第8話 ミラータッチ共感覚
エレベーターは35階へ到着した。廊下の角を曲がったところで、沓子はカードキーを滑らせ、ドアを開けた。
100平米はあろうかというマリオットホテルのスイートルーム。一体どこからこのお金が出ているのかは、あまり聞きたくもないので聞いていない。パトロンもあるだろうが、そもそも実家が関西で有名なある団体の本部でもあり、そこからの支援も未知数だ。
「日本でセッションを行なうのに、最も適した場所は結局ここなのよ」と沓子は言った。その点は僕も同意する。日本で、少なくとも都内で寛げる場所とは、地上から離れたところにあるのだ。
「頭痛はもういい?」と彼女は言って、僕は頷く。
「抗うつ剤も、もうやめたわね?」と彼女は言う。
「皮肉だけど、ニートになってからは一度も」と僕は言う。
「いいわ」と彼女は言う。
彼女は僕をソファへ促して座ると、化粧品ポーチを取り出した。ファスナーを開けて、リップを取り出し、本来リップが出てくるであろう場所の反対側のキャップをこじ開けた。すると、そこから6錠の白いピルが机の上に転がり落ちた。
「最初は1錠がいいと思う」と彼女は言った。
「まだ飲むとは言ってないよ。これは初めて見る、説明を先にしてくれないと」と僕は言った。
「冗談よ」と彼女は言った。
「これも今までのものと同じ、これ自体は何ら精神作用を及ぼさない。MAO阻害剤と一緒に飲まない限りは、でも、今回のものは今までと決定的に異なる部分がある」
「異なる部分」
「共感覚よ」と彼女は言った。
「これには幻覚作用は全く無いの。たまに幻覚を見たという人がいるけど、それは実は幻覚ではなく完全に開かれた共感覚なの。これは直接視床に作用する、セロトニンレセプタにも、後もう一つ重要な器官に」
そう言うと、彼女は沈黙する。
「何だい」
「まぁ、理屈はいいわ」と彼女は言うと、おもむろに机の上の錠剤を手に取って口へ運んだ。彼女は僕の目を見て手のひらでコップの動作をしたので、僕は冷蔵庫からミネラルウォーターをとって彼女に渡した。
「これはすぐに効く」と彼女は飲み込んだあとで言った。
僕も1錠それを飲み込んでみる。
「あなた、まだ私を疑ってるんでしょう」と沓子が言った。僕は黙っている。彼女はポーチから市販薬を取り出して、2錠シートから取り出して僕に渡した。MAO阻害剤、要は触媒のようなものだ。今度は僕が先に飲み、その後彼女が飲んだ。
「仕事は見つかった?」と彼女が言った。
「具体的な話は無しだ」と僕は言った。
「そうだったわね」と彼女が言った。
それから15分程経っただろうか、しばらく待ってみても、感覚は何も変わらなかった。僕が生あくびをすると、彼女は雨宮くん、と囁いた。僕は彼女の方を見た。
「これは分かる?」と言って、彼女は両手で彼女自身の首を絞めるような動きを僕に見せた。少しずつ、呼吸が浅くなっていったと思ったのも束の間で、僕は急激に窒息するような苦しみに襲われた。彼女は彼女自身の首を絞めている。その首元にはしっかりと両手の指先がめり込んでいて、喉に数本の深い皺を描いていた。眼の前が少しずつ暗くなってくる、僕はその時にはもはや平静を装うことができず、大声でやめろ、と叫ぼうとする。しかし、声にはならず、身動きもとれない。僕は右腕を拳にして机を思い切り叩いた。
その瞬間、呼吸が楽になった。彼女が彼女自身の首を絞めるのをやめたのだ。
「ミラータッチ共感覚」と彼女は言った。
「でも、私は首を絞める振りしかしていない、ちゃんと呼吸はできている」
僕は床に手をついてむせている。まだ頭がはっきりしない。
「これは見ている側の感覚の方が増幅される」
彼女は苦しんでいる僕を見おろしてそう言った。微笑していた。流れはまだいい方向に向かっていないようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます