第3話
ぱちぱちと焚火の音が聞こえていた。
背中がじんわりと暖かい。
クローブの香りがしていた。
それに混じって、スープの匂いも。
―― ぐう
不覚にもお腹が鳴ってしまった。
花も恥じらう十八の乙女としてはどうかと思うが、絶望的な撤退戦の間、水しか口にしていない。
空腹だった。
空腹を感じるということは、私は生きているのだろうか?
現実感がない。すごく怖い夢を見ていたような気がする。
起きたら、官舎のビュッフェに行って、ヨーグルトとシリアルを食べよう。
そんなことを考えていたら、重苦しい眠りから急激に覚醒する。
そうだ、ここは官舎ではない。
A国で十七番目に発見された地下迷宮『第十七地下迷宮』。
そこに探査に入った『第三十七探査隊』に、臨時雇いで参加していたのだった。
がばっと飛び起きる。
クロムウェル師が遺したランタンに灯がともっており、明るい。
小さな竈かまどが瓦礫を使って作られていた。
その竈の上には小なべがくつくつと煮立っていて、おいしそうなスープの匂いはそこから漂ってきていた。
私は、その竈に背を向けて横たわっていて、冷え切っていた体はだいぶ暖かくなっていた。
「起きたか、チンチクリン」
いきなり声が降ってきて、私は竦みあがった。
「てめぇのおかげで、一日足止めだぜ。まったく、迷惑な奴だよ」
起き抜けに罵られたにもかかわらず、私は思わず謝罪していた。
「す、すいません」
いつもそうだ。
自分が悪くなくても反射的に謝る。
そして、人と目を合わせることが出来ない。
挙句の果てにはぺこぺこ卑屈に頭を下げて逃げる。
そのくせ、あとで腹が立って
「なによアイツ馬鹿じゃないの」
とか言ったりするのだ。本当に自分が嫌になる。
周囲を見渡す。きっと今の私は、巣穴を暴かれたおどおどしたネズミみたいな様子だろう。
まず、天井から丸太が一本斜めに突き出ていて、床に食い込んで止まっているのが見えた。
丸太は削られて段が作ってあり、この丸太を伝って上層階に行ける仕組みらしい。
木屑は、煮焚きの燃料になったみたいだ。
「起きるのか? そのまま寝るのか? どっちだ?」
痰がからまったようなしわがれ声。ヘビースモーカーだった祖父がそんな声をしていた。
「ごめんなさい」
……また謝ってしまった。
鉄槌を振り回しただけで、甲種魔導師でも居ないと倒せない『死霊使い』を消滅させてしまった巨漢が、舌打ちして、ため息をついた。
怖い。それだけで、竦んでしまう。
『なんて失礼な態度だろう』
そう思っただけで、目も合わせることが出来ないのだけど。
「二択なのに第三の回答とか、めんどくせぇ奴だなぁ。まぁいいや、あとは好きにしな」
そういって、小なべのスープを木皿にあけて私の前に置き、木匙とカチカチの乾パンがその横に置かれた。
「どういたしまして。お代は結構でございます。その代り、このランタンを頂いていきます」
私が、おずおずと木匙に手を伸ばしたところで、野営道具を片付けながら皮肉な口調で男が言う。
お礼も言っていないことに、ようやく気付く。かぁっと頬が赤くなるのが分かった。
失礼な態度は、私も同じだった。
「ご、ごめんなさい。あ……あ、ありがとうございました」
返ってきたのは、無言だった。
仕方なしに、乾パンを手に取る。
まるで、石の様に硬くて、割ろうとしても出来ないし、かじっても歯が立たなかった。
「貸せ」
男が、私から乾パンを取り上げると、さほど力を入れていない様子なのに掌で砕いてしまった。
そして、それをスープの中に入れる。
「こいつは、こうやって食うんだよ」
カチカチに乾燥したパンがスープを吸って柔らかくなる。
それを木匙で掬って、食べた。
胡椒と塩の味するスープで、おそらくジャーキーと乾燥野菜をお湯で戻しただけのものだろう。
この塩辛いだけのスープは『空間圧縮』の魔導技術を使った探査隊のレーションと比べると質素な代物だが、それでも、暖かい食べ物はありがたかった。
