第16話 草刈柊子の償い
雲一つない天から降り出した雨は、確かな現実と虚像の間にある絶対的な隔たりを突き付けてくる。
突然走り出していった
呆気ないほどに、受付での対応は軽いものであった。
どころか、その
それは果たして、良いこと、なのだろうか。前提として捉えていた現状維持、及び柾樹の不変が直前に脆くも崩れ去ってしまっている今となっては、もうこの結末の是非に関しては評価すら出来ない。
「……それで、これから、どうしようか?」
病院を出、指針を喪い、方針を決めかねている二人を追い遣るように降ってきた雨、を避けるように入った病院前の通りの小さな喫茶店。とりあえずと注文したホットコーヒーが配膳され、
白磁のコーヒーカップから立ち上る湯気が揺蕩い、解けてゆく。
とりあえず、することは、しなければならないことは、決まってはいる。
「どうしようも、ないわ。柾樹からの連絡を待つしか」
角砂糖を二つと、ミルクを一つ。普段は絶対にしないものを加え、無理矢理にでも糖分を摂取しようとする。
事実、神藤家のものであろう車を追って行ってしまった
そのため現状、向こうの方から連絡をとってくることを待つか、
「だよね。まあ、仕方ないか。ここであと一時間も待てば十分、かな」
「そう、ね」
道路に面した窓を流れる水滴を眺めながら、柊子は気のない返事をする。
別にこのような雨程度では捜索の足を留めるには至らないのだが、それ以上に、今柾樹と向かい合ったとして、何を話せばいいか、どんな顔をしてどんな振る舞いをすればいいのかが分からないことが、重苦しく足首に纏わりついているが故に。
自分勝手極まりない願望を、要求を見透かされたうえにはっきりと否定されてしまったのだ、合わせる顔もない後ろめたさが圧し掛かるのも自然といえよう。
それに。もう現在の吉野柾樹は先ほどまでの吉野柾樹とは異なっている。少なくとも神藤花菜の実在を確認し、もしかすれば接触を果たしている可能性すらあるのだ。蓮に再会した時点で気力が多少戻る程度だった彼が、ここに至るまでの全ての努力の基となった想いの根底に触れることで、どれほどの変貌を遂げてしまっているのか。正直恐ろしくて、柊子は想像内だけでも直視できる気がしなかった。
だからこれは、柾樹を待つ行為であると同時に、柊子が彼に待ってもらうための時間でもあった。
「でも、あれは本当に花菜の家の車、だったかな? 見覚えはある、けども」
「実際に病院から出てきた時間が合っていたこともあるし、私の記憶上では神藤家にあった車と同じナンバーであったし、ほぼ間違いはない、と思うけれど。重要なのはそこではないわ」
喫茶店の前の歩道には薄い水たまりができかけている、しかし店内から見上げた空は闇に包まれ、火の花で彩られている。乱暴なまでに。
「柾樹があの車の中に花菜を見出した以上、実際に追いついて確かめて人違いでした、なんてことがない限り、彼の中ではあれが花菜の乗った車になるし、花菜の実在性は証明される」
「花菜はもうどこにもいない、と主張するには、
それは、極めて難しい問題であった。そもそも「そういう存在を仄めかしている」というスタンスに対して、真っ向からの否定は分が悪すぎる。それに、いると信じられている物事・人の説を打ち砕けるのは新たな信仰の対象だけであり。今更、彼に別の信念を押し付けることは不可能に限りなく近い。
唯一僅かにでも期待できる道筋としては、先程言った通りの、柾樹が走り去る車に追いついた上で尚且つそれが神藤家のものでは無かった場合が挙げられるが、長期に渡る不健康な生活で構築された彼の身体能力でそれが可能かといえば。まあ、不可能である。
車の方から待ってくれるのなら追いつけはするだろうが、それは限りなく神藤家の証明になる。連絡が断たれている点から、それも結局は有り得ざるコトだと断言できるのだが。
要するに。現状維持を望む柊子らにとっては、既に詰んでいる、ということであった。
「終わっちゃった、か。いつまでもあのままじゃあ居られないってことは、わかってたのになあ」
こうしてみると、惜しいなあ。
蓮は、頭の後ろで手を組み、反り返って天井を見つめながら呟いた。わざと、確実に、柊子に聞こえるように。
