第3話 流れが悪い

「流れが悪い」と、僕は東京駅八重洲口を出た時に思った。最近は日が短いし、空は曇っているので、まだ午後4時なのに辺りはすでに仄暗い。八重洲口はいつも不思議と突き刺すように冷えた風が吹く。だから冬の八重洲口はあまり好きではない。


そして、低気圧だ。低気圧は偏頭痛を誘発する。偏頭痛は薬を飲むタイミングが重要で、早すぎても遅すぎても良くない。痛みがエンジンを踏んで急発進しようとする正にそのタイミングで薬を飲まなければならない。そして僕が薬を飲んだタイミングは、車が完璧に発進してギアセカンドあたりに入ったあたりだった。


つまり完全に手遅れだった。痛みは少しずつ増してきている。そしてわずかばかりの嘔吐の予感も。


新丸ビルのあたりには、仕事を終えたらしい(彼女達がどのような働き方をしているのかを全く知らないので、おそらく仕事を終えたらしい)若いOLが連れだって歩いていた。妹によく似たOLが居て、一瞬妹かと思ったけれど、別人だった。妹もこの辺りで戦略コンサルタントをしていたはずだ。


「お兄ちゃん、正直に言って、私あの人にはもう会いたくない」と妹は言った。沓子と3人で銀座でランチをした帰りだった。


「なにか気に入らないことがあったの?楽しそうによく喋ってたじゃないか」


女性というのは、機嫌よく話したあとでもこうやって手のひらを返す、もうちょっと態度に出すとか、言いたいことがあるのなら直接言えばいいだろうと思うけど、もちろんそんなことは妹には言わない。


「すべてが気に入らないわ。髪型も化粧も香水の匂いも服のセンスも靴も喋り方も、もう全部ダメ」


「君はいつも他人への好き嫌いというものが極端すぎるんだよ。小学生の時からそういうことを言っていたじゃないか。だれだれちゃんのことが大嫌いだから学校へ行きたくないとか」


「そういう話じゃない」


「いや、そういう話だよ。君はいつも物事への判断というのがあまりにも早すぎるんだ。現実はそんなに単純じゃない。見えているものや、今すぐ解釈できるものが実態のすべてとは限らない。それに、いま君が指摘した点も全部表面的な要素でしかない」


妹はやれやれという感じでため息をついてから言う。


「お兄ちゃん、そういう話じゃないの。確かに私はいろんな物事に関して少々性急に判断したがるかもしれない。でもあの人に関しては違う」


「沓子」と僕は言う。


「その名前も嫌」と妹は言った。


「まあ、『彼女』は少しプライドが高いから、そういうのが君を嫌な気分にさせたのかもしれないけど、そんなに早く決めつけないでくれよ。また会うかもしれないんだから」


「私はもう二度と会わない」


「少しは大人になれよ」


「私はもう十分一人の成熟した大人よ。少なくともお兄ちゃんよりはね。私はちゃんと働いている。それもとおっても激務なの。実家に毎月学費だって返してる。お兄ちゃんはどうなの?仕事、見つかったの?」


「その話は関係ないだろ」と僕は言う。やれやれ。ニートはこういうときに突然立場が悪くなるから良くない。


「どうだろう、僕は君がやっているコンサルタントとかいう商売もよくわからないね。僕も一度相手をしたことがある。自治体と一緒のプロジェクトだった。僕に言わせれば奴らはペテンだ。最初から分かっているようなことをダラダラと大量の資料にする。しかも紙だ。第一プロジェクトの規模に対して妙に頭数が多い。そして驚くほど無駄な仕事を作り出して、それを自食する。その時の民間のコンサルタントから僕がなんて言われたのか知ってるかい?」


「知るわけ無いでしょ」


「弁護士はこういう時に楽でいいですね、と言ったんだ。冗談じゃない。僕に言わせれば何の専門性もないくせに無駄な資料ばかり作って金をせしめるやつの方が『楽でいいですね』という感じだ」


「中にはそういうのもあるかもしれないけど、私のところは違う。お兄ちゃんこそ性急にコンサルタントというものを判断しすぎなのよ。まともな人もいればまともじゃない人もいる、弁護士も、医師も、まともな人もいればまともじゃない人がいる」


まともな弁護士、というものを僕は少し想像してみるけれど、うまく思い浮かべることが出来ない。


「じゃあなんで沓子はだめなんだい」


「お兄ちゃん、まさかあの人がタイプとか言い出さないわよね。ガールフレンドの方はどうしたの?ガールフレンドはあの人の存在を知っているの?」


「もちろん、知らない」


「お兄ちゃんはそういうところがダメなのよ。ニートのくせにいろんな女をたらしこんで。私、あの慶應生のガールフレンドは好きよ。お兄ちゃんにしては、まともな人を恋人にするんだなって、初めて会った時に本当にお兄ちゃんのこと見直したんだから。でもあの人はダメ。とにかくダメなの」


僕は何度か妹と沓子を引き合わせようと努力したが、妹は宣言通りその後二度と沓子と会うことはなかった。


妹の話を沓子にすると、「私の何が気に入らなかったのかしら」と、沓子は残念そうに言った。硬く冷たい鉄の塊のような横顔だった。


もうすぐ約束の時間だが、頭痛はより一層激しくなっている。


「流れが悪い」と僕はつぶやいた。いつもは彼女に会いたいのに、今日はこのまま沓子が待ち合わせに来なければいいのにと思った。しかしいつものように、沓子は時間どおりにやってきた。


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