第10話 今この瞬間も君が鮮明に見えている

原田さんから飲みに行こうと声を掛けられたが、僕は断った。ニートと起業家が並んだところで女子大生は混乱するだけだ。それに、これ以上嫉妬の気分でいるのは、本格的に気が滅入る。


「坂木は行くのか?」

と僕は言った。


「お前も30分くらいなら顔出せるだろ」

と坂木は言った。


「そうだな、あの子が来るなら行くよ。恐らく来ない」

僕はそう言って、教室の前の方で文明塾の教授と話している女子大生を指さした。


「黒髪で背は小さく、内向的そうな女の子。おそらく東京出身、育ちは悪くないけれど、内部生ではない。勉強熱心だけど、どこか苦労人な性分を持ち合わせている。お前の好きなタイプの童顔だ」

と坂木は言った。


「悪くない分析だと思うけど、そうやってすぐに人を判定する癖、やめたほうがいいよ」

と僕は言った。


「それじゃあちょっと声かけてみようかな」と言って、坂木は女の子の方へ歩いていった。


女の子を口説いている坂木を遠目に見ていると、携帯に着信が入った。

沓子からだ。


「もしもし」


沈黙。


「もしもし、沓子?」

僕はもう一度言った。


「雨宮くんだね」

電話の向こうから、男の声がした。


沈黙。


誰だこいつは?沓子の彼氏かパトロンかもしれない。だとすれば、僕たちの関係を知って、僕に電話をかけている?それも沓子の携帯から。面倒なことになりそうだ。


「雨宮くんなんだろう?もう分かっている。返事を聞かせてほしいな」

と男は言った。落ち着いた声だ。そんなに年ではない、30代から40代前半。声は非常にクリアに聞こえてくる。防音室のような、ひどく静かな部屋で喋っているようだった。


「よろしい。それでは、最後まで私の言うことをよく聞きなさい。それなら出来るね?でないとあまりよくないことになる」

こういう喋り方に、僕は覚えがある。ベテランの検察官だ。


「今後、沓子と連絡をとることはもう辞めてくれないか。早い話が、もう二度と会ってはいけないし、口を聞いてもいけない、沓子と意思伝達をしてはいけない。分かるね?」


僕は黙っている。静かだけれど、じわじわと人を壁に追い詰めるような声。そう、威圧的な声だ。こいつは僕を威嚇している。


「私は、君が毎週沓子と会って、ホテルのスイートルームで2人きりで何をしているのかをよく知っている。君がどこでどのような少年時代を過ごし、どの大学へ行って、いくつかの不幸を経験し、弁護士を辞め、そんな君が人生の中でどんな過ちを犯してきたのかも知っている。私には今この瞬間も君が鮮明に見えている」


坂木が女の子の肩に手を置きながら、僕に向かって手を振っている。僕は携帯を耳に当てたまま、動くことができない。それに反応することができない。


「私は君を社会的に陥れることができる。君は自分のしていることが刑法の構成要件には当てはまらないと確信している。でもそんな確信が何のあてにもならないことも、君はよく理解している。君は少しやりすぎているんだよ。君は沓子にとても悪い影響を及ぼしている。このままだと、私にとっても沓子にとっても不都合なことになる」


「あなたは誰ですか?」

と僕は言った。あくまで丁重な声色で。


「雨宮くんにしては、切れ味の悪い問いだ」と男は言った。


「君はいつも、肝心なときに切れ味が悪い」


僕はいつも、肝心なときに切れ味が悪い?


「僕の何を知っているのか分かりませんが、突然そんなことを言われても、従う義理がありませんね」

と僕は言った。


少し沈黙した後に、男は言う。


「よろしい、1つだけ質問に答えよう。正直に答えよう。そのかわり、雨宮くんにも私の言うことに従ってもらう。いいかな?」


僕はしばらく考える。違う。僕はこの時点で、この男の術中にはまっている。この男は僕に暗示をかけている、権威的に他人の気持ちを追い詰めて、突然譲歩した風に振る舞う。検察の常套手段じゃないか。


僕は何も言わずに電話を切った。受話器を耳から話す瞬間に、低いため息が漏れ聞こえてきた気がした。


電話を切ってしまうと、そこには静寂しかなかった。周りを見渡すと、教室にはもう誰も残っていなかった。1分程度会話したつもりが、僕は10数分も彼と会話をしていたようだった。誰もいない教室で、蛍光灯は煌々と長机を照らしていた。その光が僕の眼前いっぱいに反射して、そしてその光は揺蕩ゐながら僕に迫ってきた。俄に僕はひどい偏頭痛に襲われ、急いでトイレへ駆け込んで嘔吐した。

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