第2話

 私の目の前で、頼りなく炎が揺れ、ジジジ……という小さな音を立てて香油ランタンが消えた。

 この小部屋の残り香が消えたとき、私は無防備となってしまう。

 両手で握りしめた、火打石式拳銃が小刻みに震える。

 抑えようもなく、カチカチと歯が鳴るのは、寒さのせいばかりではない。

 ずるずると何かを引きずる音。

 何をしゃべっているかわからない早口のしゃべり声。

 得体の知れない物音が、隠れている小部屋の前を通り過ぎる度、私の心臓は飛び出しそうなほど脈打っていた。

 香油の香りが消えてゆく。

 結界が消滅した実感があった。

 かび臭い匂い。

 生臭い獣臭。

 しめった苔の香り。

 香気に押しのけられていたそれらの匂いが、どっと押し寄せてくる。

 地下迷宮の壁に、まるでいやらしい穢れのようにこびりついているのは、淡い光を放つヒカリゴケ。

 ランタンが消えた今、光源はそれだけだった。

 救援を求めて、長剣だけを背負って走って行ったカインのその後は分からない。

 精鋭揃いの第三十七探査隊が一週間もの時間をかけて、やっと到達した道程を、身一つの男が走って抜けられるわけがない。

 たとえ彼が、『遺産管理庁』の鍛えられた兵士であっても。

「こんな所で、一人ぼっちで死ぬのかぁ」

 そう言葉にだすと、涙が出た。


 十六歳になると全国民が受ける『国民検査』で、私から『魔導因子』が発見され、それが『特種』に分類される能力であると判明して以来、私は国家の所有物になり、保護の名目で官舎を与えられた。

 要するに、態のいい軟禁だ。

 国民の義務である『奉仕労働』も免除され、小さな運送会社に勤務する父親の給金の数倍もの給金が私に支払われるようになった。

 学校は、行かなくていいと言われた。

 睡眠時に『囁き妖精』が私の耳から知識を流し込んでくれており、義務教育以上の知識が私が学習した記憶がないのに、存在している状態だった。

 昼間は、得体の知れない実験の被験者。

 薬を飲んだり、注射されたり、絵を描かされたり、そんなことの繰り返しだ。

 頭がクラクラしたり、吐き気がしたり、体中に蕁麻疹が出たりしたけど、私はそれで給料をもらっているのだ考えれば、苦にはならなかった。

 官舎と実験室との往復。

 それを、もう二年も続けている。

 孤独に耐えきれなくなる者もいるようだが、私はそうならなかった。

 こんな生活になる前から、友人なんていなかったから。

 私は、トイレの個室で一人お弁当を食べるような子で、それが苦痛と考える事がなかったのだ。

 変人扱いされ、なんとなく敬遠される子。それが私。

 イジメは私のいた世界にもあったけど、私はイジメすらされない。

 同級生のうち、何人が私を覚えているだろうか?

 この危険な地下迷宮で、死にかけているなんて、誰が想像するだろうか?

