第20話

 それは、見ていて胃が痛くなるほど危険な作業で、狂おしいほどじれったい作業。

 崩落した崖の縁に打ったハーケンにシュリンゲを釣るして、そこに体重を預け、仰け反る様にして天井面にハーケンを二ヵ所に打ち込む。

 それを、シュリンゲで繋げて、足場を作るのだ。

 二ヵ所に打ち込むのは、かかる荷重を斜めのベクトルにするため。

 ハーケン一本だと、荷重がかかるとすっぽ抜けやすくなる。

 それを二ヵ所で支えるようにすれば、斜めにテンションがかかり、ハーケンと岩の摩擦係数が増えるというわけ。

 多分、打ちこむ角度にも工夫があるのだろう。

 天井とシュリンゲで下半身を支え、腹筋だけで上半身を支えて前方に体を伸ばし、また、ハーケンを打つ。

 その繰り返しだ。

 空樹の塔の先端が天井に触れている場所まで、五十メートルほど。

 この虫が這うような速度だと、気が遠くなるほど遠い。

 それでも、レマ・サバクタニは、飽くことなく前進を続ける。

 ある程度進むと、途中にぶら下げてある背負い子などの荷物を回収し、先頭まで持って行く。

 シュリンゲとカラビナの数にも限りがあるので、いちいち後方に戻って、それらを回収して、順に前に進む。

 勤勉な働きアリの献身を見ているような、感動的な光景だ。

 私はザイルがたるまないよう、繰り出したり引き戻したりしながら、ぽろぽろと涙が流れる。

 この野蛮でがさつで人を平気で貧乳呼ばわりするセクハラ親父だけど、今この瞬間は、彼の頑張りにエールを送っていた。

 私、尺取虫大好きだし。

 アレ実は、タマナギンウワバっていうキャベツを食害する害虫だって知ってた?



 レマ・タマナギンウワバは、半日ほどかけて、『空樹の塔』の先端に到達した。

 さすがに疲れたのか、不安定な足場にへたり込んで、ぐったりとしている。

「いいよいいよ、そこで繭をお作り」

 ……などと思っていると、レマ・タマナギンウワバはメンテナンス用の梯子を伝って地上五百メートルの場所にある『展望回廊』の屋根の上に移動した。

 そこに、ザイルを固定する。

 そして、私を手招いている。

 あ~…… 完全に忘れてましたけど、私もあの尺取虫と同じルートを辿らないといけないんでした。

 え~と、無理です。竦んで、足動かないっす。

 遠くで、レマサバクタニが何かゼスチャーをしている。

 何かを巻き取る仕草だ。私は、あの尺取虫が残した釣り用のテグスを、リールに結び付け、それを巻き取る。ウッメと同じアクションをしていると、少し癒される。

 ああ、おうちに帰って、ウッメの『世界を釣る』が見たい。かぼちゃのプリンが食べたい。鯉軍団を応援したい。

 そんな現実逃避しながら、ひたすらリールを巻いていると、テグスに結び付けられた予備のザイルの先端が来た。

 それを掴んで、今度は手でわがねてゆく。

 長さ三十メートルのザイル。これで輪を作り、支持している石柱にひっかけ、簡易昇降装置を作るっていうのが、当初の作戦だったっけ。

 これで、安全に崩落現場の縁まで下りて行ける。

 あとは、レマ・サバクタニが辿ったルートをなぞるだけ。

 ハーケンを打ったり、荷物を順送りしなくて済むけど、ザイル一本に縋ってひたすら進まなければならない。

 途中で落ちて、ハーネスでぶら下がって進退窮まるという未来しか見えない。

「だいじょうぶだって。えりえりならできるよ」

 くそ、レマ・サバクタニの野郎、棒読みじゃねぇか。

 やってやる! やってやろうじゃないの! 女は度胸じゃ!

 ザイルを支えていた石柱まで、ズンズンと足音高く歩く。

 そこに、輪になったザイルをひっかける。

 左右に引っ張って滑りを確認すると、縁から崩落した穴にザイルを投げた。

 SMの拷問具みたいなハーネスのカラビナにザイルを通して、ブーツにザイルを巻きつける。

 これで、右足と腰はザイルに固定されたことになる。

 固定したザイルと反対側のザイルを、革手袋で保護した両手で掴む。

 この掴んだザイルを送り出せば、私の体は下にずり落ちてゆくというわけ。

 ヘッドギアのストラップをしっかりと締めて、崩落した穴に私はずり落ちてゆく……。

 ザイルを持つ手を離してしまえば、一気に十五メートルも斜面を滑ることになる。

 ハーネスでつながっているから、穴から地上六百三十四メートルをダイブとはならない(はず)。

 でも、岩に叩きつけられ、地面に擦り削られてしまうだろう。どこか骨折でもしたら、もう進退が窮まってしまう。


 なんとか、下端まで下りる事が出来た。

 ここで、最初にレマ・サバクタニが打ったハーケンから伸びるシュリンゲに私のハーネスを繋げる。

 石柱とつながっているザイルから、ハーネスを外し、絡めていた足も外す。

 そのうえで、結び目を探して、輪状のザイルを手繰る。

 解いて回収するためだ。

 束ねたザイルは、ナップザックに収納した。

 ようやく、これで第一段階終了。

 何か寒いと思ったら、信じられないほどの腋汗だった。恥ずかしいけど、どうせここにいるのは、マウンテンゴリラだけだし、いいか。

 シュリンゲに、お尻を乗せる。

 わはは……地上六百三十四メートルの空中ブランコだ。

 風が吹き上げてきて、ぴゅるぴゅると鳴った。

「下を見るなよ!」

 レマ・サバクタニの声。

 わ~! 余計な事言いやがって! 思わず見ちゃったじゃない!

 吐きそうになりながら、遥か高みの光景から目を引き剥がす。

 深呼吸三回。

 鎮まれ、心臓。でも、止まっちゃダメよ。

 レマ・サバクタニが通ってきたザイルにハーネスのカラビナを繋げる。

 そのうえで、座っているシュリンゲに固定したハーネスのカラビナを外した。

 必ずどこかが繋がっている状態にする。これが、命綱の基本。

 両手でザイルを掴み、体を伸ばす。

 この瞬間が一番怖い。

 体を捻って、今度は足でからみつく。

 肘と膝の裏で体重を支える。

 握力に頼ると、あっという間に力尽きてしまう。

「いっち、に、いっち、に……」

 声に出して、肘を滑らせ、足を送る。

 さっきは、レマ・サバクタニを尺取虫に例えたが、今は私が尺取虫だ。

 ザイルだけを見る。

 背中の下は、六百三十四メートルの高さ。

 それを、意識しないように努力する。

 どれくらい、進んだろうか? だいぶ腕が疲労しているし、そろそろ休みたい。

 下を見ないようにして、最初に座っていたシュリンゲを見る。

 ふっと、気が遠くなった。

 なんと、まだ数メートルしか進んでいないではないか。

 泣きたくなった。

 いや、もう泣いていた。

 なんで、こんな事しなければならないのか?

「りふじーんだよう」

 大声で叫ぶ。

 その声に応じて、どこかで鴉が鳴いた。

 こんちくしょう! 馬鹿にしやがって、くそ鴉!

「だいじょうぶだよ。がんばれ、がんばれ」

 棒読みのレマ・サバクタニの声援にも腹が立つ。

 無事に渡り切ったら、レマ・サバクタニは殴る。鴉は殺す。

 そう考えると、手足に力がみなぎる。

「負けるもんか! いっち、に、いっち、に……」

 その瞬間だった。変な音がしたのは。


 バキン


 そう聞こえた。

 音の方向を確かめると、最初のハーケンの方向だった。

 ふわっと、体が浮いた。


 ―― 落ちる!


 そう思った時は、ザイルにしがみついていた。

 途中の固定ポイントのシュリンゲとハーケンの場所で、一旦止まったが、勢いがついていたので、そこもベキンと外れてしまう。

 重力加速がついて、次々とハーケンが外れてゆく。

 私はキリモミ状態になって、ザイルを滑り落ちてゆく。

 握った革手袋とザイルが擦れて、煙を上げている。

 私の非力では、体重を支えきれない。

 それでも、ガクンと止まったのは、ハーネスの命綱のおかげだ。

 すっぽ抜けたハーケンとカラビナが偶然強固に絡まったので、私は空中に投げ出されずに済んだのだ。

 今や、ザイルは天井を離れ、最後にレマ・サバクタニが固定した展望デッキの梯子だけが私を支えている状態。

 なんだっけ? 国語の授業でならったサーカスを舞台にした詩があったでしょ?


 『ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん』


 だっけ? 今、私はその状態だった。


 あははははは……変な擬音……

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る