第11話 紆曲(前)
「私がその方について説明できることは、それほど多くありません。付き合いは一年ほどでしたし、電話で言ったようにその方はもう死んでしまっているからです」
と、秋篠さんは先に断った。
「彼がなぜ、どのように死んでしまったのか、そこには私に分かることと、まだ分かっていないことがありました。わかっていないことについて、それは彼が死んでから今まで、ずっと謎のままでした。でもちょうどこの前、私は偶然に彼がどのように死んだのかを知りました。そして、昨日、突然あなたが彼のことについて聞きたいと言って来たので、正直いうと、すこし驚きました」
彼女は言葉を選ぶように、丁寧に言った。
「順を追って説明します」
そういうと秋篠さんはしばらく黙った。
彼女は1分ほど窓の外を眺めていた。僕もそれに合わせて外の景色を眺めていた。窓は空いており、風が来るたびに白いレースのカーテンが揺れた。店内にBGMはなかった、ただ食器の音と、暇そうな店員同士の話し声が聞こえた。外からは波の音と、遠くから車の通り過ぎる音と、踏切の音が聞こえてきた。
「ここは地元を思い出すから好きなんです」
と秋篠さんは言った。
「でも、ここは沖縄ほど暑くありませんよ」
と僕は言った。彼女は静かな瞳で頷いて、少し微笑んだ。
「七里ヶ浜の名前の由来をご存知ですか?」
と秋篠さんが言った。僕は黙って首を横に振った。
「小動岬(こゆるぎみさき)から稲村ガ崎までに七里あるということで、そこからきているらしいのです。かつて、町(ちょう)という単位があり、それはおよそ110メートルです。
一里といえば本来4キロメートルですが、鎌倉時代には6町を1里として測っていたらしいです。それにしても7里分はありません。この場合の七里は4620メートルを意味しますが、実際には3000メートルほどです。五か六里々浜というべきでしょう」
彼女はまるでクラス全員の前で教科書を読んでいるかのようにそう説明した。
「こちらに越してきたときに色々調べてみたのです。そして、どうやらこれは結界ではないかということでした」
「結界?」
僕は少しおどろいて聞き返した。
「はい、密教に”七里結界"という魔や障り(さわり)などへの結界を張る術があります。七里四方に境界を作るもので、これは鶴岡八幡宮から裏鬼門にあたる南西方向ににある腰越の間の距離ではないか、ということなのです。
距離にして6kmほどです。それを『浜七里』と呼んだらしいのです。しかし、いくら調べてみても、この『浜七里』と記述された実際の過去の文献は見つかりませんでした。鬼門である北東側には実際に野七里という地名が現存するのですが、これは距離にして3kmほどしかありません。仮にこの野七里までの6kmを、なんらかの理由で七里と呼んでいたのだとしても、3kmの浜七里とは符合しません」
「なるほど」
と僕は言った。
彼女のグラスが空になっていたので、僕はウエイトレスを呼んで注いでもらった。
彼女は軽くお辞儀をしてから水を飲んだ。
「そういうどうでも良いことが気になってしまうんですよ」
と彼女は言った。
「気持ちは分かりますよ」
と僕は言った。
「そのあとすこしバタバタしていまして、しばらく七里ヶ浜の名前の由来のことは忘れていました。越してきて半年、いまから半年前に、ちょっとした用事があって、私は小動岬の方へ行きました。
用事を済ませて自宅へ帰ろうとしたときに、ふと、『七里ヶ浜の海岸線を実際に歩いてみようかな』と思いつきました。3kmほどですから、砂浜とはいえ、十分歩いて帰れると思いました。
4月だったのですが、まるで真夏のように暑い真昼のことでした。砂浜からの照り返しもとても強くて、日焼け止めを塗っているとはいえ、これは焼けてしまうな、と覚悟しました。私はとぼとぼと海岸線に沿って砂浜を歩きはじめました。
海岸には人はいませんでした。普段ならだれかしらは散歩でもしているはずなのに、その日は本当に誰もいませんでした。」
彼女はもう一度グラスに手を伸ばして水を飲み干した。
「私はしばらく歩いていました。波の音だけが響いていて、日差しがとてもつらかった。そして、しばらく歩いているうちにあることに気づきました。歩いても歩いても、風景が変わらないのです。そして、歩くたびに、砂浜を踏みしめるたびに、私の両足が信じられないくらいに重くなっていきました。
最初は『熱射病かな、これはやばいな。』と思いました。意識がどんどん遠のいて行きました。視界がどんどん真っ白に飛んでいって、波の音が信じられないくらいの大音量に聞こえてきたので、私は両手で耳を塞ぎました。私は恐ろしくなって、大声を出して助けを呼ぼうとしました。でも声は出ませんでした。
喉に何かが詰まっているようでした。
頭の中では大声を叫んでいるつもりなのに、唇からはなにも出てきませんでした。正直、このまま死んでしまうのではないかと思いました。
こめかみから汗が滴り落ちて、もう私は呼吸も止まっていました。
そして、意識が遠のいて、視界が完全に白くなったと思った瞬間に、私は大きく呼吸をしました。正確には、吸うことはできず、ただ息を吐きました。
胸につっかえていたなにか大きい塊が出ていくようでした。その後にやっと、楽に呼吸できるようになりました。
波の音が少しずつ小さくなって、ぼんやりしていた視界もはっきりしてきました。私はすぐに国道のほうへ戻って、タクシーを拾って自宅へ帰りました。」
彼女はそこまで話して、大きく息をついた。
僕は自分まで息苦しいような気分になっていた。「ミラータッチ共感覚」という声が頭の中にこだました。
「自宅に帰って、私はすぐに意識が遠のいていきました。なんとかベッドまで来て、そのまま倒れ込んでしばらく寝ました。起きたとき、もう翌日の午後4時でした。外から入る光の色でそう思ったのですが、時計をみるとやはりその時間でした。
頭は混乱していましたが、その時になぜ七里ヶ浜と呼ばれるのか、その問いに対する答えがぽんと出てきました。それは現世とあちらがわの狭間で七曲りする浜だったのではないかと。異界とこちらがわに引かれた海岸線だったのではないかと。
私は境界の向こうへ行ってしまったのでした。そこからなんとか帰ってきたけれど、見ての通り、私は身体の一部を喪ってしまいました」
彼女はそう言って、車椅子の上に置いてある右膝に振れた。
「雨宮さん」
と彼女は言った。
「はい」
と僕は言った。
「彼の話でしたね」
と彼女は言った。
僕は頷いた。
そのとき、風の音も、店員の声も、食器の当たる音も、一瞬すべての音が止んだ。
波の音だけが、変わらずに窓の外で響いていた。
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