 私の仕送りをアテにするようになって、父は仕事やめてしまった。

 母から来る手紙は、金の無心ばかりになった。

 少なくとも、この二人は私を悼んでくれるだろう。

 一人娘だし。貴重な金蔓だったのだから。

 私が死ねば、遺族恩給も出る。

 公務上の死なので、死亡退職金も出る。

 改めて思い知らされる。

 私には、何もない。

 私には、誰もいない。

 それが、こんなに怖いとは、思わなかった。

 『想像力に欠ける』

 『感情が薄い』

 『何を考えているのかわからない』

 『そばにいると無気力が伝染する』

 私の周囲の人はそう私を評する。そして離れてゆく。

 考えるのは苦手だった。

 誰かと会話するのも苦手だった。

 上位の者に命令されて動くならそれなりにこなせるのだけど、自分で考えて、自分で行動するのは、なんだか怖かった。

 だから、私を実験動物程度しか見ていない研究室の人たちとは上手く付き合えていたと思う。

 それが、健全な精神のありかたかどうかは、さておき。


 思考がぐるぐると廻る。

 私の中の冷静な私が「これはパニックの前兆」と分析する。

「いっそ、拳銃を咥えて引き金を引こうか?」

 とも考えたが、実行しようとすると、手が震えた。

 誰かに「死ね」と言われたら、あっさり実行できそうな気がするのに、私は自分で決めることができない。

 ただ、怖い。

 絶望的な撤退戦の途中で見た、死の映像が頭の中でフラッシュバックする。

 小鬼どもに担がれて、闇の奥に運ばれてゆく女性魔導師の眼が、今でも忘れられない。

 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い……

 泣き叫びたいのに、何か物音を立てたら、異界の生物の注意を引いてしまうようで、声すら出せない。

 私は、国家の宝『特種魔導師』。

 でも、そんな肩書は、ここでは何の役にも立たない。

「怯えたネズミの匂いがするぞ」

 耳元で、そう囁かれたとき、私は思わず悲鳴を上げてしまった。

「怯えたネズミの匂いがするぞ」

「怯えたネズミの匂いがするぞ」

「怯えたネズミの匂いがするぞ」

 口々にそう言いながら、私が隠れている小部屋に現れたのは、『囁く青い炎』。

 これは、鬼火とか狐火などと言われる、揺らめく炎の形をした精霊で、別名『災厄の前兆』。

 これ自体は囁くだけで何か悪さをするわけではないが、断末魔の人の叫び声や、嘆きが大好きで、高位の異界生物が現れるところに先回りする。

「ああ、そうだね。怯えたネズミの匂いがするねぇ」

 壁をするりと抜けて出てきたのは、ああ……最悪だ……『死霊使い』だった。

 魔導研究に没頭するあまり、魔そのものに魅入られてしまった、魔導師のなれの果て。

 これに捕獲されるのは、最低の死に方の一つと言われている。

 人には想像も出来ないような狂った実験の被験者にされ、いっそ殺してくれと願う様になるらしい。

 ガチガチガチと歯が鳴る。

 肩ごしに振り返った死霊使いの、骸骨に皮を張り付けただけのような顔が、歪んだ。

 笑ったのかも知れない。

 期待に震えて、『囁く青い炎』が漂う。

 やっと、カインから受け取った拳銃を思い出す。

 それを咥えて、引き金を引いた。

 何も起こらなかった。

 私の手から、拳銃がもぎ取られる。

「拳銃の使い方も知らぬのか。これは、着火用の火薬が収まっている薬室の蓋を開けて、火打石が挟まっている撃鉄を上げる。そして、引き金を引くと……」

 バンという音を立てて、『死霊使い』の手の内で拳銃が弾けた。

 壁面に火花が散り、浄銀で作った弾丸が壁に平たく変形して食い込む。

「……こうして、発射される仕組みなのだよ」

 そういって『死霊使い』が拳銃を私に返してくれた。

 火薬も弾丸もないこれは、金属の筒と木の道具にすぎない。

 絶望が私の顔に出たのか、ゲラゲラと黒いローブの裾を震わせて『死霊使い』が笑った。

 お追従するように『囁く青い炎』が、

「おかしいね」

「おかしいね」

「おかしいね」

……と、唱和していた。

 ぐらっと地面が揺れる。

 気絶でもするのかと思ったのだけど、違った。

 本当に地面が揺れたのだ。

「おや、珍しい。地震かな?」

 いや、一瞬だけ揺れてプツリと止まる地震など聞いたことがない。

 そんなことを考えていると、もう一度、ドスンという揺れ。

 『囁く青い炎』が、不安げに一か所に寄り添う。

 パラパラと土が天井から降ってきた。

 『死霊使い』が天井を見上げる。


「……い ……こい ど……こい」


 何か掛け声の様な物が聞えた。

 一定のリズムを持って、振動が伝わってくる。

 何かが来る。

 それも天井から。

 私は、はいつくばって部屋の隅に移動した。

 『死霊使い』は部屋の中央で、天井を見上げている。


「……すこい どすこい どすこい」


 今や、はっきりと声が聞こえる。

 誰かが、この上で土木工事をしているのだ。


「うおりゃ! どすこおおおおい!」


 ひときわ大きな掛け声とともに、荒く削った丸太の先端が天井から飛び出し、それと一緒に土砂や瓦礫が大量に『死霊使い』と『囁く青い炎』の上に降り注ぐ。

