割れたティーカップとショットグラス
千本松由季/YouTuber
割れたティーカップとショットグラス
1
「なんでお前、こんなとこに編み物なんて持って来んの?」
「いいじゃない。もう少しで終わりそうだったのに、お前が呼び出すから。」
ここはオスの臭いが充満するゲイバー。革ジャンにブーツにチェーン。なんて呼ぶのかは知らないけどさ、そういうのが多いバーだから、俺みたいに女っぽいのがいるとイヤでも目立つ。目立つのは嫌いではないけど。
「だって霞が寂しいようなことを言うから。」
「そんなこと言ってないし。俺、なんて書いた?」
樹一のケータイをふたりで覗き込む。
2
樹一:霞、なにしてんの今?
霞:ひとりで編み物してる。
樹一:え、マジで?
霞:暖房調子悪くて、寒くて。
3
「これのどこが寂しいっての?」
「ひとりで編み物してて寒いって。」
「だたの事実を述べただけじゃん。編み物してて寒いって。全然寂しくないし。早くこれ仕上げたいし。宿題だし。」
樹一はややムッとした顔をしている。まあ、心配してくれたのは嬉しいけどさ。ヤツと俺は男子校からの友人。ヤツは普通の大学でビジネスの勉強をしてて、俺は美術大学でテキスタイルの勉強をしている。俺達の大学は隣同士。このバーはその中間くらいにある。
4
俺は樹一にちょっと微笑んで、編み物の続きを始める。男達の視線が集まる。俺は黒を絶対着ない主義で、黒いのはソックス1足持ってない。周りは、ほぼ全員黒を着ている。俺はこの近くに住んでるし、面倒くさいし、着てたそのままの服でここに来てしまった。なんて言うのかなこの色?薔薇色?そんな色のダウンジャケット。部屋が寒かったからそれ着てて、その中はパジャマみたいなネルの上下。シマウマの柄。でも黒と白ではない。水色とグレー。黒着ない主義だから。グレーはいいんだけど。それからグリーンのサテンのスリッパ。樹一はこの界隈では超硬派で通ってるから、ヤツと一緒にいる時に男に声をかけられたことはない。そうだけど。普通は。
5
背が高くて見てくれのいい男が俺達のテーブルに寄って来る。革のジャケットから見えてる裸の胸が妙にいかがわしい。ポリスみたいな帽子を被っている。
「よう、樹一。」
なんだ知り合いか。その男は樹一に挨拶だけして通り過ぎる。通り過ぎた途端、樹一は周りの男どもから金を集めて歩く。
「なにしてんの?」
「さっきの背の高いの、俺達の新しい助教授で、ゲイかどうか賭けしてて。」
「お前、ひとり勝ちじゃん。」
「普通にスーツ着てたら絶対バレないタイプ。俺は騙されないけどな。」
ひと口千円か、せこい賭けだな。まあいいか。腹も減って来たことだし。
「それでなにか食おうよ。俺、腹減った。」
6
ふたりでケンカしながら選んで、結局ピザに落ち着く。樹一はビールを飲んでいる。俺は紅茶とショットグラスのグラン・マニエを一緒に頼む。丁度いい味と温度になるまで、紅茶にグラン・マニエを注ぐ。ティーローズとオレンジの香りが絡まる至福のひと時。
「霞、こんなバーでそんなの飲むなよ。」
「いいじゃん。俺みたいなヤツが好きなのいるかもしれないし。」
「なー、お前そんなこと言ってっからいつまでも童貞なんだぜ。」
「余計なお世話だって言ってるだろ?」
「お前はな、そもそも趣味がマイナーなんだよ。」
いっつも同じ会話なんだから。
「お前音楽とかなにか聴いてんだっけ?」
「バロック。」
いつも言ってるじゃん。それのどこが悪いっての?
「バロックのどこがいいんだ?」
「静寂と音のコラボレーション。」
俺はゆっくりと厳かにそう言ってみる。
「じゃあ好きな画家はなんだっけ?」
「ブグローとアルマ=タデマ」
「なんなのそれ?」
「19世紀の画家。」
「やっぱりお前、マイナーだわ。」
余計なお世話だって。コイツには理解できない世界。ブグローの天使。アルマ=タデマの春の精。みんなで空をバタバタ飛んでいる。
7
樹一の新しい助教授とやらが、俺達のピザを一切れ取って食べてしまう。
「やだー、先生。」
樹一が甘えた声を出す。
「君、俺のお陰で一儲けしたんだろ?」
俺がクスクス笑う。
「君の編んでるのなに?セーター?」
「はい。宿題で。」
「綺麗な白だな。」
「ブグローの天使がイメージで。」
樹一は俺を小バカにしたように見る。
「また人にそんなマイナーなこと言ったって。」
助教授が俺のモヘアのセーターに触る。
「フワフワでほんとにブグローの天使みたい。」
8
世の中にはちゃんと知ってる人だっている。俺は横目で樹一を睨む。焦った樹一はケータイで検索を始める。
「へー、これがブグローね。コイツ等天使のくせにエロイな。でもこんなちっちゃな翼じゃ飛べないぜ。」
俺はヤツに言い返す。
「ちゃんと飛べます!だって飛んでるとこが描いてあるでしょう?」
「先生ね、コイツこんなバカみたいなこと言ってるから、いつまでも童貞なんですよ。」
「いいじゃない、童貞。天使みたい。」
天使って童貞なのかな?知らなかったけど。先生は俺の髪に触る。ほんとはストレートなんだけど、天使みたいな巻き毛にしてる。長さは肩くらい。毛先だけピンクにしてる。だから黒ずくめの男達の中にいると相当目立つ。
9
先生はいつの間にか椅子を持って来て、俺達のテーブルに座ってる。
「樹一、いくら儲かったの?3割もらうから。」
「先生、それは無謀ですよ。1杯奢りますから。」
「じゃあこの子の分も。」
彼はまた俺の髪を触る。髪に指で、空気を入れるみたいな感じで。俺の分までドリンク頼んでくれたんだ。ヤッター!今度もまた紅茶を頼む。グラン・マニエ付きの。全身黒革のウェイターが花柄のティーカップをトレイに乗せて運んで行くのを、男どもがジロジロ見ている。紅茶の行く先のテーブルを目で追って、俺のピンクの髪を凝視する。
10
「いい香りだな。紅茶をそんな風にして飲んだことないな。」
「ひと口どうぞ。」
先生は男らしいヒゲのある口でそれを飲む。
「なんか今、風景が見えた。」
そんなこと今まで思ったことなかったから、俺はビックリする。
「どんな風景?」
「アルマ=タデマの『ヘリオガバルスの薔薇』。」
そんなこと言ってくれた人がいなかったから、俺はポーっとなる。グラン・マニエのせいかも知れない。
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樹一はまた検索を始める。
「アルマ=タデマね。先生、なんでそんなマイナーなこと知ってるんですか?」
「そこまでマイナーじゃないだろ?」
「マイナーですよ。俺この中の絵、どれも見たことないですもん。」
「でも綺麗だろ?」
「綺麗だけど、なんて言うか、特別な感情は湧いてこない。」
1番有名な絵はこれ。信じられない数の薔薇の花びらが落ちてくる。そして人々が埋もれてしまう。神話に出て来る、飛ぶ花びらと、熟れたフルーツと、そして退廃。俺の好きな絵を分かってくれる人、今までいなかったよな。樹一にはいつもバカにされてたし。俺はますます先生の方をボーっと見詰める。グラン・マニエのせいかも知れないけど。そしたら先生の方も俺の目を見ている。この人はこういうバーに来るくらいだから、やっぱりそういうハードなゲイが好きなのかな?
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見詰められて恥ずかしくなって、俺は花柄のティーカップを鼻先に持ってくる。カップの内側にも花びらが描いてある。飲むわけでもないのに。香りだけをかぐ。先生は俺の、カップを持ってない方の腕を軽くつかんで、俺の目を覗き込む。
「童貞?ほんとに?いいな。可愛いのにな。」
俺の周りに、 『ヘリオガバルスの薔薇』の花びらが舞っている。彼は俺の持ってるティーカップをソーサーに戻して、キスをしようとする。
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樹一がいきなり俺の腕をつかんで、凄い速さでバーを駆け抜ける。そして外に走り出る。なんだろう?って考えてる間もない。
「霞。」
彼は俺の名前を呼んで、深呼吸をする。
「霞、お前どうなんだ?」
「なにが?」
「あんなヤツのことが好きなのか?」
「誰が?」
「先生。」
「まあ、趣味も合うし。」
樹一はそこでまた深呼吸をする。
「俺はお前とは趣味は合わないし、合わせようともしないし、でも。」
「でも?」
「それでもよかったら、俺と付き合わないか?」
「ええっ?」
コイツとは高校の時からタダの友達で、そんな気配も全然なくて。
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「今までそんなこと考えたことなかったから。」
樹一は優しく俺の肩を抱く。ふたりで街灯の下に立って、映画のシーンみたい。
「霞、どう?なにか感じる?」
「高校で虐められてた時、いつも助けてもらった。」
「あれは4年も前の話しだぞ。」
「俺のネコが死んだ時、たくさん慰めてもらった。」
「あれも2年も前だぞ。」
樹一はクスって笑う。俺もつられて笑う。
「そうだけど、きっとこれからも俺のこと守ってくれる。」
俺達はロマンティックなキスをする。薔薇の花びらがクルクル輪になって舞い落ちる。
15
俺達を見て、バーの方で歓声が上がる。札が飛び交っているのが見える。またヤツ等、変な賭けしてたんだな。俺達がバーに戻ると、先生が樹一を怒鳴りつける。
「俺が落としたら勝ちだったのに!大敗だ!こんなの初めてだ!」
樹一が先生に殴りかかる。俺とその周りのヤツ等が止めに入る。先生がよろけてテーブルの上に倒れる。ティーカップが飛ぶ。それが俺の編みかけのセーターに落ちる寸前で、誰かがセーターをつかむ。俺の真っ白なモヘアのセーター。天使に着せるつもりだった。守ってくれたのは、俺の樹一。ティーカップが割れて、ショットグラスも割れて、気持ちのいい音がして、いい香りが立ち昇っていく。
割れたティーカップとショットグラス 千本松由季/YouTuber @Brid
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