第2話胡乱で虚ろな蜘蛛の糸
シューテと言い合ってから、あっという間に数日経った。ヴェーヌァに進路を危ぶまれた事もあってか、俺は部活動に顔を出さなくなった。其のせいで、シューテとは顔を合わせなくなり、仲直りの機会を見つけ損ねていた。
俺が走れなくなった事で疎遠になってからしばらく経っていた事、「別に仲直りしなくとも今までと変わらない。もはや生きる世界が違うのだ」と擦れていた事も、話が進まない一要因だっただろう。
けれど、彼女の別れ際の台詞が心に打ち込んだ杭は抜けず、今日やっと、部活動に顔を出し会話でも、と思い立ったのだが。
其の前に下駄箱で進路のことで先生に捕まって小一時間喋ることとなった。
担任の先生は、まだ若い丸眼鏡の気の弱い先生だった。のんびりと話すこともあって、なかなか話が進まないことで有名な教師であった。
夕暮れというにはまだ青い日差しが射し込む廊下の一角に設置された、プラスチックの敷居で作られた面談スペースに腰を下ろすと、担任は手持ち鞄からいくつかの史料を取り出して話し始めた。
「ナムルマティアっていう人種なんだね。30年前に州国家に合流したばかりの人種。生まれつき強靭な脚力を有して、その脚力に耐えるために、脚に直接幻想を混ぜて微希釈して耐久性を上げてる種族ね。最速60km、理論値70km近くまで出せるなんてまさに破格だねぇー」
此処でもまた嫌味を吐かれるのかと、俺は内心で毒気ついた。
本人が自覚がないのがまた最悪だ、州国家の人間は差別意識がないせいか其処ら辺の配慮が欠けている、と苛立たずにはいられなかった。まして自分が失った種族特徴など褒められても、辛いだけだろう。
俺は眉を潜めて視線を適当に投げた。
「ああ、ごめんね。嫌味に聞こえちゃったかな。本当に他意はなかったんだよ。誤解を招かないように、意識繋げて言語化する前の感情思考を直接渡そうか?そうしたら誤解も少ないと思うよ?」
「あ、いえ、いえいえいえ!あの感覚苦手なのでいいです」
俺は即座に投げていた視線を戻して大袈裟にかぶりを振った。
意識を繋げるとはまさに文字通りの意味だった。意志があるものは有機物無機物問わず、意識体という“幻想”のかたまりが、身体に接続する事で意志を発現している。俗に言う魂という奴だ。其の魂を“装備”を用いて擬似的に一体化させる事が、意識を繋げるという事だった。
確かに誤解は少ないが、同時に其れは表層意識、行き過ぎれば深層意識まで相手に開示することになる。意識体の制御が上手ければそんな懸念は不要なのだが、あいにく棘のある俺の自意識は感情的でしかなかった。
「いや失敬失敬。そうだねー。慣れないと上手いこと伝える量を制限できないから、自分が丸裸にされたみたいで嫌だろうね。この都市で使われる技術の弊害だねぇ。誤解が減る分プライベートも減る。難しいねぇ」
「いえいい技術だと思います。普通ではできない事が色々できて便利ですから、はい」
「......早く本題へ行けって感情と俺の脚も治せない技術がーって苛立つのがよく見えるよー。本心はもっと注意してふるった方がいいよぉ」
ガタリと椅子から跳ね立った。距離を取らずにはいられなかった。瞳孔が見開いて、担任を睨む。一体此の男は何処まで覗いてくるのだろうと悪寒から腕をさすった。
「僕はね。元々感受性が著しく高くてねー。“装備”使わなくてもテレパシーの真似事が出来るんだよー。だから生徒からも避けられるんだけどね。さて本題に入ろうか。進路のことだったね。だいたい読み取ちゃったけど、声を介していくつか確認しておこうか」
担任はにこやかな笑みで俺に手招きする様な仕草で着席を促したが、其れに従う気にはなれず、ぐっと口を噤んだまま、立って身構えていた。椅子に座り、喋って仕舞えば、今よりもっと本心を覗かれる気がして心地悪かった。
「そう警戒しなくてもぉ。ツァガナ君は走るのが......あーんーふーん、好きなんだね。走るのが好き。でも成長過程で発達する筈の脚の微希釈が上手くいってなくて、本気で走れない、と。本気で走ったら骨折、筋肉断裂ってことでいいのかな?」
「......はい、概ねあっていますが」
「走れないけど、出来れば走れる進路がいいかぁー。学力もあんまり奮ってないと」
「.....はい」
なんだ此れは、と静かに思う。拷問みたいになものだ、と不機嫌にかられる。何故好き好んで、自分が否定したい事実を見せつけられなければならないのか、と脳裏を搔きむしらずにはいられなかった。
其れが現実を知るという事でもあると理解してはいたが、過去にしがみついても変わらない現実だと分かっていたが、其れでも目の前に突きつけられる謂れはなかった。もっと別な、少しは此方の感情を配慮した方法もあっただろう。
「じゃあねぇ」と担任は不敵に笑う。俺は眉間の皺をより深くして其の笑みに答えた。
「本当は良くないんだけどね。ちょっとした伝手で、ツァガナ君の望む道が紹介できるかもしれない」
俺は再度身体を跳ねるように震わせた。怯えたのではなく、身体を前のめりにする様な震わせ方だった。担任の一言は荒れた水面を一瞬で宥め、僅かな波紋だけを描かせた。
音が遠のき消えてゆく。耳鳴りがしそうなほどの静寂が脳に詰め込まれる。夏の虫の鳴きも、空調の音も、校庭ではしゃぐ生徒の声も、全てが何処かで息をひそめる。
見開かれた目の中で、瞳孔が小刻みに揺れた。唯一肌を伝う汗だけが頬を撫でて外界がまだ存在することを証明していた。
そんな道があるのか、と驚愕した。つい先日シューテやヴェーヌァの言を受け、捨て去ろうかと頭を悩ませた選択肢が、今更になって出てくるのか、と疑念、歓喜、憎らしさがうねり狂って、平常心を荒らした。
俺はーー
「一体どんなことなんですか...?」
ーーーその差し伸べられた蜘蛛の糸に縋った。手を伸ばさずにはいられなかった。
◇
ツァガナ君に良くない伝手の情報を渡して、彼が立ち去った後、担任は面談の席から立ち上がらず、しばらく窓の外を眺めていた。何を眺めていたわけでもなく、ただ眺めることをしていた。
ナムルマティアは最近州国家に合流した種族だ。其の生まれの理由上、彼らの伝統は速さを重視した差別文化だった。第三次大戦以前まで、彼らを含めた多くの人工人種は、家畜に近い立ち位置であった。飼い主の要求に答えられなければ死ぬ立場だった。故に彼らが求められた速さを重視した差別文化が出来上がった事は仕方ない様に思う。
悲しい事実ではあるがそうしなければ生き抜けなかったという事実が彼らの根底に根深く突き刺さってしまっているのだから、無遠慮に彼らを責め立てることは出来ない。
でも、もう彼らの文化は時代に相応しくない。此の州国家に相応しくない。もう此処には彼らを虐げる存在は居ないのだ。
ナムルマティアが独立を経て数十年。もう過去の軛から解放されて新しい価値観を築いてもよい頃だ、と州国家は考えて、けれど彼らが持つ自治権故に手をこまねいている。
だからこそ、担任はツァガナ君はチャンスを掴んだのだ、と思った。
彼には、速く走り一族の理想を背負った経験もある。分家らしく走れなくなり腐り嘆いた経験もある。
後は新しいことに挑戦し新たな価値観を築きあげる機会さえあれば、もしかすると彼は、彼らナムルマティアに新しい風を吹き込む可能性になるのでは、と密かに期待していた。
「走る速さ以外の価値も見つけてくれ、ツァガナ君」
担任の友人が成し得なかった事を教え子に押し付けて、「これは先生という職を失うかな?」なんてのんびりと思いながら、其れでも担任の心は浮かれていた。
◇
また数日、時は流れて、俺は実家を離れて州国家の別都市、「天空観測都市:星彩」に脚を伸ばしていた。というのも、担任から渡された伝手を辿った結果、ここを訪れることになったのだ。
本来、ナムルマティアが本家周辺から離れることは難しい。そういう文化体系で管理体制なのだ。
だが、俺は例外的に外出が許可された。特別だからという訳ではない。ヴェーヌァが言っていたように、役職がない用済みであるからだ。最早管理する必要すらないと、本家に対する外出申請書類の提出が免除されたのは、幸運であり、屈辱だった。
父に外出の旨を伝えるとこちらを見向きもせず「ああそうか」と素っ気なく返された。
反面ヴェーヌァは大変嬉しそうであった。「やっと将来を考え始めたのですね!」と顔を緩め愛おしいものの成長を見つめる瞳は、憧れを捨てられず未だ走る未来を探すため外出する俺には酷く辛く思えた。星彩へ行くに当たっての諸経費をヴェーヌァが出してくれたことも、更に心を締め付けた。
シューテには伝えなかった。結局喧嘩をしてから話す機会を見つけられず、もどかしさを感じながらも、接触することなく今日を迎えてしまった。「どうせ姉さんが伝えるだろ」と思ってもいた。
すっと天空に伸び、空高くに浮遊する都市に突き刺さる、透明なガラスのような一条の塔。其れは陽射しを表面で反射して輝き、大地に穿つ光の柱にも思えた。雲がまだらに散った青い空に、白い塔は良く映えた。
一眼見たことがなければ想像すらできぬ高さを誇る其の建造物は、星彩への生活インフラと移動用昇降機のレールを兼ねる円柱であった。
航空機の客室に良く似たデザインの昇降機に乗り、俺は星彩へ向かっていた。大して座り心地の良くないウレタン製の座席に身を埋め、丸縁の小さな窓から外を眺めた。
シャボン玉の様な薄膜に覆われたプランテーション地帯が、凄まじい速度で降り下がっていく。視線を動かせば、針山の様な高層ビル都市や海面から僅かに顔を出す海底遺跡が目に付いた。
小さく成り行く都市を摘むようして片目で眺めて溜息を吐く。落ち着かない内心を扱いあぐねて、シートの上で身をよじらせた。脚を小刻みに上下させもした。
「天空観測都市:星彩」は、浮遊大陸の欠片に造られた都市だった。現存する浮遊大陸はもうないが、大陸の破片だけは幾ばくか残っており、其の一部を土台としたのが「星彩」という訳だった 。元の大陸と比べれば大した面積はないが、大陸片というだけあって都市を築くには十分な広さがあった。
州国家上空に位置を保つこの都市は、本来気象観測と州国家全体の監視と保護を目的に造られたが、現在では飛行関連のアクティビティスポットとして広く知られていた。
だが、大地を駆ける際にわざわざ天空に登る物好きはいない様に、こと陸上や水上海洋競技に関しては無名であった。
そうであれば、走る未来が此の都市にあるというのはよくよく考えれば不思議な話であった。
けれど、期待と不安で胸を一杯にし、其れでいてクールで大人びようとする俺にはよくよく考える余裕はなかった。自分では冷静なつもりでも側から見れば浮き足立っている、まさに其の典型だった。
昇降機から星彩へと降り立ち、ガラス張りのエントランスを出ると、目の前には美しい街並みが広がっていた。真白い大理石を基調の古代都市を模して造られた街並みと、街全体を直射日光から守る様に巨大な傘を広げた巨樹のコントラストは壮観の一言に尽きた。
初めて一族の支配下から抜け出して来た壮麗な都市は、俺を興奮させ、暫しの間劣等感を忘れさせるに十分な衝撃があった。其れから伝手に書かれた案内人が来るまで、知り合いに見られれば恥ずかしくなるほどはしゃぎ、自然と観光に精を出してしまった。
担任の知り合いである「カタハテ」という案内人と合流したのは、その日の夕方、すっかりはしゃぎ終えてからのことだった。
「カタハテ」と名乗る案内人は身長が高いだろう三十代程度の男性だった。身長が高いだろう、というのは彼が脚を怪我しており車椅子で移動していたからだ。再生医療、希釈型医療が広まった此の州国家で車椅子は珍しい。
また、誰かの面影を強く思えた気がしたが、初対面で顔をジロジロ見るわけにも行かず、そもそも一族以外に知り合いなどいる訳がないとすぐに違和感は消え去った。
カタハテは「君に紹介したい競技は朝から見に行った方が都合がいい。移動で少なからず疲れているだろうし、今日はもう休もう」と提案し、其の日は彼の自宅で夕食を終えて、明日に備えることとなった。
◇
次の日の朝。俺は早朝に目が覚めた。慣れない寝床で熟眠出来なかった事や期待で早く目が冴えたなどという事はない。少し夢でうなされたのと、一族の仕来りで早朝に起きる事が癖になっていたからだろう。
客間を出て、廊下を遠慮がちに歩く。カタハテがまだ就寝中ならば起こさぬように、と音を立てないようにしてリビングまで辿り着く。するとカタハテは既に起床して、其の上既に何処かへ出かけてしまっていたらしく、テーブルの上に小さな書き置きと朝食が残されていただけだった。
書き置きには、少し出かける旨と「紹介のため9時頃家を出るのでそれまで準備をして寛いでいるように」と記載されていた。
俺はヴェーヌァが出て行ってからずっと自分で作っていた朝食が、用意されている事にむず痒さと気恥ずかしさを覚えた。
朝食を終え、身を整え、外出の準備を終え、それでも時間は7時前。個人の感性的にも、仕来り的にも、他者の家に泊まる事ももてなされる事もなかったからか、他者の家で寛ぐ事なども出来ず、結局じっとしていられなかった俺は外の様子でも見に行く事にした。
天空に存在する都市の朝ならば寒いだろうと着込んで外に出たが、案外其のようなことはなく、常識に収まる範囲の冷え込みだった。
周囲を見渡すとカタハテの家は牧場のすぐ側にあるようだった。爽やかな風が長く伸びた青々しい草原を滑って、上空の巨木の葉の傘を揺らしてみせた。
俺は“装備”を叩き起こして、地図を開きながら散歩を開始した。
「“ハローハローぐっもーにん”、ツァー!」
「なにそれ何語?ウイルスでも飲んでバグってんじゃないよね。昨日やけに静かだったけど」
「これは州国家の公用語の元になった別世界殻言語の一つ、それの挨拶ですよ。バクじゃないです。ご安心ください。にしても昨日は年甲斐も、いえ年相応にはしゃいでいましたね。その興奮に水を差さぬよう私黙っていました」
俺は見渡す限りの牧場の未舗装路を歩きながら、腰につけたウエストポーチ型の“装備“を「馬鹿なことを言うな」と軽く叩いた。
「ぼうりょくはんたい!ぼうりょくはんたい!はしゃいでいたのは本当でしょう!私の気遣いに仇で返事を返すとはいい度胸です。昨日の映像データは昨日の夜のうちに編集しておきました。これをヴェーヌァ様に送ってさしあげましょー!」
「はぁッ!?ふざけんなやめろ!変なもん送ってんじゃねぇって!」
「はっはっはー残念、我らが州国家の通信回線は大体いつでも良好なのです。こんなデータも一瞬でお届け!ヴェーヌァ様も今頃お喜びでしょう!」
「うわっ本当に姉さんから返信来てるし、文面だけでニコニコしてるってわかるし。ああもう、此れ終わったらお前メンテナンスに出してやる」
「ふっひっひ、満更でもないのが丸わかりですよ。いやーここまで人の機微がわかってしまうなんて我ながら恐ろしいです」
「言ってろポンコツ」
とブラブラとあてもなく歩きながら漫才まがいの日常を繰り広げていると、視線の先、牧場の一角の小屋の様なものが目に入った。
やけに縦長な小屋に眉を顰めていると、中からカタハテが出て来て、此方を見つけると手を振って小屋に来るように促した。
俺はピンとこないまま小屋へ向かった。
「やぁ、おはよう。結構朝早かったね、ツァガナくん」
「おはようございます。カタハテさんもかなりお早いんですね」
カタハテは昨日の様な車椅子姿ではなく、作業用の外骨格スーツを着けて小屋の手入れをしている様だった。カタハテは汗を首にかけたタオルで拭き、外骨格に付いて藁を払いのけていた。
「ちょっと待って」と水筒からゴクゴクと水を飲むと一息吐いてから、此方に指示を飛ばした。
「少し早いけど先にあの子に会ってもいいかな...“装備”持ってるよね?“装備”の畜産業系の消毒モード、あ、薬剤はそこね。で身を清めてから、そこの作業着に着替えて。出来たら呼んで。着替えは気にするなら小屋の隣の水浴び場使って」
「ちょちょちょ、わ、わかりましたけどあの子って誰ですか」
走る道を探しに来たのに、と困惑して動揺する俺に、カタハテは大丈夫だという様に優しく笑って、小屋の中を指差した。
「小屋の中にいる子だよ。きっと君のパートナーになる。僕は中で準備してくるから。じゃあすぐ後で」
カタハテはそう言うと僅かに開かれた扉から小屋の中へ消えていった。俺は顔を顰めてカタハテの背中を見送る。睨め切ると二、三回深呼吸をしてから、服を脱ぎ捨てて、“装備”のモードを畜産業系に切り替えると手足を伸ばして消毒を受け始めた。
嗚呼何か動物がいるのか、と俺は消毒の合間に独りで思考を回す。どうにも釈然としなかったのだ。
俺は自らの脚で大地を蹴り速さを競う、其の未来を探しに此処まで来たのだ。其の未来が見つけられる、細く不確かな糸をようやく掴めたのだ、と希望を胸に秘めていた。
断じて動物の飼育をしに来たわけではないのだ。そうであるのに、今自分は何かの動物に引き遭わされようとしている。しかも、其の動物は自分の進む道に大きく関わるのだとカタハテは言った。其の意味が分からず、俺は今更ながらに星彩に来たのは間違いではないと、不安と不満、期待を裏切られた些細な苛立ちに胸を突かれた。
釈然としない理由はもう一つあった。其れは畜産への嫌悪感と屈辱感だった。ナムルマティアは人工人種の中でも家畜的意味合いが強かった人種だった。故に独立から数十年経って其の迫害を受けていない自分でさえ、此の様な畜産的な物に対する嫌悪感を覚えずにはいられなかった。畜産という行為に身体が悪寒を覚えてしまうのだ。
同時に強い屈辱感を感じるのだ。わざわざ甘い言葉で誘っておいて、期待をさせておいて、其の果て自分に突きつけられるのは畜産という道なのか、と。担任といいカタハテといい、我らナムルマティアを侮辱するのも大概しろ、と奥歯を噛み締めずには居られなかった。
だから釈然としなかった。不可解さ、道理の無さ、期待はずれ、其れ等言葉で表される不満は、劣等感と執着感で出来た心に、また一枚薄汚れた膜を塗り重ねて行く。
嫌悪感から来る無意識の侮辱は、過去の軛を呼び起こして、言い表せない微細なズレが心に残った。
けれど、と。
いつの間にか、城門の様に堅く閉じられていた瞼をこじ開けて朝空を見る。止まりかけていた呼吸を大きなため息と共に再開させる。
身を消毒していた“装備”が其の工程を終えて、態とらしく疲れて見せて此方に話しかけて来る。
「いやー疲れた疲れた。畜産消毒とかマニュアルにありますけどやるの初めてで。はぁーあー慣れないことは疲れますねぇ」
「じゃあこれから暫くは疲れっぱなしだな」
「あらあら、思い詰めるのは辞めたのですか?酷い表情でしたよさっき」
「うん、こう不満は尽きないけど、まだ何も見てないから」
だから、と。
早とちりは良くないだろう。もう少しだけ、夢という過去の幻想に、もう得ることのないはずの将来に、自分の憧れに縋っていたい。
不満はある。気持ち悪さもある。心情も穏やかでない。寧ろ荒れ立って仕方がない。種族としての個人としてのプライドから来る屈辱感は消し難い。
けれどまだ我慢はできるのだ。せめて、此の偶然垂らされた糸の先が何に繋がっているのか見てからでも、諦めるのは遅くないだろう。
だからまだ、今だけは、チャンスを信じていたい。
小屋の手間に置かれた木製テーブルから作業着を掴み取る。嫌悪感の絶えない其の袖に腕を通して、薄膜の覚悟を心に貼り直す。
俺は意を決して小屋の扉を開け放った。扉の先にはニヤついた、けれど厭味っぽくなく関心に満ちた表情をするカタハテが立っている。
彼は言った。「てっきり入ってこないと思ったよ。侮辱するのも大概にしろってね」と心底面白そうに。
俺は答えた。「そうとも思いましたけど、でもまだ何も見てないですし」なぜか気恥ずかしくてそっぽを向いて。
カタハテは数歩前に出た。すると、縦長の小屋の天井から何かがズシンと、カタハテの隣に舞い降りた。其れは鼻息は静かだが、競争心に溢れている。カチカチと大きな嘴で此方に挨拶しているようだった。
「紹介しよう。馬のような身体に鷲の頭と翼。浮遊大陸の原生種にして半幻想生物。彼女は俗に言うヒポグリフ、正式名は“猛禽馬:イーデンテーレ“のエンジだ。そして君にやってもらう競技は“騎翼走:ゼイーデンラウ”だ!」
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