 悲鳴が上がる。私と『死霊使い』と『囁く青い炎』の合唱だ。

 土砂と瓦礫で砂塵が巻き上がり、息も出来ない。

 だが、何か黒い塊が、どすんと瓦礫の上に着地するのが、見えた。

「やはり『要』はここか」

 砂塵の中から浮かんだのは、巨漢だった。

 身長は二メートル近いだろう。

 無造作に鉄板を張り付けたような、大雑把なプレートメイルを身に着け、背中には樽型の背負子。

 肩には、黒光りする木製の柄に鉄塊をぶっ刺しただけの巨大なハンマーが担がれていた。

 顔は砂塵で見えない。

 新手の異界生物かと思ったのだけど、どうやら人間の様だった。

 瓦礫の下から、すうっと『死霊使い』が浮かび上がってくる。

 心なしか、ローブがボロボロなのは、彼らが遣う『物質透過』が間に合わなかったのだろう。

 それだけ、魂消たということ。

「地下迷宮で、壁を壊すのは、反則でしょう」

 『死霊使い』が、天井から出てきた男を指さして、糾弾する。その指が震えているのは、怒りゆえか、天井が崩れた恐怖ゆえか。

「反則だ」

「反則だ」

「反則だ」

 と、瓦礫の下から這い出してきた『囁く青い炎』が唱和した。

「魔導師の小娘と、屈強な男。まぁ、いい実験材料が揃いましたので、良しとしましょう」

 恐ろしい言葉に、その男は

「あ?」

 という一言を返しただけだ。

 まるで、チンピラみたいな口調だった。怖い。

「貴様には、苦痛を与えてやろう。大きな苦痛だ。苦しんで、死ね」

 普通ならすくみ上ってしまう『死霊使い』の言葉にかぶせて

「死ね」

「死ね」

「死ね」

 と、『囁く青い炎』が囃し立てていた。

「ふふふ……貴様に教えてやろう、私の名前は、魔導師アルフォ……」

 その口上を遮って、

「やかましい!」

 と一喝、男が肩に横たえたハンマーを無造作に叩き下す。

 だが、その巨大な鉄槌は、ガチンと音を立てて、『死霊使い』の頭上で止まってしまった。

 これが、人類が滅亡寸前まで追い詰められた原因、『装甲被膜』だ。

「口上の途中で攻撃するのは、反則だよ」

 余裕ある口調で『死霊使い』が言うのは、この男の様な力技で押してくるファイタータイプは、『物質透過』や『装甲被膜』などの術があることから、死霊タイプの異界生物にとってはカモだからだ。

 支援の攻撃型魔導師がいれば別なのだけれども、この巨漢は単独行動らしかった。「スカした野郎だな。気に入らねェ」

 一撃が通用しなかったにもかかわらず、男の口調に焦りはない。

「お得意の、『装甲被膜』か? それで、俺が詰んだと思ったか? そうでもねぇよ」

 男の宣言と同時に、ドンという爆発音。

 大きなハンマーの頭は、乱暴に造られた雑な円錐形をしており、尖った方でぶん殴る『戦槌』の態を成している。

 その底辺にあたる部分が、突然爆発したのだ。

 拳銃を発射した時と同じ匂いがした。

 これは硝煙だ。鉄槌の後部で火薬が爆発したのだ。

「おお!」

 ぐぐっと地面に押し付けられて『死霊使い』が驚く。

 ドン ドン ドン と、連続して爆発が起こった。火薬の爆発力で、鉄槌が押し込まれてゆく。

 すると、いかなる仕組みなのか『装甲被膜』を打ち破って鉄槌の先端が、『死霊使い』本体に食い込んでゆくのが見えた。

 『装甲被膜』を破るには、魔導技術が必要。

 魔導を帯びた金属なら、それが可能だけど、どう見ても粗雑な鉄塊だ。

 鉱山に住む『冶金の精霊』が鍛える『ミスリル銀』。

 深い森に住む『森の護り手』が少量生産する『オリハルコン』。

 これら希少な魔導金属は、一種の禁制品であり、どう見ても国家公務員には見えないこの男が所持しているはずはなかった。

「なんだ! この先端は!」

 しゅうしゅうと瘴気を上げながら、『死霊使い』が悲鳴を上げる。

「ヒヒイロカネ」

 百年前の『第四次聖戦』を生き延び、国家の態を残すことが出来た十ヵ国のうち、今はJ国と名乗る我々A国の古い同盟国があるのだけど、その国で伝説に残っている謎の金属が『ヒヒイロカネ』だ。

「あ……あれは、単なる都市伝説でしょ」

 さすが、魔導師のなれの果て。じわじわと鉄槌が食い込んでくる危機的状況にあって、『死霊使い』が質問する。

「現に存在してるじゃねぇか」

 また、爆発が起こる。

 反動で、ぐいっと先端が食い込んでゆく。もはや、『物質透過』を使う余裕はないみたいだった。

「ど……どこで、手に入れた?」

 完全に『装甲被膜』は砕け、男は今や力で『死霊使い』の体を縦に裂いていた。「Jネット・タナカの通販番組で売ってたぜ」

「う……うさんくさ……」

 あまりの結末に力尽きたのか、『死霊使い』が消滅する。

 いつの間にか『囁く青い炎』は消えていた。

 男が、地面からひょいと土木道具の様な武器を肩に担ぎあげ、初めて私の存在に気が付いた。

「なんだこの、チンチクリンは?」

 鉄槌を振りかぶって、そんな失礼な事を言う。

 だが、緊張の連続に、私の精神は限界に来ていた。

 ふっと視界が陰る。


 私は、失神してしまっていた。

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