夢中になって匙を動かす。
あっという間に完食してしまっていた。
「じゃあ、達者でな。皿と匙はやるよ」
男が、一抱えもある樽にストラップを付けたような背負子を担ぎながら言う。
私はこのまま救助されるのだとばかり思っていたので、珍しく男の顔をまっすぐ見てしまった。
デッキブラシの様な短く刈り込んだ強い髪が、ハリネズミの様に立っている髪型だった。
眉は太く、鼻もどっしりと胡坐をかいている。
無精ひげが口のまわりを覆っていて、J国の大使館で見た『ダルマ』という縁起物の人形を、私は思い出していた。
「助けてくれるんじゃ、ないんですか?」
やっと、言葉を絞り出す。
男は困ったなぁという様子でゴリゴリと頭を掻いた。
「お前を助けるってことは、このまま引き返すってことだろ。コストに合わねぇんだよ。ここに到達するまでに、だいぶ時間も金も使っちまってる。お前を助けて、その分が補填できるのか?」
言われてみれば、そうだ。
彼は無許可で盗掘に入っている犯罪者。
私を助け出したとしても、国から褒賞をもらうわけにもいかない。
「それとも何か? お前が払ってくれるのか?」
男の無遠慮な視線が、私の体を査定するかのように舐める。
私は本能的に身を縮こませた。
失笑が男の、武骨な顔に浮かぶ。
「何勘違いしてやがる。俺は、お前みたいなツルペタヒョロガキなんざ、趣味じゃねぇよ」
あまりに失礼な物言いにショックを受け、すぐに言葉が出ない。ぱくぱくと口が動いただけだった。
「まぁ、そういう趣味の奴もいるから、そいつに売り払うっていう手もないわけじゃないが、お前を生かしておくのもコストがかかるし、何より足手まといだ。ま、応援はしているから、頑張って地上まで行けや」
私には珍しいことに、カッと頭に血が上っていた。
こんな見た目が怖い人に立ち向かったのは、初めてかもしれない。
「私は、特種魔導師です! そんな無礼な口を利かれる筋合いは……」
そこまで言って、はっと口を噤む。
冷たい汗が、背中を流れていた。
「あの『死霊使い』が変な事言ってやがったんで、確かめさせてもらったぜ。なんとまぁ『特種』様とはね」
男の凶貌にニンマリとした笑みが浮かぶ。
この男に消滅させられた『死霊使い』は「魔導師の小娘」と私の事を呼んでいた。男は「あ?」としか答えなかったが、しっかりと聞いていたらしい。
魔導師は、国家の軍事力に直結していることから、誘拐ビジネスが横行している。
こんな場所で、しかも犯罪者と二人っきりの状況で、口を滑らせていい事柄ではなかったのだ。
まるで、稲妻のような速さで、男の手が伸びてくる。
避ける間もなく、大きな掌が私の首を鷲掴みにしていた。
「ひゅっ」
気管が締まって、声も出ない。
男は軽々と私を片手で持ち上げてしまった。
今、私は更に首が締まらないよう、爪先立ちになっている状態だ。
手の甲に爪を立てて引掻いてやったが、男は痛くもかゆくもない様子だった。
「いいか? ヒョロガキ。こっから先は、心して答えろ」
男の手が少し緩む。私はむさぼるように空気を吸った。
「てめぇには四つの選択肢がある。一つは、このままここに留まり救援を待つという選択。もう一つは、ここから第二層に上がって自力で脱出するという選択。もう一つは、俺と行動を共にするという選択」
男はここで言葉を切り、私の眼をまっすぐ覗き込んでこう言ったのだ。
「もう一つは、ここで楽なるという選択だ」
楽になるというのは、つまりここで死を選ぶということ。
男がポキンと首を折ってくれるのだろうか。
男の眼を見る。
慈悲もなく、嫌悪もない。
まるで、路傍の石を見ているような眼だった。
意外なことに、私が感じたのは恐怖でも絶望でもなかった。
生まれて初めて、激怒していたのだ。
こんな奴に殺されるなんてまっぴらだと思っていたのである。
「一緒に行きます。連れて行ってください」
死んでたまるか、石にかじりついても、生きてやる!
