉が出てこない。

沓子は少し笑う。


「ごめんなさい」

と沓子は僕に向かっていう。


何を謝っているのか、僕は分からない。


「楽しかったよね、ここの旅行」

と沓子が言って、海の方へ目をやった。


夕方から波は高くなってきて、日が殆ど沈みかけた今は、かなりの高波になっていた。

「もう私は戻ることはできない」

と沓子が言った。


「どうしてこんなことになってしまったか分かる?」

と沓子が海を見たまま言う。


「一度喪ってしまったものは、決して元ある形で取り返すことは出来ないの」

と彼女は言った。


「あなたは取り返そうとしてしまった」


僕は動悸を感じ始める。殆ど痛みのような動悸だった。


「あなたは喪うべきじゃなかったのよ、もしくは、取り返そうとしてはいけなかった」

と沓子は言った。


「取り返そうとしたから、もう一つ喪うことになった。これは心からの忠告だからよく聞いてほしい。私はあなたの元からいなくなるし、他の人や物や力というべきものは次々とあなたの元から消えていく。取り返そうとするそのたびに、きっちり、とても厳密なルールであなたは必ず喪うことになる。喪いたくないのであれば、あなたは取り戻そうとしてはいけない」


沓子は僕の顔の目の前まで自分の顔を近づける。

その瞳の中は暗く沈んでいる。


「そもそも、どうして喪いたくないの?」

と沓子が僕の、文字通り、目と鼻の先で言った。


「私、小さい時にこういう遊びをしたことがあるの」

沓子は言う。


「田んぼにね、水を引くの。田んぼの横には農業用の用水路があるの。それは雪解け水が地下から流れ出した、そのまま飲めるような、栄養満点で清潔な水なの。田んぼは稲刈りから冬を越していて、カラカラに干上がっているの。田植えをするまえに、ちゃんと田んぼに水を入れてあげなければいけない。そして、田んぼのある場所に、用水路からのせき止めの堰があって、私はその堰を開いてあげる。そうすると、田んぼに一気に水が入っていって、まるで自分まで、とても渇いていた喉が潤されていくような気分になるの」


「そして、田んぼに思い切り水を張っちゃうの、もう飲めないよ、って田んぼが言うくらい、むちゃくちゃに水を張っちゃうの。そうしていると、あぜ道から、水が溢れ始める。その時に、田んぼにもともとあった、とても肥沃な土も全部流れていってしまって、一発で田んぼはだめになってしまうの。たまにそうやってみんなにダイジにされていたものをめちゃくちゃにしたくなるの。そうして田んぼをダメにしてしまう。私は何回も同じことをして怒られた」


「今のあなたってそういう状態なんだよ。」

と沓子は言う。


「私はあなたの身体にどんどん水を入れてあげているの、とてもいい水。あなたはそのお陰で凡人には持てない感覚をもてた。たまたまあなたは広い田んぼだったから、まだ水は溢れてない。でももうそろそろ限界。あなたの身体の中にある内臓や脳みそや魂や意思や言葉は全部溢れ出して身体の外へ流れ出ていってしまう。まるで車に引かれて、そのままタイヤに潰されて内蔵を絞り出された猫の死骸のように」


沓子は口を僕の耳元に近づけて、もう一度言う。

「あなたはどうして喪いたくないの?」


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