第21話

 股関節と腿と腰にハーネスが食い込んで痛い。

 私は、ほぼ逆さ吊になって、上空五百メートルくらいのところで、人間振り子になっていた。

 胃液が逆流して、我慢できずに吐く。

 正体不明の光源に反応して、それが空中散布の状態からきらきらと虹になった。


 ―― あははははははははははは……きれい……。


 眼の端に必死になって這いずっているレマ・サバクタニの姿が見えた。

 展望回廊の縁で私の揺れに合わせてザイルが擦れ続けていて、多分もうすぐ切れる。彼は、それを止めようとしているのだ。

 死を目前に、なんだか私は意外と冷静だった。

 ええ……と、展望回廊がこの振り子運動の支点だから、高さはおおよそ五百メートル。秒速十メートルぐらいで水平方向に吹っ飛んでいて、大気の粘性は通常。質量(つまり体重)はむにゃむにゃキログラムだから、計算すると私は、およそ十四秒の落下時間(長い!)。到達する終端速度は時速約百五十キロメートル(早い!)。何ジュールのエネルギーなのかもう頭が回らないけど、地上には『なんかエリ・エリっぽい肉塊』しか残らないだろう。

 体中が痛いし、動かない。

 これは、ハーネスで脊椎をやられてしまったのかもしれない。

 どうせ死ぬのだから、車いす生活に不安を抱く必要はないけれど。

 『今までの人生が走馬灯の様に……』って、いうけど、何の山も谷もない私の人生は、走馬灯も困惑したのか、映像が浮かんでこない。

 なんというつまらない人生だろう。

 レマ・サバクタニが、地上五百メートルの展望回廊の屋根で足を踏ん張って、ザイルを引っ張っている。

 危ないなぁ。柵もないないところで振り回されて、落ちたら大変。

 私は探査隊が全滅した時に、私も死ぬはずだった。

 それを、ここまで生き延びたのだ。

 イジメでもなんでもなく、ナチュラルに存在を忘れられ、同窓会にも呼ばれない私にしては、上出来。

 セクハラおやじで、がさつで、狂暴顔だけど、レマ・サバクタニのおかげだ。

 ……って、あれ? 私、レマ・サバクタニの事、少し好きになってる?

 これが『吊り橋効果』ってやつ?

 いやいやいやいや……それはないわ~。

 これこそ、美女(自称)と野獣じゃん。

「さて、落下に備えるか」

 私は目をつぶる。誰かに別れを告げようかと思ったけど、そういえば友達いなかったっけ。

 なんとなく、両親とは縁が切れてる風だし。金をせびる困った親族って感じ。

 ウッメと鯉軍団にでも、「アデュー」とでも言っておこうか。

 体が大きく揺れているのを感じる。


 ―― ゆあーん


 耳元で風。まるで、風精シルフの歌。


 ―― ゆよーん


 私をこんな目にあわせやがった神様に呪いの言葉を吐く。こんちくしょう。会ったら殴ってやる。


 ―― ゆやゆよん


 変な擬音と思ったけど、実際揺れてると違和感ないわ~。

 チューヤ・ナッカは、やっぱり天才なんだね。イケメンだし。社会生活不適合者だけど。

 そして、私はストンと気を失った。



 ここからは、断片的な記憶。

 白い正体不明の光源。

 まぶしくて、眼が痛い。


 そして暗転。


 振り子運動はいつの間にか止まっている。

 ハーネスが食い込んで痛い。

 レマ・サバクタニの汗の臭い。

 ずっと背負い子の中で嗅いでいて、今では懐かしささえ感じる。

 鞣なめした革みたいな匂い。うん、実はそれほど嫌いな匂いじゃない。

 逞しい腕に抱きかかえられた気がした。


 そして暗転。


 お姫様抱っこされている。

 無精髭が生えた、レマ・サバクタニの顎の先に汗の珠が光っている。

 指を伸ばす。指先に触れたそれは、儚く消えて私の手に伝った。


 そして暗転。


 地面に横たわって、『空樹の塔』の避雷針を見ていた。

 そうか、ここは、展望デッキの上か。

 背負い子を漁っている、レマ・サバクタニの大きな背中が見えた。

 蜂の巣をむさぼっている熊みたいで、ちょっと可愛い。


 そして暗転。


 手足が氷の様に冷たい。

 それ以外は何も感じない。痛みも、恐怖も。

 死にかけているんだろうなと、漠然と思う。

 今度、生まれ変わったら、友達百人出来るかな?

 出来るといいな。


 そして暗転。


 口の中に、何かが流れ込んで来る。

 甘くて、苦くて、しょっぱくて、しゅわしゅわする何か。

 吐き出そうとしたけど、口がふさがれていた。

 チクチクと痛い。レマ・サバクタニの無精髭。

 彼の口が私の口を塞いでいる。

 空気が吹き込まれてきた。

 ファーストキスが、人工呼吸かぁ……。

 これ、ノーカウントでいいよね?


 そして暗転。


「消費期限、一年過ぎているけど、大丈夫か? これ」

 レマ・サバクタニの声が聞えた。

 さっきの液体だろうか? なんてもの飲ませるのよ、馬鹿。


 そして暗転。


 息をするのが、億劫だ。

 もう、やめてしまおうか?


 そして暗転。


 胸に衝撃。ドン! ドン! と圧迫される。

 鼻がつままれ、また唇が奪われた。これ、高くつくからね。


 そして暗転。


「馬鹿野郎、死ぬな、戻ってこい!」

 レマ・サバクタニの声。


 そして、暗転。


 圧迫されて胸が痛い。


 そして暗転。


 音が消え、静かだ。


 そして、暗転。


 暗いまま。


 もういいよ、胸が、痛い。ヤメロ、サバクタニ



 ワタシ ツカレチャッタ……


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