第3話進みは遅く焦りは募る

「ツァガナ君、そこの調味料とって。ああ、液体じゃなくて粉末の、そうそれそれ」


長閑な朝。夏の終わりがすぐそこまで迫り、肌寒いそよ風が吹く、日の出間もない頃。

牧場の端に作られた手狭な一軒家の中で、俺とカタハテはテーブルで向かい合い、見栄などなくなった男料理らしい朝食をとっていた。

俺がカタハテの元へと来て2週間ほど経ち、もう遠慮も警戒もなくなり、かなり会話を交わすようになっていた。


「それ激辛スパイスかなんかじゃなかったですか?」


「いいのいいの。この刺激がねー、最高のアクセントなんだよ」


「いや、痛覚がバグってんじゃないかと思うんすけど」


カタハテは俺が手渡した調味料を、炒め物を乗せたトーストに躊躇なく振り掛けると、それを2、3口で食べきって見せた。

その様子にげぇーっと顔を顰める此方など気にもせず、カタハテは食べ終わった朝食の皿を台所に突っ込むと、まだ食事をしている俺の前に座り直して口を開いた。


「それでもう少しで2週間になるけど、やっててどうだい?」


其の言葉に俺は気まずそうに目を逸らした。 齧っていたトーストをゆっくり咀嚼して思考の時間を稼ぐと、手に持ったパンを皿において、「あゝー」と歯切れの悪い返事を返した。


「騎翼走のことですよね。順調では、ないっすね全く。というかカタハテさん結構練習見てますよね?わざわざ聞きます?」


「コーチたる者ちゃんと選手を喋って状況把握しないとね」


まぁ言っている事は正しいけど、と俺は思う。状況の把握は正しく正確に行うべきであるのは確かだった。だから「あまり口に出したくない事をわざわざ口に出して確認させるあたりが“担任”の友人らしい」と内心で愚痴を吐いた。


「走る方はそこそこいいです。腐ってもナムルマティアですから、有翼人種:ユーフェマティアに遅れは取りません。けど.....ただぁあ?」


「ただ?」とニコニコと表情を固定したカタハテがその先を促した。


「エンジとの感情共有がダメで一切進展がない、です。あと競技トラックの終わりから“空に飛び出して空中で猛禽馬に騎乗する”所とかが限りなく上手く行ってません。そもそも翼がないので空中姿勢が制御できません」


「そうだよねぇ」とカタハテは伸びをするように背もたれに身体を預けた。悩ましそうなけれど楽しそうな表情でウンウン唸るって、頭を掻いていた。

その間、俺は申し訳なさそうに背筋を丸めたままそそくさと朝食を取っていた。


「飛び出しと騎乗はとりあえず置いておこうか。確かに騎翼走の要ではあるけど、私自身成功率低いからアドバイス出来ないし。そこら辺は追い追い。猛禽馬と感情共有出来てない方がよっぽど不味いからね。食べ終わったみたいだしこれはエンジを交えて喋ろうか」


俺が食器を片付けようとしているのを見て、カタハテは外骨格の駆動音を響かせ椅子から立ち上がりながらそう言った。


外出の準備を終え、カタハテに連なって玄関をくぐる。

その時ふとカタハテの背中が目に付いた。その時俺は特に何も考えず、感じた違和感を口に出した。


「あれ、カタハテさん。翼ないですよね。でも座学で騎翼走って源流はユーフェマティアの伝統競技で競技人口はユーフェマティアに偏ってるって」


「んー確かに翼はないし私はユーフェマティアでもないね」


「じゃあ何人種何ですか?」


「内緒。何人種なんて気にしなくてもいいだろう?謂うなれば君と似た運命を辿って、騎翼走に関わってるかな?」


「あ、ぃやっそう、なんですか」


カタハテは此方を振り返る様に顔を傾けて不敵に笑った。不躾な事を聞いてしまったか、と俺は気まずそうな何とも言えない表情をした。

其れと同時に再度違和感が湧いた。カタハテに出会った時のように、彼の不敵な笑みに、誰かの面影を、仄かな懐かしさを、また感じたのだった。




空は青空が取って代わり、心地のいい快晴が頭上を覆っている。朝焼けと青空が地平線から僅かな範囲だけで混ざり合い、薄緑の帯を描いている。

星彩を覆う、陽炎のように揺らめく、内圧調整用ドームに沿って細切れの雲が流れていた。

カタハテと共に、エンジのいる小屋を目指して、木製の柵に挟まれた牧場の細道を行く。その途中、頭上を行くいくつかの影に反応して、俺は空を見上げた。


「あぁー、やってんなー」


「あの方角から来たってことはエルフォルト家系列の子達かな」


俺につられてカタハテも空を仰ぐと、何処か苦そうな顔をしてそう言った。


「エルフォルト家っていうとユーフェマティアの有力家でしたっけ」


「そうそう、騎翼走の強豪を多数輩出する伝統ある家系だよ。星彩が築かれたこの浮遊大陸の欠けらだって本来はエルフォルト家を中心とする十数家の統治圏だったらしくてね。州国家が併合する際にかなり揉めたらしいよ」


「ふーん、カタハテさんがこんな牧場持ってるのってエルフォルト家とコネでもあったんですか?」


「いやそんなそんな。寧ろ少し疎まれてるかな?あ、ここ、ユーフェマティアの共同牧場なんだけどね。州外の猛禽馬保護を名目に使用権を譲ってもらったから。それ以外にもなぁんか印象悪かったみたいでーーー」


歯止めを失い、ふやけた顔でつらつらと不満を語り出すカタハテ。

それに俺はうわの空な相槌を打ちながら、「長くなりそうだなぁ」とカタハテから受けた座学の内容を思い出しはじめた。



ユーフェマティア、別名有翼人種は州国家建国の立ち会った最古の天然人種の一種だった。

姿は所謂“普通の人間”の背中に2m弱の翼を接着しただけの様に見える。

外見上は肋骨の中央部も胸筋も人間相応の発達しかしておらず、肩甲骨も腕の可動に関連するだけしかないが、それでも彼らは翼を羽ばたかせ、飛翔する事が出来る。

何故なら彼らもナムルマティアと同様、体内を希釈し、物理的要素を曖昧にする人種なのだ。胸部全体を希釈して、内部空間を押し広げ、干渉し合うはずの骨格を問題なく可動できるようにし、筋力の単位面積当たりの力量を引き上げ、身体にかかる重力を軽減して。

天然人種らしく、後発の人工種族より多用で多彩な希釈をしてみせる。


そう、天然人種と表現する様に、ナムルマティアの様な人工人種とは全く以って起源が異なる。

彼らは、自然と生まれた人種なのだ。人工人種のように特有の技能を強要され、絶滅から怯え逃げ惑う様に代を重ねた訳ではない。

自然に誕生し、自らの意思で希釈を用いて、独自の文化を育み、国を築き、迫害にも抵抗し、独立を保ち。

そうした歴史を重ねた天然人種は、良く精神的にも肉体的にも成熟した人種であった。

特に旧人類の絶滅寸前の大減少以後、その自らの翼を以って、最も早く浮遊大陸に到達したユーフェマティアは、文化の点でも天然人種を代表する豊かさを獲得していた。

浮遊大陸の固有の巨樹である気流樹を利用した空中通路や、巨樹の花弁を用いた装飾品、耐寒と希薄な空気に適応するように作られた民族衣装、と数え始めれば切りが無い。

其れでも、敢えて今特筆するべきは、騎翼走についてだろう。


騎翼走は走者1人、猛禽馬1頭のペアで行われる、速さを競う競技だ。此の競技は浮遊大陸片の外周に作られたスタジアムで行われる。

走者はスタジアム内の障害物のあるコースから、猛禽馬はスタジアム下、つまり空中にバルーンで作られた回廊から、両者同時にスタートする。

走者のコースは、スタート地点より300mで猛禽馬側のコースの上10mに到達し、其処で断裂している形になっている。謂わば飛び込み台の様になっており、走者は其の断裂地点から空に身を投げ、下方を通り過ぎるはずの猛禽馬に騎乗するのだ。

騎乗が出来たならば、其処からは全長1.5kmの空中コースに沿って飛翔しゴールとなる。


騎翼走が此の様な奇怪なルールになっているのは、其の源流がユーフェマティアの狩猟技術から来ているからだろう。

其れ故に、競技内容としては、よく言えばユーフェマティアらしい、悪く言えば他人種は難しいものになっていた。

ツァガナが不利な点は幾つかあったが、共通して障害となる、核のような課題があった。

其れは猛禽馬との“感情共有”が他人種には難しい事だった。


感情共有が何かと言えば、“装備”を介さない意識体の一体化行為であり、テレパシーと猛禽馬への幻想供給の手段だった。

此れが出来なければ、パートナーたる猛禽馬とのコミュニケーションも叶わず、何より、猛禽馬がコースを走り切ることが出来ない。

と、言うのも、猛禽馬は頗る燃費が悪いのだ。

猛禽馬はナムルマティアやユーフェマティア同様、体内を希釈して飛行能力を獲得した、半幻想生物と呼ばれる動物である。

其の為、飛行する際には必然と幻想が必要不可欠になるのだが、猛禽馬の幻想の生産量は其の必要量に対して著しく少ない。其処で騎翼走の様な長距離飛行では、其の不足分を幻想の生産量が多い人間側の走者が肩代わりする必要があり、その手段が感情共有であった。


ユーフェマティアは、其の歴史の中で猛禽馬との感情共有を繰り返した為、生まれつき感情共有が得手であるのだが、他人種は凡そ不得手である。特にツァガナの様な傷心を必死に隠し混むタイプは余りに慣れ難い技術だった。

此らの事実は、騎翼走の走者としては致命的だった。



時間は経って、陽が傾いた夕暮れ時。小屋に併設された年季の入った石の水場で、俺はブラシを片手に猛禽馬の脚を整えていた。

脚鱗の隙間に入り込んだ泥を弾き出した後、蛇口を捻って丹念に表面を洗い流す。

水のかけ方が気に食わなかったのか、エンジは大きく胴震いをして、エンジの足元にしゃがむ俺に飛沫を浴びかけた。

顔に冷えた水滴が無遠慮にへばりつく。不快ではあったが、苛つきも呆れもしなかった。ただ不満に似た疑問が頭を下に引っ張った。

水をかけられるのは、いつもの事だった。


騎翼走の走者を志して早2週間弱。毎夕、少しでも信頼関係を深め、感情共有出来るように、とこうしてエンジの水浴びを手伝っているのだが、其の成果は微塵もなかった。

エンジの脚の湿り気を拭き取って、油で軽く磨けば、水浴びの手伝いは終わった。


「一体俺の何が気に入らないんだ、エンジぃ」


水浴びが終わった事を悟って、そそくさと小屋に戻ろうとするエンジに、俺は尻餅をつく様に座り込みながら尋ねた。

エンジはスラリと伸びた首をひねって、此方を見やる。見定める様な、見透かす様な薄く鋭い視線であった。

一瞬息がつまる。俺は思わず目を背けてしまった。

エンジは荒く鼻息を立てると、いつもの不機嫌そうな目に戻って此方に向き直った。

一拍置いて、エンジの頭頂部についた飾り羽が微細に瞬く。其れは感情共有の合図であった。

エンジがお辞儀をする様に頭を、俺の目の前に突き出してくる。俺はそっと飾り羽に額を触れさせた。


意識体、俗に言う魂は、脳の様な高度な処理能力を持った部位をアンテナとして身体に接続している。

其れは猛禽馬もナムルマティアも同様で、頭を近づけることは其れだけ感情共有を行いやすくなるはずだった。何より猛禽馬の頭頂部の飾り羽は感受器でもあるので、其の気さえあれば失敗する方が難しいのだが。


額を飾り羽に触れた瞬間、エンジが此方に入り込んでくるのが分かった。

成る可く嫌がらず、受け入れて、自分の心を見せる。見せるのだ。受け入れる気はあるんだ。入ってくるのが分かる。自分の中に留まってるのも分かる。其の儘だ。其の儘受け入れて、受け入れて、其れでーーー


ーーーエンジは頭突きをする様に俺を突き飛ばした。よろめいて違いの頭が遠のく。心の中を歩き回っていたエンジがすっと抜けて、繋がりが切れた事が瞬時に分かった。


「もう少しだったろッ!なんで!」


突き飛ばされた身体を、腕を振る事で立て直すと、俺は噛み付く様に叫んだ。

エンジは其の怒号に付き合う気は無かった様だった。エンジはまた薄く鋭い視線で此方を見て、ゆっくりと首を横に振って、踵を返した。

エンジは其の儘小屋の中へと消えていく。

エンジを追いかけて小屋に入る気にはなれず、俺は頭を掻き毟って「今日もダメかよッ!」と悪態をついた。


感情が平穏を取り戻すのを待って、俺は帰路へ着く。如何してという感情の残滓を振り払う様に、“装備”を使って、赤橙の蛍火を散らしながら、牧場の道を駆け抜けた。



私は、騎翼走の練習が嫌いだった。大嫌いという程ではないが、確実に嫌いな部類だった。

私は名門と呼ばれるエルフォルト家の生まれだった。確かに私には才能があった。血によって引き継がれた、素質があった。

けれど、其れは選手としての能力では無かった。其れは指導者としての能力だった。

私は其れが歯がゆかった。選手として活動するからには、当たり前のように良い成績を収めたい。


けれど、いくら練習しようとも、頭の中で描く理想には及ばず、脳が身体を置いていってしまう。

其のくせ、友人らはさらりといった私の一言二言から、トントン拍子に成績を伸ばして、あなたのお陰でタイム上がったの!などと感謝してくる。

違うのだ。私が望むのはそんな感謝ではないのだ。当てつけのように私に感謝などを向けてこないで欲しい。

じゃあ、他人に対してアドバイスをしなければいい。というのは確かにそうなのだが、そうしたならば、お人好しの自分が心の中で嘆き暴れ回るので、其れは其れで苦しいかった。


嫌いな理由は他にもあった。兄の存在だ。

兄は「グニル・エルフォルト」という青年だった。

兄は私よりも余程速い。現役選手の中では右に並ぶものがいない、まさに王者の様な存在だった。

其の兄が遅い私に悪態を吐くから嫌い、なわけではない。寧ろ逆だった。兄は私をとても可愛がってくれた。小さい頃はよく遊んでくれたし、相談にも乗ってくれた。私だけではどうしようもない事でも兄はさらりと解決してくれた。庇ってもくれた。

いつかいい成績が出るよ、とも慰めてくれた。

だから嫌いなのだ。いい結果出せない自分が恨めしくて、いつまでも期待してくれる兄が眩しくて、申し訳なくて、そんな感情を抱かせる、此の騎翼走が、嫌いなのだ。


でも、最近少し嫌いじゃなくなった。


燃え爆ぜるような綺麗な赤色の目だ。活気とやる気に満ちて、成果を請い願うような鮮明な赤い目だ。嘆き腫らした目を、裏に隠した赤色の瞳だ。

練習の行き来の途中で、私たちはユーフェマティアの共同牧場を飛び越していく。其の過程で見えるのだ。牧場を歩く青年が。私とは違う人種の、こんな競技に飛び込んできた、赤い虹彩をした青年を。


きっと彼方は此方のことを認識していないだろうけれど、一眼あった時、視線が重なった時、私は其の瞳に魅せられた。

種火のように仄かな、此の心の煌きはきっと、恋なのだ。



俺が家に帰ると、カタハテはリビングに置いてある古臭いソファに埋もれていた。まるでゾンビのように、クッションに顔を埋めながら唸っていた。

カタハテは、昼手前から俺とエンジの練習から離れ、何処かへ出て行っていた。

帰ったら何しに行ったのか聞こう、と思っていたのだが、悪い結果になったことは確からしかった。


「声かけるのは後の方が良さそうじゃない?」


「賛成です先にお風呂行きましょお風呂」


などと“装備”と小声で内緒話をして、カタハテの側をすり抜けて風呂場へ向かった。




風呂から出た頃にはカタハテはいつもの調子に戻って、夕食を作っていた。

軽く会釈して先に食卓に着くと、カタハテがカラカラ笑いながら、調理器具に入れたままの夕食を食卓に乗せた。


「カタハテさんさっきどうしてたんですか?芋虫みたいでしたけど」


「あーあれねー。ツァガナくんを指導するコーチ探してたんだけど、あてが全部外れちゃってね。頭を抱えてたんだよ」


調理器具から小皿に夕食を取り分けながら、此方から話を切り出すと、カタハテは大きく項垂れるジェスチャーをした。


「カタハテさんもコーチ出来るんじゃないんですか?無理に探さなくても」


「いやね。僕は騎翼走を...。ううん、そんなにレベルが高かった選手でもなければ指導経験もないから、やっぱりコーチは探さないとね。もちろん僕も僕なりにアドバイスするけどね」


「ふーん」と夕食を咀嚼しながらカタハテの言葉を聞き流す。

牛歩ほども進まない騎翼走練習に、ヒリヒリと心を刺す焦燥感を感じずに入られなかった。




一晩、複数原因が混ざり手に負えなくなったストレスに魘されて朝を迎える。飛び起きる、などと言うことはないが、息が上がり冷や汗が全身を包む不快な朝だった。

俺は焦点の合わない目で風呂場に行き着くと、冷水を身体に押し当てた。

びくりと身体が跳ねて意識が冴える。夏終わりの起き抜けの冷水は酷く苦痛だったが、影に追われるような恐怖よりはマシに思えた。


置いてかれたくない。褒めて欲しい。しがみつく何かが欲しい。自分は何なんだ。如何して此処にいるんだ。走ることが全てだったのに。シューテの態度は何だ。姉さんは俺に何を望んでるんだ。分からない。解らない。怖い。怖い。怖い。


湧き上がる恐怖をねじ伏せるように顔を冷水で覆って、声が漏れないように叫ぶ。呼吸などは気にしない。そんな物を気にしてはいられない。今はただ恐怖から逃げたかった。

暫くすれば発作的なストレスからも解放され、いつも通りのペースに戻れる。

カタハテに勘付かれないように風呂場を片付けて、身なりを整えなければ、と風呂場を出た。

事の始末を終え、部屋に戻ると、スリープモードにしていたはずの“装備”がホログラムをアバターを宙に展開して俺を待っていた。

地球ゴマの様な形をしたアバターは其の場から動かず、じっと此方を見ていた。


「何だ起きてたのか。今日に天気予報とカタハテが作りそうな朝食を教えてくれよ」


「いえツァー、そんなジョークを言う気はありません。あなたの後天性感情値の数値、ボーダースレスレまで悪化しています。先程はボーダー未満でした。言っている意味がわからないわけではないですよね?」


俺は“装備”から顔を背ける。まだ陽も登らない時間帯、仄かに青黒く見える部屋の隅をぼんやりと眺める。

すると痺れを切らした”装備“が捲したてる様に言葉を繋いだ。


「これは病的な数値なんですよ!明確な鬱傾向です!心が濁って軋み壊れかけてるって事なんですよ!強制治療になるほどの数値です!幾らナムルマティアの自治権で、州国家の制度を無視出来るからって、放置していたらツァーが辛いだけですよ!騎翼走で上手くいけば持ち直せるなんて甘い考えですよ!失敗する可能性だって!」


「分かってるよ。でも治療は受けてられない。ナムルマティアの自治権が消失して、州国家を出て行く前に結果を出さなきゃいけないんだ。見返すんだ、一族を。俺はまだ速いって。走れるって。立ち止まってはいられない」


「危ういバランスなのが分かっていますか?本当に分かっていますか?」


「分かってるよ」


「.....ではもう少しだけ経過を見ましょう。改善が見られなければ、その時は引っ張ってでも治療を受けさせますから」


“装備”は引き篭もる様にホログラムのアバターを消すと、うんともすんとも言わなくなった。 夜明け前の静けさが耳を突いて痛かった。



時は遡って、ツァガナが星彩に来てから1週間程経った頃。ツァガナの練習が行き詰まり、カタハテがコーチを探し始めた時の事。

カタハテはまず手始めにエルフォルト家を訪れていた。

エルフォルト家は騎翼走に関しては名門中の名門、人脈を頼る際、真っ先に思い浮かぶ相手だった。

勿論断られて、カタハテは今後数日数少ない当てを彷徨うことになるのだが。


丁度其の日、カタハテがエルフォルト家の屋敷を訪ねて来た時、私は運が良いことに其の場に立ち合わせることができた。

其の日は練習も学校もない所謂オフの日だった。


カタハテとは屋敷の門前で出会った。


「あ、カタハテさん。こんにちは。うちに何か御用ですか?」


「嗚呼、これはエルフォルト家のご息女様。この前やってきた知り合いの選手にコーチを付けてやりたくて、ですね」


カタハテはぎこちなく礼を返してきた。余程緊張しているらしい。確かに父さんはカタハテの事を快く思っていないのだから、そうなってしまうのは仕方ないのかもしれなかった。

カタハテの態度の原因に一抹の申し訳なさを覚えた後、“この前やってきた知り合い”という文言に意識が向いた。


「知り合いの選手、と言いますとあの赤目の方ですか?」


「はい。ツァガナというナムルマティアの青年です。筋は悪くない様に思うのできっと大物に育つと、いいんですけど、ね....」


カタハテに適当な相槌を返しながら、私は内心でツァガナという名前なのかと目を輝かせた。聞き慣れない他人種の名前は私にとって新鮮だった。

そして、其の“ツァガナ”の為になるのなら多少の口利きをしてあげても良いかと思えた。


「では、カタハテさんは中でお待ち下さい。少し父と話してきますね。コーチの相談ができる様にして見せますから」


私は門を開けてカタハテを屋敷に招き入れると、パタパタを小走りで父の部屋へ向かった。




知っての通り、私の口利きがあっても、カタハテの願いは通らなかった。というのも、そもそも指導者の数が足りてなく、純粋に手の空いた人物を見つけることができなかったのだ。

確かに残念に思えた。けれど同時に私は絶好のチャンスだと思った。指導の才能はこの為にあったのだと運命を感じて、私が指導者となる、と父に進言した。

けれど、私の願いも同様に叶うことはなく、寧ろ「最近お前は調子がいいのだから、自分のことを優先しなさい」という至極まともな反論を突きつけられてしまった。

正論を突きつけられては返しようがなく私は渋々其の場を後にした。


カタハテも帰って暫くしても私は思い悩んでいた。如何してもツァガナを近くで見たい気がしてならなかった。

そして私は思いついた。オフの日は自由な日なのだ。ならば別に其の日にツァガナを指導してしまっても構わないだろう、と。

私は次のオフの日。1週間後が楽しみになった。



“装備”と揉めた朝を切り抜け、昼に差し掛かる頃。俺とエンジは小屋近くの日陰にいた。カタハテは何処かへまた出て行っていた。

気温が上がる時間帯での激しい運動を避ける為、此の時間は感情共有の練習の時間になっていた。

けれど、最早闇雲に感情共有を目指しても、成功しないことは分かりきっており、だからと言って有効な手立てを知る人もいない今では、半ば手詰まりであった。

俺はエンジの側で横になって目を閉じた。此れをしたからと言って、どうなるわけでも無い。ただ木々のざわめきを聞きながら、眠りたい気分だったのだ。

少女に声をかけられたのは丁度其の時であった。


「ツァガナさん。練習上手く行っていますか?」


「はっ!?え、あ、そのどちら様でしょうか?」


まさか見知らぬ人に声をかけられると思っていなかったので、俺は飛び上がる様に身体を引き起こして、昼寝の訳を取り繕おうとした。

其の少女は、ユーフェマティアの少女はそんな俺の姿が面白かったのか、声を抑えることなく、けれど上品に笑うと自己紹介を始めた。


「はじめまして、私はリーネです。リーネ・エルフォルト。練習が行き詰まってると聞いて、少しでもアドバイスができればと思ってきました。よろしくお願いしますね」

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