第7話 無音のテレビを見る男

沓子はクリーム色のニットの上にブラウンのロングコートを纏い、両ポケットに手を突っ込んでこちらへ歩いてきた。身長は160センチほどだが、伸びた背筋とその立ち居振るまいは、それよりもずっと身長が高いように思わせるものだった。


「また頭が痛いのね?」と沓子は言い、僕は頷いた。


沓子はカバンの中から真紅のピルケースを取り出し、そこから2錠の薬を差し出した。僕はそれを受け取ると、口の中に放り込んで噛み砕いて飲み込んだ。苦い味がした。


「無音テレビの男の話をしたことはあったかしら」と、沓子は言った。


「いや、初めて聞いたな」と僕は言った。


「サンフランシスコに住んでいた時、通勤する時にいつもデパートのショウウィンドウの中にある大きな液晶テレビを見ている男がいたの。マーケット・ストリートの上の方ね。その男はいつもテレビを見ていて、なぜかテレビに写っているのはFOXかカートゥーンのどちらかなの。あるいは毎日切り替えていたのかもしれない。ある時、ふいに私はその男が気になり初めて、私は毎日その男を観察することにしたの」


「その時は冬だった、男は白人でいつもヨレヨレの黒いコートを来てた。おそらく40~50くらい。とても太っている男だった。でも、リュックや靴を見る限り浮浪者ではなく、おそらくどこかできちんと働いているだろう男だろうと思った。彼は休日にはそこにはいなくて、平日の10時にはいつもそこにいた。観察しているうちにいくつか気づいたことがある。まず第一にそのTVはショーウィンドウの中にあるので、外から見ても音は全く聞こえなかった。それでも男はいつも食い入るようにそのTVを見ていた。そして、10時半に必ずそこを後にする。いつも左足を少しだけ引きずって歩いていた」


「だから、彼は自宅にテレビを持っていなくて、朝のニュースを見たくて来ているんじゃないかと思った。でもカートゥーンが流れている時もTVを見ていた理由は分からなかった。その場所に来てTVを見るということが彼のルーチンだったのかもしれないと思った。街がクリスマスの様相に変わり始めた12月も下旬のある日、その男はそこには居なかった。それは私が彼を観察してからの3ヶ月間で初めてのことだった。何故だろうと思ってショーウィンドウのあたりに近づいてみると、そのデパートのショーウィンドウの中身がコートやらジュエリーやらに変わっていたの」


「クリスマスが終わると、ショーウィンドウの中にはまた大きな液晶テレビが置かれた。でも、それからしばらく経っても、男はそこには来なかった。春になるまで私はそのショーウィンドウの前を観察していたけど、結局男は二度と現れなかった。そして私はサンフランシスコでの仕事も終えて、日本に帰ってくることになった」


「私は帰国して、広尾にマンションを借りてそこに住んでいた。そうしたら、私は広尾の商店街にある小さな電気屋さんの前で突っ立っている男がいるのを発見したの。男はやはり40~50くらいだったけれども痩せていてむしろ筋肉質な男だった。格好を見る限り、ホワイトカラーという感じではないけれど、ちゃんと働いているだろう人だった。私はその男が去った後にその場所へ行くと、そこには無音のTVがあった。NHKが流されていた」


「『それな、そこから動かすなって言われてるんだよ』と、電気屋の店主が私に話しかけてきた。『どういうことですか?』と私がいうと、『とにかくそこから動かさないでここに置いておいてくれ、TVも無音のままでNHKを流してくれって言うんだ。そして彼は定価の10倍の金を俺に払ったんだ。だからそれは売れないんだ』と店主は答えた」


「それで?」と僕は言った。


「それだけよ、その男は今朝も広尾の電気屋さんでTVを見ていたんだとと思う」と沓子が言った。


今ひとつ要領を得ない話だなと僕は思った。そしてその話が終わるころには頭痛は大分ましなものになっていた。


「私にもよく分からないけど、サンフランシスコの男は、その配置のそのテレビじゃないとダメだったのよ。そしてサンフランシスコの男はきっとそれが消えてしまった時、ものすごく寂しかったんじゃないかって思うの。一見元通りになったように見えても、彼にとって重要な何かが変わってしまった、もしくは損なわれてしまったんだと思う。私は一日中そんな事を考えてしまったの」


下らない話なんだけど、と言って沓子は少し笑った。


「じゃあ行きましょうか」と沓子が言ってエレベータホールの方へスタスタと歩いていったので、僕は後ろから付いていった。

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