「でも、心地良かったんだよな。何も新しいことをしなくても、今のままでもいいっていう、存在価値が認められているっていう状況はさ」
人は、より安楽で安全な方向に流れがちだ。
新しいことをするには、それまでのことを繰り返すよりもずっと労力が必要で、それまでと違うことを始めるにはより多くの勇気が必要で。
変わるより、そのままでいる方が、ずっと楽なのだ。行き着く先が見えていても、今より悪くなるかもしれないもしもの未来を考慮すれば、そこに留まる選択肢は逃避ではなく、安定とも言える。
「……じゃあ、どうして」
穏やかな音楽が流れる喫茶店の中、他数名の客がノートにペンで書き込む音、ページを指でめくる音、たわいも無い雑談の音が混ざり合い、形を成さずして意味を成す。
そんな中で柊子と蓮は、何の音も発しようとしない。意図的な沈黙が、まるでその席には誰も座っていないかのような静寂の領域を作り出した。
変わらず天井に向いていた蓮の眼球だけが、柊子を向く。次いで首、上体と、滑らかに戻される。
この会話の中で、初めて目を合わせて。言葉が交わされる。
「わかってたからさ」
さも、何とも無いことであるかのように、蓮は軽く言い放ってみせた。
実際、彼にとっては「そう」なのであろう。その引き金となり得る神藤花菜、彼女を探すという行動をとっていた彼にとっては、既に過去となった今は永遠などではないと、とっくに理解していたのだ。
「でも、それは君も同じだろう?」
息が止まる。
成長期を経て視力が落ちたのか、掛けられていた銀縁の眼鏡越しに迫り来る視線は。確信と嫌悪、そして同情に満ちていた。
「臆病な僕よりも、ずっと深く、はっきりとわかっていたはずだ」
永遠を願う者ほど。今というモノの可変性と流動性、その脆さと儚さを理解している。理解していなければ出てこない発想、発言、願望は、他の何よりも当人の矛盾を眼前に、乱暴に、無遠慮に、突き付けてくる。
強く願えば願うほど。それが叶わないものだと、理解していることになってしまう。
誰だってわかっている。わかっていて願うのだ。
現実から目を逸らすために、夢想に身を浸すのだ。
「……だから、何だって言うの」
「それ以上は無いさ」
強烈な糾弾、もしくは叱責が飛んでくるものと想定していた柊子の怒気を孕んだ声は、先程と同じような、空気以外を含んでいないような蓮の声にぶつかって崩れる。
「別にそれで何か言おうっていう訳じゃあない。僕はそんなことを言えるような立場じゃないし、持ち合わせてもいないし」
彼は身を乗り出し、もう細くなってしまったコーヒーの湯気に当たって眼鏡を曇らせた。
「おっと」
退いた勢いのままどかりと椅子の背もたれに体重を預けながら、蓮はわざとらしく、芝居掛かった様子で続ける。
「僕たちは、いい加減、歩き出す必要がある、ってことだけだ」
この二人だけの停滞。
吉野柾樹は、辿り着く先が無くとも、ずっと我武者羅に進み続けてきた。
対して。草刈柊子と榊原蓮は。
「そろそろ思い出離れの時間だ。この幻想を終わらせなければ、永遠に秋は訪れない」
窓に当たる水滴。
次々に瞬く光の奔流。
雨樋から滑り落ちてくる空の塊。
火薬の群れが暴れ狂う爆心地の轟き。
確かな矛盾が世界を、常識を蝕んでゆく。
高く澄んだ夏の夜空を、風物詩の花火をなぞるように春の雨風が降り注ぐ。
「わかってた……」
自然と、視線が下を向いた。
彼の顔を、眼を直視できない。
ガラスを透過する筈もない雨粒が、何故だか頰を伝う。
わざわざ声に出して、こうして言うまでもない。蓮の指摘通り、柊子は最初から理解できていた。自覚していた。始まった時点で、花火の幻覚に囚われた瞬間から、その終わりを確信していながら、必死に目を逸らし続けていた。幻想だけを見つめていた。
それだけのことだった。
でも、それが全てだった。
わざわざ蓮に、声に出して指摘してもらわなければ、向き合うこともできないほど。
「これからを考えよう。僕たちがするべきこと、しなればならないことを」
この日、草刈柊子の幻想は脆くも崩れ去った。
打ち上げられた炎の花々は、正真正銘、彼女を脅かす呪いと化した。
心に縫い付ける一輪の花は、まだ抜けない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます