第19話

 高度六百三十四メートルという具体的な数値。

 私は、崖の縁から顔だけを出して、無意識下でその根拠となった物を見ている。

 それは、世界一高いと言われる建造物で、通称『空樹の塔』。

 それがなぜか、この地下迷宮の中にあり、巨大なドーム状の空間に聳えているのだった。

 その『空樹の塔』の高さが六百三十四メートルというわけ。

 私たちは、その天辺がつかえているドームの天井の穴からそれを見ている状況。

「どういうこと?」

 レマ・サバクタニが、いつの間にか私の横にぬっと顔を出している。

 その横顔に問う。

「これが、『反転型地下迷宮』の特徴だよ。どこかの時間軸の『空樹の塔』が、ここに移転したのさ」

 今の魔導技術をもってしても、解明できない謎。

 地下迷宮に突如出現する『特異点』により、異世界や別世界から何かが出現する現象。

「この塔があった世界はどうなったの?」

「少なくとも、この塔があった地域は大惨事だろうな。ごっぞり空間が削れたんだぜ」

 突如空間そのものが削れて閉じる。

 見たところ、このドーム状の空間は三キロ四方に及ぶ。

 それだけの空間が、一気にズレれば、空間転移が一秒間で完結したとしても、この塔があった世界では、秒速三キロメートルで物体が動いた事になる。つまり、時速一万八百キロメートル。マッハに換算すると9……。

 効果の範囲がどれくらいに及ぶかわからないけど、約マッハ9で動いた物体など、空気との摩擦で消し炭だ。

「これほど大規模な『移転』だ。やはり、この地下迷宮には、『大特異点』が存在する」

 まただ。また、レマ・サバクタニの眼に、妄執の炎が見える。

 彼の望みは『大特異点』を使って十五年前の大凶津波おおまがつなみまで飛び、家族を救うこと。

 でも、家族を救うなら、わざわざ戦乱の瞬間に戻る必要ってある?

「だめだ。あの瞬間じゃないと、意味が無い。あの日、俺の息子が誕生したんだ。俺は、この手で、あの小さな生命を抱き上げた。別の時間軸だと、もうあの子は存在しないかもしれない。そんなのは認めない」

 そうか……彼にも行動の理由があり、この一見すると不可能なミッションに挑む意味がある。

「よし! 『大特異点』を探そう!」

「うむ。では、かなり危険だが、トラバースするぞ。岩登りの経験は……まぁ、ないだろうが、がんばれ」


 眼下に広がるおよそ三キロメートル四方の廃墟。

 その中心に聳え建つのは、世界で最も高い建造物『空樹の塔』。

 その先端は、ドーム状の空間の天井に食い込んでおり、その天井に出来た穴から私たちは下界を見下ろしている。

 あえて魔導技術を使わず、旧世界の建築技術保存のために作られた建造物で、旧世界物理学ファンには聖地のような存在。

 この巨大な荷重を支えるために、『高強度鋼管』という旧世界では最高峰の技術を躯体構造として使い、『締め殺しの木』みたいに、複雑に絡み合って六百三十四メートルまで聳えている。

 中央の芯となっている心柱を支える、鼎トラス・リングトラス・リプトラスが複雑に絡まる様のなんと美しいこと。うっとりしちゃう。

 え? 何言ってるか分からないって? ググレカス。

 問題は、このドームに穴を穿った場所が、この塔から五十メートルほどズレていること。

 足場もないこのドームの内側をどう移動するのだろう? ああ、嫌な予感しかしない。

 レマ・サバクタニはなんて言っていたっけ? トラバース?

 予備のザイル、登攀用ハーネス、ハーケン、カラビナ、シュリンゲ、チョックストーンといった、ロッククライミングの道具が、樽型背負い子の下部の引き出しから出される。

「一応聞くけど、何やってるの?」

「うん? 天井をトラバースするんだが?」

「一応聞くけど、トラバースって?」

「ハーケンとチョックストーンで、シュリンゲをぶら下げて、それを伝って天井を渡るんだぜ」

 こんなリボン状の紐一本で、地上六百三十四メートルの場所にぶら下がるってこと?

 無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理!

「大丈夫だよ、このシュリンゲは二キロニュートンまでの荷重に耐える設計だ。まぁ、二トンまで支える優れものだぜ」

 でも、ハーケンがすっぽ抜けたら?

 カラビナが砕けたら?

「まぁ、地上まで真っ逆さまだが、大丈夫だよ」

 レマ・サバクタニはそんなことを言っているけど、小さく「多分ね」と付け加えたのを、私は聞き逃さなかったんだからね。

「俺が先に行って、ルートを作る。お前は、それを辿るだけの簡単なお仕事だぜ。本当は、シュリンゲやハーケンを回収しつつ移動するんだが、無理だろうから、それは免除してやるよ。大丈夫、大丈夫」

 コイツの『大丈夫』は信用できないんですけど……


「さて、行くか」

 腰にハーネスを巻いて、幾つものシュリンゲを襷がけし、じゃらじゃらとハーケンとカラビナをぶら下げて、レマ・サバクタニが崖から身を乗り出す。

 私は、ザイルがたるまないように、適度なテンションをかけて送り出す係。

 まずは、斜めに十五メートルほどの深さのある穴に入ってゆく。

 これは、崩落したドーム状の空間の天井部分だ。

 レクチャーを受けたのは『三点確保』。両手、両足のどこか一つを動かし、残り三つはがっちりをホールドするという、ロッククライミングの基本。

 じれったいほど慎重に、レマ・サバクタニが崩落した天井の縁に近づいてゆく。

 ここは崩れやすいので、序盤の難所なのだと説明していた。これが、レマ・サバクタニの遺言になりませんように。

 レマ・サバクタニが、崩落した天井を慎重に蹴る。

 こうした脆い岩場でも、体重を支える程度には、硬い場所はあるそうで、そういった場所を探しているのだろう。

 五分ほど天井の縁をウロウロして、レマ・サバクタニは最初にハーケンを打つ場所を決めたようだった。

 柄に紐を通してあるトンカチを取り出し、落とさないように手首に紐を絡める。

 そうして、ザイルを固定するよう合図を送ってきた。

 私は脚を踏ん張って、ゴム製の固定具を握りしめる。

 これは、摩擦でザイルが流れ出るのを止める道具だった。


 固定したということを示す合図……くいくいと三度ザイルを引っ張ることで出す。

 レマ・サバクタニは固定されたのを確かめるように、ザイルに背中を預ける。

 そして、脚を壁面に付けたまま、両手を離したのである。

 見ているだけで、胃がでんぐり返るような光景だ。

 レマ・サバクタニが岩にハーケンを打ちこむ音が聞こえる。

 カーン、コーンと、ドーム状の空間にも、音が響き渡った。

 その音に驚いたのか『空樹の塔』に翼を休めていた鳥が一斉に飛び立ち、塔の周囲を旋回する。

 今、気が付いたけど、ここはヒカリゴケの光すらないのに、うっすらと明るい。

 光源は一体何なのだろう?

 打ちこんだハーケンにカラビナををカチャリと嵌めて、そこにシュリンゲを通す。

 ファッションでカバンに付けるようなカラビナではなく、ゴツい本格的なカラビナだ。

 そこに、釣り用のテグスを潜らせ、砕いた岩に結びつけて、私の方に投げ上げてくる。

 転がり落ちてしまわないように、その石を足で押さえつけた。

 いよいよ、ここから、足場無しで天井にぶら下がったままの平行移動が始まる。

 さすがに、レマ・サバクタニの横顔が緊張に強張っていた。

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