「それだけじゃ、ダメだな。俺と行くなら、お前がどんな役に立つのか、必死になって俺に売り込め」
首から手が離れた。
私はその場にへたり込んでしまったけど、まっすぐ男の顔を睨みつけていた。
酷い男、酷い男、なんて酷い男なのだろう。
自分に縋り付かせておいて突き放すとか、最低だ。
「今、証明します。私が引掻いた手を見せてください」
自分の能力は、国家機密だ。『特種魔導師』を拝任した時に厳密な守秘義務を負っている。
だがもう、どうでもいい。
無視され続けた学生時代の事や、実験動物扱いする研究員の事や、私の給料を当てにして労働をやめてしまった両親の事や、死ぬほど怖かった探査隊での出来事が、頭の中をぐるぐる駆け巡って、もう思考がぐちゃぐちゃになっていた。
男が手を差しだしてくる。
私が引掻いた手の甲には蚯蚓腫れが出来、血がにじんでいる。
そこを殴る。男が「痛て」と小さい声で言った。ざまぁみろ。
本当は、触れるだけでいいのだけれど、私はなんだか狂暴な気分だったのだ。
その瞬間、男の手から蚯蚓腫れは消失する。
これが、私の『魔導』。前例のない能力。研究員はこれを『
出来事を『そんな事は無かった』状態に戻す能力なのだった。
発動条件がシビアなので、いまいち使いどころが分からないけれど、レアであるので、『特種』に位置づけられていたのだった。
「おお、チンチクリンのヒョロガキのくせにすげぇよ! 『
似ているけど、違う。
神聖魔導に属する『回復』は、祈りの力を奇跡に顕現させる能力。
従って、厳しい戒律と信仰の心が必要だ。
私の『
だが、そんな説明をこの野卑な男にするつもりはなかった。
『チンチクリンのヒョロガキ』って何よ。私だって、ラブレターとかもらった事だってあるんだから!
力を見せつけてやったのに、ムカムカが収まらない。
「変な呼び方やめてください! 失礼だと思わないんですか! 私にはエリエッタ・エーリカって名前が……あ……」
また、男の顔がニンマリとする。
勢い余って、本名を口にしてしまった。
人類存亡をかけた聖戦のさなか、魔導に関する研究がすすめられ、『名前』はそれ自体が一種の呪術であると発見され、その結果国名が全部アルファベット一文字に変えられたのだった。
任官の時の注意事項に『魔導師は本名を名乗ってはいけません』と書いてあったのに。
「いや、私はエリザベード……」
慌てて言い直したけど、もう遅かった。
「ほんじゃ、今からお前はエリ・エリな」
男が私の通称を決めてしまう。
「もう、いいです、それで」
チンチクリンのヒョロガキより、ダサいけどまだマシ。
「あなたは、何と呼べばいいのですか?」
煮えていた脳が少し冷静になる。
身分を知られ、本名まで知られてしまった。
この男が『言霊放ち』だったら、私はこの男に逆らえない人形にされるところだ。
「俺の名は、レマ・サバクタニ。本名だ」
あっさり本名をバラすなんて、変な奴。
「言っとくが、なぜか俺の名は、『言霊放ち』に縛られないんだ。だから、本名でも問題ない」
たまに、そういう者はいる。
言霊を恐れ敬っていたある民族は、言霊に支配されにくい名前をわざとつけていたという。
不浄な言葉とか、神聖な言葉などがそうだ。
こうした『力ある言葉』はわざとつけても効果がなく、偶然名付けられないと意味がないらしい。
そういえば、『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』と続けて読むと、古代神聖語で、
『神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや』
……になる。
磔に処され、その後復活した救世主が、絶望したときに吐いた言葉だったと思う。
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