第2話 一つの感覚の刺激によって、別の知覚が不随意に起こる
「最近、一つの感覚の刺激によって、別の知覚が不随意に起こる現象に執着する若者の将来を案じているんだ」
丸い眼鏡をかけた男がそう言った。痩せ型で、年は三十半ばくらいか。少し神経質そうな風貌である。
「ごめん、どういうこと?」
男の目の前で紅茶を飲んでいた若い女が聞き返す。
「共感覚だよ」
男は早口でそう言う。
「ある一つの感覚が、他の感覚を呼び覚ます。それを共感覚という」
「ああ、あの数字に色が見えるっていう話ね」
「その通り」
男は少し興奮気味で応える。自分で自分を宥めるかのように、男も一口コーヒーを飲む。
「で、その共感覚に執着している人がいるのね?」
「順を追って説明すると、」
男はそう言ってコーヒーカップを置く。彼はいつも、物事の説明の順番というものにあまり気を遣わない。
「彼はまだ大学生のうちに、弁護士資格を取った。新司法試験だから、それほど珍しいことでもないし、近頃は倍率も高くはない。ただ一つ奇妙なことがある。彼は何も全く勉強せずに試験に臨み、そして合格したんだ」
「いくらなんでも、そんなことはありえないわよ。予備校に行ってなかったってことでしょ?授業には出てたんじゃないの?」
「それが、そうでもないらしい。まあ、卒業のためにどうしても必要な時、例えば試験や出席の確認がある時、そういう時は出ていただろう。でも彼は法律の勉強は1分たりともしていないというんだ」
「ふうん、でも、たまにそういう事吹かす人っているわよ。『芥川賞取った小説は処女作でした』みたいなね」
「僕はその話を本人から直接聞いたんだけど、どうやらその通りらしいなと感じた。彼は小学生に上がる前に三角関数をマスターして、小学生の時には線形代数をマスターして、高校生の時には数学オリンピックにも出た」
「なんだかやな奴ね」
「そんな彼にとっては、弁護士資格を取るのは因数分解をするより簡単だったんだ。でもそれだけでは理屈が通らない、司法試験は頭がいいからといってどうにかなるものでもない。判例解釈についてはどうする?最新の手続き法についてなぜ答えられる?そんな知識まで彼の頭の中にプリ・インストールされているなんてことはありえないんだ」
「だったら、どう受かるのよ」
「だから奇妙なんだ。そして、問題はそこじゃない」
だったら早く本題に入りなさいよ、と言いたげな女の顔。
「彼は大学を卒業して、弁護士事務所に入った。四大事務所のうちの一つだ。オファーの金額も相当なものだった。だけど彼は6ヶ月ほど勤めて、そして突然事務所を辞めてしまった」
「変わってるのね」
「それも、何の事務的な手続きもなく、文字通り突然事務所に来なくなってしまったんだ。いなくなる前日も、彼はいつものような調子だった。彼は出勤してすぐに家事調停の案件をこなし、立川で接見要望に応え、事務所に戻ると自分の案件について丁寧に上司に進捗報告して、几帳面に整理して書類を机に置いて事務所を出た」
「翌々日になっても彼が出勤しなかったので、事務所の上司は彼の借りてたマンションを訪ねた。鍵は開いていた。彼は当然そこにはいなかった。部屋の様子はといえば、あらゆる生活物がそのままに置かれていて、すぐにでも彼が帰ってくるんじゃないかと誰もが思った。まるで、部屋でくつろいでいる彼が、忽然と姿を消したとしか思えなかった。だから、仕事が嫌になって、どこかへ放蕩してしまっただけだと同僚は思った。でも、彼は2週間以上音信不通となり、とうとう彼の両親から捜索願いまで出された。そして、後になってわかったことだけど、彼は最後に事務所から出て帰ったその脚で、成田空港へ行き、サンフランシスコに向かっていたらしいんだ」
「サンフランシスコ?」
「そう、サンフランシスコ」
男は言う。
「そして、彼の『消滅』に関しては、更に奇妙な点がいくつかあった」
「奇妙なことがよく起こるひとなのね」
「上司が彼の部屋に入ったときには、彼は自分の部屋ではなく、サンフランシスコにいた」
「そういうことになるわね」
「キッチンダイニングの机の上には、お茶碗一杯分のご飯が盛り付けられていたんだ」
「それのどこがおかしいの?まあ、おかしいといえばおかしいわね。でも、変わった人なんだし、ご飯を机の上に置いたあとに家出する気分になったのかもしれないでしょ」
男は「そうじゃないんだ」とでも言いたげに静かに首を振る。
「そのご飯からは湯気が立っていたらしいんだ。まるでついさっき盛り付けられたかのように」
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