第12話

 左に傾いたまま、キコキコと物悲しい軋み音を立てて、『レマ・サバクタニ号』が闇に沈む地底湖を進む。

 左に傾いているのは、鮫のような何かをの交戦時に左舷のフロートに大穴が開き、右舷のフローにも小さな穴があいてしまっていて、そこから空気が漏れているから。

 私がペダルを漕ぐ音に混じって、シュコー・シュコーと肺病みたいな音がするのは、レマ・サバクタニが手動ポンプで空気を送り込んでいるから。

 これで、辛うじて私たちは浮かんでいるのだった。

 手を休めると、どこまで水深があるかわからない湖底に引きずり込まれてしまう。

 見上げれば、青白い光が瞬いている。

 五十メートルほど上にある天井に付着した燐光性の地衣類やキノコが光っているのだ。まるで、夜空の星の様に。

 もう、二時間以上ペダルを漕ぎ続けている。

 疲労が溜まりすぎて、もう足の感覚がなくなってしまっていて、自動で足が動いているみたいだった。

 ズブ濡れになった服は、気化熱の効果で容赦なく私から体温を奪い、コア温度を維持するために脂肪を燃焼させる。

 あははは……いいダイエットになるわ、これ。

「気を確かに持て、エリ・エリ」

 ぼそりと、レマ・サバクタニが言う。

 あ、あ、笑い声だけが、口から洩れていたみたい。


 疲れた。


 寒い。


 眠たい。


 わかる。私は今、疲労凍死寸前ということが。

 レマ・サバクタニが何かを言っているが、言葉が上滑りして頭に入ってこない。

 はっと気が付くと、天井を見上げてペダルを漕いでいたはずなのに、横倒しになるところだった。

 転げ落ちなかったのは、杭打盾で支えられていたから。

「休ませてやりたいが、今体が冷えたらもう立ち直れん。体を動かし続けろ。飲めるようなら、これ飲んどけ」

 後ろ向きにレマ・サバクタニが差し出したのは、銀のスキットルだった。

「ゆっくり、一口だけ飲め」

 ポンプが止まっている間、左舷から盛大に泡が出て、みるみる左に大きく傾いてゆく。レマ・サバクタニが慌てて手動ポンプを動かし始めた。

 ペダルを踏みながら、スキットルのスクリューキャップを外す。

 カラメルに似た刺激臭がした。

「なにこれ?」

「ラムだよ。酒さ」

 ポンプを操作しながら、レマ・サバクタニが言う。

 酒って……私、未成年なんですけど? 『お酒はハタチになってから』って、お酒売り場に貼ってあるし。

「A国ではな。F国なら合法だぜ」

 でもまぁ、娯楽の為に飲むわけではなし、一種の気付薬と考えればいいか。

 そっと、ラム酒を口に含む。

 途端に口の中が燃えた(ような気がした)。

 びっくりして、ごっくんごっくんと飲み込んでしまう。

 何か、熱い塊が食道を伝って胃に到達したのがわかった。

 げぼげぼと咽る。

 『あ』に濁点がついたらこんな発音になるかと思われる、今まで出した事がない声が漏れた。

 ドラマとかで、初心な女子がお酒を初めて飲んで「ぽっ」となるシーンあるけど、そんなの無いから。

 そいつ、酒飲める人だから。

 私みたいに『あ』に濁点だから。

 体が熱い。

 眠気はたしかに吹っ飛んだけど、水面は揺れる。

 落ち込んでいた気分は高揚した。

 ペダルを踏む足にも力が籠る。

 大人は辛いとお酒を飲むらしいけど、こういう事なのね。

「馬鹿、いっぺんに飲むな」

 そんな事を言うレマ・サバクタニの後頭部を殴る。

 ついでに、スキットルを返した。

 逆だった。返すついでに殴るのだった。主目的ズレてる。

「いてぇなぁ、このガキ」

 レマ・サバクタニが文句を言っている。

 バーローてめぇ、何が『馬鹿』だ、何が『ガキ』だ、この筋肉ダルマ! レマ・砂漠タヌキ!

 あたいは偏差値六十五の秀才だぞ! 地味でボッチだったけどな。

 それに、あと数年後はボンキュボンのエロエロだぁ、ゴルァ! 今は、ツルペタだけどな。


 地味……


 ボッチ……


 ツル……


 ペタ……


 うっく、ひっく、うぇえええん……こんなとこ、ヤダぁああああ。


 お家にかえりたいぃ……


 気分は乱高下した。

 それでも、ペダルは漕ぎ続ける。

 泣いたら鼻水が出たけど、手洟をかんで砂漠タヌキの後頭部にくっつけてやったわ。

 レマ・サバクタニが、ため息をついて、スキットルをラッパ飲みする。

「やってられん。『あたい』ってなんだよ……ニッカツロマンポルノかよ……」

 あ、あ、あ、スキットルに口つけた~。間接キスじゃん。

 ヒュー! ヒュー!

 指笛吹けないないけど。

 このやろう、あたいのちゅッスは、ウッメのモンだぞ。

 返せ、返せ、返せ、あははははは…… ちゅッスて何?


 あ、あ、あ、 キモチワルイ…… 吐きそう……


 気が付いたら、岸についていた。

 歌を歌ったり、大声でわめきながら、またしばらく漕いだ記憶があるのだけど、上陸した記憶がない。

 なにこれ、怖い。

 焚火が作られていて、そこに背中を炙る様にして、私は体を丸めて横たわっていた。

 頭が痛い。

 頭が割れるように痛いです。アンザイ先生……

 『う』に濁点がついたらこんな発音になるかと思われる、今まで出した事がない声が漏れた。

 薄目を開けると、湖からレマ・サバクタニがザバザバと上がってくる。

 沐浴をしていたらしい。

 私を探査隊全滅現場から助け出してくれたカインの細マッチョな体と違い、まさに筋肉の鎧といったような上半身が水面から突き出ている。

 なるほど、あのくそ重たい鉄槌ハンマーをぶん回せるわけだ。

「起きたか、この酒乱」

 タオルで顔を拭いながら、レマ・サバクタニが湖から上がってくる。

 全裸だった。

 ぐぎゃーと悲鳴が上がった。

 ラブコメだと「きゃっ」とかいうけど、それ余裕ある証拠だから。指の間から注視しているから。

 普通は「ぐぎゃー」だから。視界にも入りません。

「何騒いでるんだ? クソガキ」

「ななな……なにって! 隠しなさいよ! レディの前で、下品なんだから!」

 レマ・サバクタニは、キョロキョロと周囲を見回すようなゼスチャーをして、首をかしげる。

「はて? 淑女レディなど見当たりませんがね」

 ひどい! 野蛮人! 砂漠タヌキ!

 はっはっはっ……と笑いながら、レマ・サバクタニが悠々と着替える。

「何を優雅に沐浴なんかしてるのよ! 馬鹿」

 小石を結構本気で投げたのに、レマ・サバクタニは私の方を見ることもなく、ひょいとそれを躱した。

 本っ当に、憎ったらしい!

「誰かさんに、鼻水やら、反吐やらを頭からかけられましてね。沐浴する羽目になったんですわ」

 あぁ……それは、なんとなく、記憶がある。

「まぁいい、酒の過ちは大目に見るのが世界の約束だ。それより、白湯飲んどけ」

 血中アルコールがアセトアルデヒドに変わった時に頭痛を感じるものだが、それは加水分解で緩和する。

 酔い醒めの一杯の水が旨いのは、体が欲しているから。

 魔導医療が普及する前は、「酔い醒めの 水飲みたさに 酒を飲み」 という短い詩がJ国に伝わっていたぐらい。

 なので、多分血中のアセトアルデヒドが暴れている私は白湯が甘露だった。


 私が白湯をぼけ~と飲んでいる間に、レマ・サナクタニは渡航装置『レマ・サバクタニ号』を分解して、マントと毛布を使って簡単な小屋掛けをしていた。

 焚火の方向が大きく開けていて、熱がこもるようになっている。

「そこの防水箱に、俺の着替えの服がある。適当に選んで着ろ。お前の服、反吐と汗と垢でくせぇんだよ。湖で洗濯して建てた小屋で乾せ」

 臭いのは、なんとなく理解してました。

 でも、その言い方ってないと思う。

 私が睨みつけているのを完全に無視して、今度は鍋を焚火にかけはじめていた。

 また、あの『サバクタニ汁』でも作るのだろう。

 うんざりだ。こっちは食糧を分けてもらっている立場なので、口が裂けてもそんなこと言えないけど。

 ダサい上着しかなかったけど、比較的マシなものを選ぶ。

 着替えと石鹸を持って湖に向かう。

 レマ・サバクタニが作業を始めたのは、「お前の方向を見ないよ」という事を態度で示したのだろうか?

 肩ごしに振り返る。

 焚火に向かって作業をするレマ・サバクタニの大きな背中が見える。

 湖には異界生物がいる。だから、遠くに離れるのが怖い。

 でも、この男がいればなんとかなる……と、思う自分がいた。


 ひょっとして、信頼感?


 否、あきらめの境地?


 否、役に立たないと思っていた私の能力『再起動リセット』が役に立ったので、私が無力ではないと気が付いたから?

 そうだね、それでいこう。

 私だって戦える。

 攻撃魔法もなく、あんな小さな『パチパチ君』だけで、この男は探査隊も到達できない場所に来ているのだ。

 私も、生きてここで服が臭いとか言っている。

 実験室と宿舎を往復していた頃の自分が、まるで遠い過去みたいだ。

 私の事を「誰だっけ」とか忘れる奴ら、見てみろ! 私は生きているぞ!

 ボンキュボンの可能性だってゼロじゃないのだ。

 シャンプーもリンスもなく、石鹸だけで体も髪も洗った。

 洗った髪はよく絞り、後ろにまとめる。 

 今までは、髪が目に入って邪魔だったのだ。

 ゲロと汗と垢の匂いは消え、石鹸の香りがする。

 それだけで、気分がよくなった。

 辛子色のワイシャツだったけど、サイズが合わな過ぎて、まるでぶかぶかのワンピースみたいになってしまっているが、仕方ない。

 なんだか、おじいちゃん家の納戸みたいな匂いがするセーターがあったので、それをマントにする。

 臭いけど暖かい。暖かいけど臭い。

 熱が籠るテントに洗濯物を干す。

 見えないようにしてくれたのは、下着も干すから?

 いやいやいや……、コイツがそんな気を使うわけない。効率がいいからだろう。

 鍋にはぶつ切りの魚が入っていた。

 得体の知れない白身の魚だけど、干し肉以外のタンパク質は久しぶりだ。

「目が退化してグロい外見だが、おそらくマスの一種だ。食えるよ……多分」

 最後の一言が気になったけど、私は「いただきます」といって、魚にかぶりついた。

 ほろほろと身が崩れておいしい。

 塩だけのスープだけど、魚の出汁がきいて、『サバクタニ汁』より数段おいしい。

 レマ・サバクタニは、私を観察していたけど、私がお代わりをする頃に、やっと汁に手を付ける。

 私に毒見役をさせるなんて上等じゃない。

 ふふん……大きな切り身は全部いただきました。

 闇の奥。

 微かな地響き。

 ずずっと汁を啜るレマ・サバクタニの眼がすうっと細まった。

「何の音ですか?」

 迷宮に反響して、咆哮が聞えた。

「大きな何かだよ。一眼巨人に似ているなぁ」

 人間の数倍の大きさの異界生物。

 甲種魔導師でも居ないと対抗できない大物だが、レマ・サバクタニは何事もなかったかのように、食事を続ける。

 私も、スプーンを動かし続けていた。


 なるようにしか、ならないし。

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